予期せぬ偶然とやらを楽しみにする心を携えて
エッセイって切り取った日常の加工だ、とよく思う。
日常のひとこまを、自分なりの視点や思考で加工してみせる。
仕上がった作品は、そうそう!と膝を打って共感できるもの、え?ホンマ?と訝しいもの、へぇそうなんやと目が開けるものなどさまざまだ。
僕はこのnoteにそんなエッセイを書き連ねている。
…と思っていた。
過去には確かにエッセイをせっせとあげていたし、独自の視点がおもしろいと評してもらえたこともあったから。
ところが、最近の記事をいくつかざっと流し読んでみると、あれ?
およそエッセイとは言いがたいものになっている。
単に日常を切り取っただけの、無加工日記、無修正メモだ。
エッセイでなければ原稿料をもらえない、なんてこともないから、別に日記だろうがメモだろうが何だっていい。
しかし、自分はエッセイを書いていると思っていたし、記事にはお決まりのように「#エッセイ」とつけてきたから、ちょっとしたショックではある。
内容の変化に気づいていなかったということは、エッセイを書かねばと意識してはいなかったことの裏返しでもある。
いったい僕は何を書こうとしていたのか。
*
昨日、「リアル会のお知らせ」という記事をあげた。
3年前にnoteを始めたときにはよもや自分がそんな投稿をするとは想像もしていなかった。
むしろ、誰かがそんな記事をあげていたら、胡散臭いものに出くわしたように一瞥し、スキも押さずに閉じていたのではないかとさえ思う。
どうやら今の僕は、noteで表現するだけでは飽き足りないらしい。
昨年6月、会社員生活を小休止させたことが影響しているのだろうが、人との繋がりをこのnoteに求める度合いが増している。
「リアル会」を開いて僕はどうなりたいのか、正直よく分からない。
でも「リアル会」を開くのは今だと僕の直感は言っている。
*
ならば、今はただ心の赴くまま、進んでみたい。
その先に何があるか、そんなのは今いる場所からは分かりっこない。
そこに行ったら初めて見える景色を楽しみにしよう。
そうであるなら、上述の「何を書こうとしていたのか」にも答えられる。
何のゴールも意識せず書いていた、がおそらく正解だろう。
それがエッセイになるか日記になるかは、自分でもよく分からずに。
僕はずっと偶然の産物に身を任せてきたのだ。
とすれば、それはこれからも同様だ。
もちろんこれからも言葉を大切にし、文章を紡いでいく。
それが僕の、今できる唯一のことだと思うから。
予期せぬ偶然とやらを楽しみにする心を携えて。
(2023/1/12記)
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