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ミラノ回想録

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毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
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#連載小説

ローマの修道院で(2)

二回目のローマでの仕事は夏の終わりだった。私はすでにその年の初めからパリに住んでいたが、ローマのオーケストラでエルザに再会するのは楽しかったし、何よりもその時点でパリでまだ十分な仕事はなかった。リヨン駅からローマ行きの夜行列車に乗り込んだ私は, ヴァイオリンとスーツケースを抱えて少し不安な気持ちで自分のコンパートメントへ向かった。夕方の6時くらいだったが日はまだ高く、人々はそれぞれのコンパートメントでぼうっとしたり、おしゃべりに興じたりしていた。 私のコンパートメントにはすで

ローマの修道院そして。。

祖母が亡くなった年のはじめ、私は年内にオーケストラを辞める決意をしていた。 新たなる挑戦の場所としてパリを選んだ私は、一年を通していろいろな準備を進めていた。フランス語に関しては、高校時代から勉強していたこともあり特に不安はなかった。そして何よりも、パリには目指すオーケストラがあった。秋になってオーケストラの日本ツアーがあるとその機会を利用して日本でフランスのビザ申請などに必要な書類をそろえた。ミラノに戻り暫く経ったころ、春にオーケストラを辞めたヴァイオリンのエルザがローマに

給料はどこへ?シューマンを弾いて忘れよう

私たちの仕事はどんどん忙しくなっていった。今週はパリからナタリー・シュトゥッツマンがマタイ受難曲を歌うためにやって来て、来週からはあのドミンゴとのレコーディングだ、というふうに休む暇もなかった。個人的には、イタリアの現代音楽の作曲家として有名なルチアーノ・べリオ本人がふらっとやって来て、自身の70年代の名作の数々を指揮したリハーサルの高揚感を今も忘れることができないほどだ。ただそんな表向きの華々しさとは真逆に、オーケストラのメンバーの給料がひと月も遅れるようになっていた。そし

スポレートの夏

その夏は忘れられない夏だった。私たちのオーケストラはひと月の間、ウンブリア地方にあるスポレート(spoleto)というちいさな町で開かれる有名な音楽祭に招待されていた。アッシジの聖フランチェスコが‘神の声を聴いたか、幻視を体験したとも言われているこの町の中心にはドゥオーモと呼ばれるロマネスク様式の大聖堂があり、内陣はフィリッポ・リッピ(*)の見事な色彩のフレスコ画で装飾されている。私たちは毎日のようにこの聖堂でリハーサルをし、ファサードの下の冷たい石のベンチで涼んだり、おしゃ

音楽家のポートレート~Les portraits des musiciens

ユリウス ひどく落ち込んでいる時にわざとあれこれと予定を入れ、心身が麻痺するまで動き続けた挙句に寝坊して、一番大切な用事をすっぽかしてしまうのがユリウスだ。彼の砂漠のように果てしない心の空白は、休みなく動き回ることで辛うじて埋められていると言えるだろう。自分でもそれを知っている。 彼ほどはっきりと自分の欲しいものを知っている人はそう多くないだろう。それはまさに彼の心の中の砂漠をそっくりそのまま、得も言われぬ花の匂いに満ちた春の庭に変えてしまえる女性だった。でも彼にとってそれ

ステファノの死

オーボエ奏者のステファノが死んだと私達が知らされたのは、風が少しだけ夏の匂いを含んだ5月の夜だった。その夜私達は定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏する予定だった。 私が会場に近づくと、エンリコが道端に佇んで迷子のような顔でこちらを見ている。私を見るなり彼は子供のように泣きじゃくりながら [ステファノが死んじゃった] と言う。 あまりに突然の事で私は返す言葉もなかった。 え?死んだ?何故。。。「死」という言葉が、そこだけ物語のようだった。    楽屋に足を踏み入れるとそこ

Rock me Amadeus...!

オーケストラの仕事は紛れもなく流れ作業だ。毎日毎日リハーサルに行くと、譜面台の上には望むと望まざるに関わらず決められた楽譜がセットされている。当たり前のことだが「この曲が弾きたい!」とか「これは面白い曲だからやろう」ではなく、「これを弾け」という命令に従っているということになる。そして譜面台に乗る曲の回転率が速ければ速いほど、そしてそれを消化していくスピードが上がれば上がるほど、段々と自分が何万個の音符を処理する無機質なマシーンに思えてくる。それでは今まで培ってきた勉強がもっ

カティアの家の食卓

私といつも一緒にいたウテがいなくなり、寂しそうに見えたのかもしれない。持ち前の気取らない態度と、人の警戒心を溶かすピュアな笑顔を持つカティアが、私を度々仲間たちとの映画や食事などに誘ってくれるようになった。そんな時いつも一緒だったのは背の高いラヴェンナ出身のマルコと、親友のパオロだった。 私たちは一緒に、イタリアで公開されたばかりだったリュック•ベッソンの「ジャンヌ•ダルク」を観に行った。イタリア語吹き替えで、私には全くと言っていいほど理解できなかったのだが、あの「ニュー・シ

ウテとロマーノ

27歳のウテには50歳の恋人ロマーノがいた。 画家のロマーノはうっすらとした白髪で、前歯の間にわずかな隙間があった。お世辞にも美男とは言い難い彼は魅力こそあるものの、どう見てもウテの恋の相手とは思えなかった。親子というにも彼らの容姿はかけ離れていた。 二人はミュンヘンのアーティストがたむろするカフェ•バーで出会った。ロマーノの最初の言葉、それは[初めまして]に続いて、[僕のモデルになってくれませんか?]だった。 それから一週間もしないうちに、ウテはロマーノのアトリエに自分の

人生初の就職はイタリア?

私がウィーンでのヴァイオリンの勉強を終わりにしてミラノのオーケストラに就職が決まったとき、いちばん慌てたのは母ではなかっただろうか? 母にとってイタリアとはいかにも怪しい国−—つまり女好きな男達が街を闊歩し、泥棒がそこら中にたむろし、商売人たちが哀れな観光客から金を絞りとろうと手ぐすね引いて待っている−—といった、まさにステレオタイプなイタリアの印象を持っていたと思う。 その時の私はオーディションに受かったというだけでなく、私にとっては「雲の上のような存在」だった世界的に