「左川ちか」のテキストをめぐる雑感③岩波文庫における私の研究の扱い

第3回:岩波文庫における私の研究の扱い


 
 まず何人かのレビュアーを引こう。
 
・ブクログ knkt09222さんの感想(2023年9月25日)
『左川ちか詩集 (岩波文庫 緑232-1)』(川崎 賢子)の感想(8レビュー) - ブクログ (booklog.jp)
 
引用>島田龍・編の「全集」が書肆侃侃房で刊行され話題になった1年後、文庫で出た。
岩波文庫なので、印象としては「列聖した」感じがするが、多くの研究者のタマモノなのだろう。
本書、編者は川崎賢子で、津原泰水界隈で知った人。
前年の島田龍への言及が、解説に一切ない(定本は2010年森開社版、とのみ)ので、ギョーカイ的になんかあるのかしらんと邪推。

・X(Twitter) 編集者の郡淳一郎氏のポスト(2023年12月11日)
https://x.com/khorijunichiro/status/1733971363721847070?s=20
 
引用>岩波文庫は、谷川俊太郎の亡友や、杜撰な同人誌を底本にしつつ島田龍の業績を搾取した詩集だけじゃなくて、小沢健二や曽我部恵一やDev Largeやハタナイ総裁の詩集を出していただきたい。今日のポエジーが「現代詩」じゃなくてこっちにあるのは明らかなのだから。無理は承知。

(引用終了)
 
 
 岩波文庫に私の名が出てくるのは、「解説」(p233)に左川の詩「昆虫」について「今のところ各詩集、アンソロジー、『左川ちか全集』(島田龍編、書肆侃侃房、二〇二二年)いずれも、詩集発行にそなえて左川ちか自身が手を入れた草稿があったか、編者が手を入れた編集稿があったかという仮定のままに、昭森社版『左川ちか詩集』を底本にしている。」とあるのみである。全集は昭森社版を基本の底本としてはいないが、「昆虫」に関しては昭森社版を採用している。この「解説」はそのことに言及している。それは事実だ。
 
 ただ気になるのはたとえば、昭森社版の編集方針について、「その法則が必ずしも貫かれていないことはすでに指摘されている」(p232)とある。これは昭森社版の唯一の書誌的論考である拙稿「昭森社『左川ちか詩集』(一九三六)の書誌的考察ー伊藤整による編纂態度をめぐって」
669号目次 (ritsumei.ac.jp)
を指すものだ。岩波文庫の解説では他の諸氏の論考は多く執筆者名・題名・収録書・発行年月等が丁寧に明記されているにも関わらず、これだけが筆者名と論考名が伏せられている。結果どうなるかというと、拙稿の書誌研究の内容に一部触れているにも関わらず、「解説」を読んでこの論点に関心を持った読者がアクセスしにくいようにしているのだ。もちろん評価が異なるなら異なるで、その根拠を堂々と示し反証すればよいと思うのだが、そのような手続きは行わずに、対象となる論考の情報をシャットアウトするのはあまりにこすっからい。
 
  ◆
 
 私にとって全集の編纂は自分の研究上の一つである。試しに、論文データベースCiNii Researchで「左川ちか」を検索すると、この10年間(2014年から)で37件の「論文」がヒットする。そのうち拙稿は19件を数える(2024年6月現在)。左川ちか研究の歴史を初めて歴史叙述の対象として論じた「左川ちか研究史論」、小松瑛子以来の伝記的アプローチを整理し、新たな知見を反映させた「左川ちか年譜稿」、左川ちかの翻訳について基礎的事実を始め総論として初めて本格的に論じた「左川ちか翻訳考」など、左川ちかの研究の今後を願って研究上基礎となるものを著してきたと自負している。

 岩波文庫の解説では小松瑛子以来、近年の左川研究について各論考を詳細に紹介しているが、確かに一連の拙稿のみ言及が避けられている。その不自然さがレビュアー、読者の方々に奇異に映ったのだろう。私もリアルにこの件について聞かれたことがある。意図的であったとすれば倫理的に問題であるし、意図しなかったとすれば資質的に疑問を抱く。研究者は書いたものによって評価される。研究史や総論的な解説を書く場合、文献目録の類を編む場合、個人的に何か私的に含むところが相手にあろうとなかろうと、読み手には全く関係のないことだ。少なくとも私は歴史学徒の一人として、そのような態度を貫くべきだと先人から学んできた。修正主義は最も忌避すべきことだ。
 
 
 さて岩波文庫の解説を著した川崎氏に、島田の一連の研究がハブられた理由は何だろうか。思い当たることがないわけではないが、天下の岩波とあろうものが狭小なことだと思う。私は国内外問わずどこの版元であろうと左川ちかを愛する方々と繋がり、ともに彼女の言葉を読者に届けるべく盛り上がりたいとのスタンスだが、岩波は自分のところだけとただただ冷淡だ。自分たちが文庫で出す前に全集を出したことへの意趣返しなのだろうか。
 
