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19年目の滞在許可証

パリにやって来て今年で19年目になる。
わたしは一体なぜそれほど長くこの街に住み着いてしまったんだろうか?
自分でも良くわからない。ただパリに辿り着くことが自分の人生にとって相当大切なことだったんだろうなとは思う。
今思えばわたしのパリ狂ぶりは筋金入りで、それは高校時代にまで遡る。
寝ても覚めてもシャルロット・ゲーンズブールとかリタ・ミツコなどのフレンチ・ポップスを聴いていた。とにかくシャルロット・ゲーンズブールが好きで、彼女が出演した映画は必ず観に行き、中でも「小さな泥棒」という仏映画の中でシャルロットが履いていた1940年代風の靴に一目惚れし、そっくりな靴を探し回ったりした。
一方では無類のヨーロッパ映画好きの叔父の影響があり、アラン・ドロンの出演している多くの作品や、ゴダールを始めとするヌーヴェルヴァーグの映画の数々とその音楽に関してはその道の専門家になれるくらいのオタクに成長していった。

やがてヨーロッパに行くことになり、ウィーン留学中に初めてパリを訪れた時のことは今でも臨場感を持って思い出すことができる。バターを塗ったバゲットにハムが挟まっているだけでなぜこんなにも美味しいのかと驚いたこと。モンマルトルの階段、カフェで飲む本物のカフェ・オレの香りやペール・ラシェーズ墓地など、目に映るもの全てが今までに観た無数の映画のシーンとシンクロしていった。
ミラノで仕事をしていた時代もイタリア的なものにはさほど関心を示さず、早速フランス文化センターの会員になり、暇を見つけてはミニシアター系フランス映画を見に行ったりするなど、絶えずどこかでパリを感じていたかった。

ところがいざ移住してからのパリの思い出は、記憶の中にあってすら哀しいほど脚色されていない。
あの日ミラノからスーツケースひとつとヴァイオリンを持ってリヨン駅に降り立った私はどこか不安げな様子をしていたと思うが、見事にそこでぷっつりと、映画とシンクロしていたパリの姿が途切れてしまっているのだ。その後の記憶は恐ろしく現実的で、舞台はパリだろうが東京だろうが、どこでも同じだったのではないかと思うくらいだ。そのくらい、パリに住み始めてからは仕事においても試練の連続で、山あり谷ありの19年を過ごしてきた。
今日の私はもう、ヌーヴェル・ヴァーグの映画も観ないしゲーンズブールも聴かない。
昔よく通った渋谷のル・シネマでパトリス・ルコントの映画を観て、パリという街が全てのパリジェンヌとパリジャンに官能的な魔法をかけているに違いないなんて本気で思ったけれど、今はそれが映画の中だけのものだと知っている(多くのフランス人が何歳になっても恋愛に積極的であることは勿論認める)。

現在の私にとってのパリはまるで複雑な味のスープみたいだ。
今から10年近く前の大テロ事件以来、加速するようにパリは油断できない街、危険な街に変わっていった気がする。移民問題に年金問題。特に年金問題に関しては、日常的なストライキがとんでもないストレスと疲労感を生み出し、コロナとウクライナ戦争以降は同時多発的に店が消えたり、あからさまな物価高に加えて愛用の商品がスーパーの棚から忽然と姿を消したりする毎日。

でも8月の人気のない涼しいパリで、私は新たな滞在許可証を見つめながらひとつの映画的感慨に耽っている。なぜなら私の手の中にあるのは今までとは大分異なる滞在許可証だからだ。
10年カード(carte de résident long durée U.E.)。
私は初めてフランスでこれからの10年を過ごす自由を与えられたことになる。
今まで何度このカードを夢見たことか。欲しくてもそう簡単には手に入らないのがこのカードなのだ。滞在許可の更新がうまくいかなくて弁護士を雇った年もあった。それ以来、毎回更新のたびにその時の悪夢が蘇りどれほどのストレスを感じたことだろう。それもこれで終わりだ。

皮肉と愛おしさの混じり合った不思議な感覚で改めて19年間という途方もない時間に思いを馳せた。わたしがかつてあんなにも憧れ、後には人生は甘くないよと教えてくれたこの街で過ごした年月が、ここで一旦物語にピリオドを打つことを促しているようにも感じる。
とはいえ突然こんなカードをプレゼントされても、ずっと素っ気無くされ続けていた誰かに急にプロポーズされたみたいでどうもしっくりこない。いろいろな角度からこのカードを眺めていると、「真剣な映画はこのくらいにして、これからはもう少し楽しい映画を撮ってね」と言う声がカードの中から聞こえてきた気がした。






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