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ローマの修道院そして。。

祖母が亡くなった年のはじめ、私は年内にオーケストラを辞める決意をしていた。 新たなる挑戦の場所としてパリを選んだ私は、一年を通していろいろな準備を進めていた。フランス語に関しては、高校時代から勉強していたこともあり特に不安はなかった。そして何よりも、パリには目指すオーケストラがあった。秋になってオーケストラの日本ツアーがあるとその機会を利用して日本でフランスのビザ申請などに必要な書類をそろえた。ミラノに戻り暫く経ったころ、春にオーケストラを辞めたヴァイオリンのエルザがローマにあるオーケストラのことを教えてくれた。彼女は少し前からそこでエキストラ奏者の仕事を始めたばかりだったのだが、マネージャーがもう一人ヴァイオリン奏者を探しているので、興味があったら少しの間そこで仕事をしてみないかと言う。10月にオーケストラを辞めたあとパリに行くまでの間まだ少し時間があったし、イタリアの労働ビザの有効期限までまだ数か月あった。もともとローマという土地に強い憧れがあったので、私は快くこの仕事を引き受けることにした。

初めてローマに到着した日、すでに日は翳り始めていたが私は地図を片手に、オーケストラの練習場とそのすぐそばにある宿泊先の修道院を目指した。練習場はあのサン・ピエトロ寺院のクーポールを間近に見下ろす広大な丘の上に位置していた。練習場に続く通りの名は「ピッコロミニ」という、どこか可愛らしい響きを持っていて、それが人の名前だと知るのはずっと後のことだった。市街地から登って行って練習場に至るまでの道は緩やかなカーヴになっており、登るにつれ田舎の雰囲気が増していった。羊たちが放し飼いになっている様子を目にしたときには、すぐ麓にヴァチカンを控えているとは思えないほど遠くまで来た感じがした。そんな場所に閑静な住宅地があり、その奥まったところに練習場はあった。私は砂利道を抜けて、優雅なアーチを描く鉄製の大きな門をくぐって中に入っていった。

練習場ではすでにエルザが私を待っていた。彼女はミラノのオーケストラにいた時よりずっと健康的で生き生きとして見えた。私たちは、ミラノのオーケストラにエキストラ奏者としてよく来ていたフェデリコともそこで合流した。彼らの話によれば、このオーケストラは一時的にミラノのオーケストラからの「駆け込み寺」的な存在となっているらしかった。たしかにリハーサルの時にメンバーを見渡してみると、知っている顔があちこちに見られたので驚いてしまった。彼らはいわば「アルバイト目的で」ローマまで来ていたのだ。でもローマでの彼らはどことなくよそよそしく、疲れていたのかあまり話しかけては来なかった。すっかり日も暮れて、私たち三人は修道院へ向かって歩いた。フェデリコは今夜泊まるところをまだ決めていないという。修道院に泊まることができるかどうかもわからなかった。

スポレートの修道院ほど広大な敷地ではないが、木々の生い茂る広い庭を通り抜けたところにその修道院はあった。私たちがベルを鳴らすと、フェリーニの映画に出てくるような修道女たちが2~3人戸口の前に現れ、長いヴェールをなびかせながらすたすたと門の方までやって来た。私たちは、この青年を急に連れてきてしまい申し訳ないけれど彼は泊まるところがないので、どうか今夜だけここに泊めてもらえないかと尋ねた。修道女たちは、私とエルザの間できょとんとしている当惑気味のフェデリコを見ると小声で揉め始めた。殿方を女性と同じ棟に寝かせるわけにはいかないだとか、やれ規則違反だとか、そういった内容だった。私たちは私たちで、必死に彼が「無害」であることを訴えた結果「特別に」許可してくれるという事になり、可哀そうなフェデリコは、ほっとしたように修道院の門をくぐっていった。腹ペコの私たちは早速、修道院の中のキッチンの明かりをつけ、三人でパスタを作った。外はもう緞帳のような分厚い闇が降りて、木々の枝が風で不気味にざわついていた。背の高いミラノっ子のエルザはテーブルにつくと蒼い瞳を潤ませ「あなた達が来てくれてよかった。昨日までここにたった一人で寂しくて泣きたい気分だったの」と言った。

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