 詩人たちが彼女の詩を愛した。プライベートプレスが全詩集を出し、地方出版社が全集を出した。そして札幌で左川展が開催された。左川に限らず、一般に詩人の営みは非商業出版、非アカデミズムが支えてきたといってよい。そう考えると、岩波書店の黙殺は極めて不均衡なものとみえよう。東京中心のアカデミックな言説の裏側に見え隠れする構造だ。
 
 これは下記のTwitter(岩波文庫発売前)でも触れたことだが、全集の版元的には刊行後1年余り、まだ在庫を抱えるなかで文庫が出たことは痛手には違いなく、全く申し訳ない気持ちだ。まるでお前らは我々の露払いだという扱いのまま今に至っている。共存共栄どころか、これまでの、そしてこれからの営みを利用する、まことに容赦ない生き馬の目を抜くような強者の論理と実感した。
 

https://x.com/donadona958/status/1685932975022874624以下のツリー
引用>岩波文庫化は読者が広がるという意味で喜ばしいですね。ただ、発売1年余の全集はまだ在庫が××××部以上あります。ギリギリ以上の破格、様々なリスクを背負い左川ちか出版の突破口を切り開いてくれた版元には感謝しかありません。頑張る地方出版社!! どうぞ全集も忘れないで~。この間、皆さまにはお気遣いやご心配のお声をお寄せ頂きましたm(__)m。版元も頑張っています。生き馬の目を抜くような論理もあるのかもしれませんが、私個人としてはよい本がよい本と共存できることをただただ望むばかりです。誰かが後悔したりどこかが犠牲にならぬように。一緒に盛り上がりましょう!
 
https://x.com/donadona958/status/1688487723311759361以下のツリー
引用>今後私が左川ちかについて話せば話すほど、岩波文庫の宣伝にはなっても、全集の在庫は在庫のままになるかもしれないと思うと、罪悪感で何もかもやめたくなるときがある。どうしようもないまでの搾取の構造に立ち尽くしてしまう。本当は個人としては前向きに考えたいが、申し訳ない気持ちもつよい。(略)今年の早い時期に間接的な噂を聞いた。私もいずれ文庫で出るべきと常々言っていたが、全集発売から1年も経ってない段階でまさかと驚いた。情報の出処から観測気球とも感じたが誤解がないよう静観を心掛けた。左川が売れると知って地方出版社のそれを潰しても構わないというのはやはり搾取ではないか。(略)左川に関してはもともと版権が切れているからと簡単にできるものでは全くなく、あそこやどこやそこやここやと色んな方面との複雑な事情が何十年も前から存在し、多くの人たちが諦めざるを得なかったアンタッチャブルな案件だった。それを私とともに全部かぶってくれたのに楽して踏み台にされたという…(略)本当は、多少の違いはあれど一緒に盛り上がっていきましょう!などと胸襟を開いてもらっていたら、お互いが掛け算のごとき相乗効果を考えていけたのだろうが、後ろめたさがあるのか、歯牙にもかけてないのか、観測気球を上げるだけでダンマリを決め込まれたままではどうしようもない。

(引用終了)


 私たちは決して岩波を無視したりするつもりはなく、企画監修を務めた札幌の左川展でも公平に扱った。当たり前のことだ。10月に出た河出の『モダニズム詩の明星』では校了スケジュール上、9月の岩波版に触れることはできなかったが(それとは別によいものを書いて頂けると思い、編者として川崎氏に寄稿依頼している)、11月刊行の『左川論集成』では解説で触れている。私は全集の企画時及び刊行後、できるだけの誠意をもって森開社に連絡と献本をさせて頂いた。商業出版化に伴う複雑な思いも受けとめたつもりだ。前回述べたように森開社版の意義については河出の本でもきちんと扱った。評価すべきものは私心なく評価する。当然のことだ。
 
 ちなみに岩波文庫詩集の編者の川崎氏とは昨年2月の左川関係のイベントでもご一緒し、それ以前もSNSで話かけられることが時々あったが、岩波の件は何も話されていなかった。それはともかく、岩波の刊行が発表されて以後、今にいたるまで献本(私は全集を著者割で購入し献本したのだが)どころか何も連絡もない。嘘のように全く無視されている。よほど後ろめたいのか、何もこそこそせずともよかったと思うのだが、私はよほどお人よしだったらしい。背中を思いっきり撃たれそのまま立ち去られたかのような…。その他、どういう界隈が蠢いていたのか、関係者からいくつか見聞きしたがここでは伏せておく。ただ、これらは左川ちかをめぐる近年の悪しき問題と無関係ではない。それが次回の話となる。

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