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エビのコキールとエビフライ。


パリのマレ地区にあるBHV(べー・アッシュ・べーと発音)というデパートに時々コーヒーを飲みに行く。19世紀半ばに生まれたこのデパートは、日本人にも大人気のオペラ地区にあるプランタンや ギャラリー・ラファイエット などに比べると観光客も少なくこじんまりとした印象がある。最近全面的な改装も終えて、より若々しくなった老舗デパートだが、規模的には大型の【駅ビル】といった感じだろうか。上の階に行くに従い人が少なくなってゆき、なんとなくのんびりしたムードが漂う。隠れんぼのひとつでもできそうなデパートの上の方の雰囲気は万国共通である。上階にはアロマキャンドルや照明器具、家具などのインテリアに関するもの、そしてベッドやクッション、リネン類の売り場がある。

私のよく行くカフェ・コーナーは最上階より一つ下の階にある。エスカレーターを降りるとすぐ左に子供服売り場があり、可愛らしいパステルカラーの洋服やぬいぐるみ、センスの良い素朴なおもちゃなどが並ぶ。そんなフロアの奥に驚くほど眺めの良い食堂と、その脇に小さなカフェ・コーナーがある。
【驚くほど眺めの良い】と書いたが、これは食堂の奥の壁が全面窓となっており、ここから河(セーヌ)に至る通りや人々の往来、教会の屋根など普段通りからでは絶対に見ることのできない風景を楽しむことができる。
窓の一つはドアになっていて、暖かい季節はここからいくつかのテーブルと椅子が並べられた細長いバルコニーに出ることもできる。ここからはパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)の歴史ある建物を高い位置から間近で見ることができ、陽の光の傾き具合では舞台装置のようなドラマ性を持って浮き出して見える窓の装飾や彫刻の数々が美しく、わたしはふと自然現象までを考慮に入れた緻密な設計という点において、これも夕日でひときわ輝きを放つと言われるウィーンの宮殿などに使われたシェーンブルン・イエロー(別名ハプスブルグ・イエロー)を思い浮かべた。
因みにこのレストランは建物の最上階によくある高級レストランなどではなく、あくまでもセルフサービスの気軽な【食堂】であるところもユニークな点で、となりのカフェ・コーナーからコーヒーを持ってきてこの眺めのいい食堂で飲む事もできる。

私はある冬の午後、このレストランの席で小さい時の自分と母に遭遇するという白昼夢を見た。

私はいつのまにか東京のデパートの中のレストランに座っていて、彼らは私の目の前の席にやって来た。5歳くらいの小さな私は真っ赤なベレー帽を頭の上に乗っけたまま椅子に腰掛け、母は黒いヴェルベットの襟付きのコートを脱いで椅子の背にさっとかけてからわたしの向かいに座った。
母がページをめくるたびにページ同士が少しくっついて「ぺりっ」と音のする、あの昔風の茶色い革張りのメニューを開く姿をじっと見つめるわたしの両足は、脱いだときに気味の悪い模様の跡がつくので大嫌いだった真っ白なレースの靴下に包まれていた。少し離れたところに立って私たちを見守っていた、感じの良い中年の給仕長が頃合いを見て近づいてきた。母が注文するものはもうとっくに知っている。
私がエビフライで母はエビのコキール。
シミひとつない真っ白なテーブルクロス越しに見る母は今の私よりもやや若い年齢で、お気に入りの黒いエレガントなクラッチバッグをテーブルの隅に置いている。私が母に連れられてよく行ったレストランもデパートの上の方にあり、私は今でもこの優しい給仕さんの顔を覚えている。

こんなふうに、デパートのレストランは私のなかで軽々と時空を超えた存在なのだ。
イマジネーションの中でパリや東京のデパートでの思い出の数々が勝手に結びつき、時の流れと共にさらに奥行きのあるひとつの空間が出来上がっていく。あたかも、このどこか非日常的な空間である【デパート】という舞台装置がそこで私が体験した様々な出来事を融合して、記憶の中にひとつの懐かしい世界を作り上げているかのようだ。そんなことを考えながら、わたしはまたデパートへ行きたくなった。


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