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そか、やっぱり知らんか。それはな…

『見よ、勇者は帰る』という曲を知っているだろうか。
いかにもな曲名で分かるように、これはクラシックで、『マカベウスのユダ』という音楽劇の中で流れる一曲だ。

と説明すればよけい難解に思え、知らん!と一蹴されそうだが、聞けばおそらくほぼ全員、知ってる!となるはずだ。

BGMのある表彰式なら、きっとこの曲が流れるだろう。

でも曲は聞いたことはあっても、曲名を知っている人は少なそう。
たぶん「ほら、表彰式で流れるやつ」とか「ちゃーん、ちゃーん、ちゃ、ちゃーん、ちゃん…」などと呼ばれていることだろう。

曲名を知りたい時、どうするか。
――そんなのググるに決まってる。
今どきはそうだろう。

同じ問いを40年前の自分に投げかけてみる。
――えっと、どうする?
――音楽の先生に聞いてみたら?
――運動会用のテープに曲名書いてるかも…でもそれ、誰が持ってる?
――レコード屋に行けば分かるのでは?
――それで分からなければ、ラジオの電話相談室に聞くしかない…
といったところだろうか。

それほどまでに、ものごとを知ることは難しいことだった。
調べ回ったあげく、分からずに終わることもざら。
それに比べたら「表彰式 BGM」と入れさえすれば瞬時に答えにたどり着く現代は便利だ。

しかし、それを便利の一言で済ませてよいのだろうか。

現代の調べものは、たとえば「表彰式」「BGM」など、対象の性質や要素を表す言葉、すなわち検索キーワードを用いる。
いわば、執事にネットという巨大な事典を開かせ、キーワードが本文中に使われている見出し語を探させるようなものだ。

これに対し昔は、キーワードだけでは取りつく島もなく、そこから連想し、誰に聞けば分かるか、どこを見に行けば分かりそうかと探していった。
頭で情報をネットワーク化し、自らそこへ飛び込んで探索するのだ。

これこそ人間の探求のエッセンスであり、そのプロセスを経ない現代の検索手法に一抹の不安を覚える。

***

小さい頃、得意顔した父からこの曲の名を「知ってるか?」と訊かれた。
たまたま車のラジオで仕入れた豆知識だったのだろう。
「そか、やっぱり知らんか。それはな…」

この記事を書くにあたり、父から教えてもらったその曲名で検索してみた。
ん? 全然ヒットしない! 父上?

「そか、やっぱり知らんか。それはな、『アラベスクのユダ』て言うんや」

『見よ、勇者は帰る』でもなければ『マカベウスのユダ』でもないガセネタを40年間大事に信じ込んでいた。

(2021/5/6記)

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