見出し画像

白昼夢

 朝起きると、部屋の中を寂しさが歩いていた。
体に緊張が走り、一人暮らしなのになんでと考えが瞬時に回るが、「あぁ」と納得し、安心からまた睡魔が襲い始める。世間にコロナウィルスが蔓延し外出の自粛を求め始めた頃、いつの間にかうちに住み着いてしまったのだ。そろそろ追い出さなきゃとは思ってはいても、タイミングが悪く、今に至る。

 寝起きの曇った頭をどうにかするためにも、ニトリで買った布団セットを押しのけ、洗面所に向かう。この布団も間に合わせで買ったはずなのに、新しいものを買うの面倒くさくてもう二年は使ってるなぁと思考をふわふわと遊ばせながら、蛇口をひねり水を出す。洗った顔をあげると、鏡に写る顔は年相応、またはそれ以上の様相をしている。気づいてはいるが気づかなかったことにするのも、日常になっていた。

 布団に戻り、スマホの画面に並ぶ通知を確認し、LINEを開いて返事を返していく。その流れでYahoo!ニュースにも目を通し、一連の騒動が収まるどころか、更に規模を拡大していく惨状に辟易とするのも日課になった。この時、決まって寂しさは不機嫌そうな顔をして、こちらを横目で見ている。最初は、どうしたの?なんて声をかけてみていたが、もうそれもやめてしまった。どうやら寂しさは、無口で会話する気はないということが、ここ数日の様子で伝わってきたからだ。(もしかしたら、本当は喋れないのかもしれないけど)そのため、ただこちらの様子を見つめて、一喜一憂する人型の置き物と思うことにした。いちいち構いすぎると、こっちが疲れてしまう。

 「あー」とも、「うー」ともつかない呻き声を上げつつ、再び起き上がり、カーテンを開ける。どうやら今日は雲ひとつない晴天らしい。春うららという言葉にピッタリな陽射しだが、気温からは夏の足音が一歩一歩近づいてきているように感じる。しかし、外に出て陽の光を存分に浴びるにも罪悪感が伴うなか、この快晴は皮肉にも似ていてやや鼻につく。二ヶ月前なら、久しぶりにバイクに乗るかなどとその日の予定に考えを廻らすところだが、今となってはどうでもいいし、天気予報すら見ないようになっていった。寂しさは、そんなこちらの様子を口角を上げて見ていた。癪だがどうやら思う壺らしい。

 「……13時か。」いつの間に寝てしまっていた。まぁ、いいかと思いつつ、枕元にあるスマホに手を伸ばす。今度は画面に並ぶ通知を無視してYoutubeを開き、おすすめに並ぶ動画からめぼしいものはないかとスワイプしていく。どうしても見たい動画があるかというと、正直なところ一つもない。それでもYoutubeは、何もせず時間を潰すのに丁度いいのだ。有意義でも、無意義でもなく、集中でも、散漫でもないバランスの良さは、有り余る時間を予想以上に溶かしてくれる。近頃は、平気で三十分を超える動画も増えてきており、嬉しいようなもったないようなこれまたなんとも言い難い気持ちにさせられることがある。そんな最中、寂しさの方に視線を向けると、少し悔しそうに顔を歪めてこちらを見ていたので、残念ながら今の時代には紛らわす方法なんていくらでもあるのだよとしたり顔で返してやった。  

 ただ無為に時間を浪費していても、腹は減るのは世の常である。流行りのUberEATSで近隣の店をウィンドウショッピングするが、やっぱり高いんだよなとスマホを置く。家から出ないとなると、食事だって立派な娯楽のひとつになる。寿司に焼肉、ラーメンにステーキと食べたいものが思い浮かぶが、かといって自炊はできないし、外食するわけにもいかない。結局、キッチンの戸棚から買い置きしておいたカップラーメンを取り出して、電気ケトルに水を入れてしばし待つ。子供の頃は、カップラーメンは栄養がないからとあまり食べさせてもらえなかったが、あの頃たまに食べるカップラーメンは、ちょっとの背徳感のスパイスが効いてて美味しく感じていた気がする。その一方で、一人暮らしのカップラーメンは定番料理であり、食べ飽きたせいからか、ロマンのない食事に退化してしまった。でも、食べ物は、一緒に食べる人だったり、盛りつけだったりのシチュエーションによってポテンシャル以上の力を発揮するとも思う。カップラーメンだったら、深夜に夜食として食べれば、「カチッ」電気ケトルのスイッチが戻る音でハッと我に返り、内側の線の少し下までお湯を注ぐ。その後、いそいそと小さい机に移動して、タイマー代わりに動画を再生。書いてある時間からマイナス一分。麺は固めが好きだ。さて一口啜ると、想像通りの味に「んー……。」と下がり調子の唸りが漏れてしまう。不味くはないんだけど、大事な何かが足りない。(もしかして、栄養?)すぐに食べ終わり、空の容器も片付けないまま、定位置である布団に寝っ転がる。寂しさも、満腹では打つ手がないようで膝小僧をじっと見つめていた。そもそも昼間はあんまり動きたくないらしい。

 しかし、これが夜になると、こちらに寄り添ってくることが多くなる。儚げな表情に同情を寄せそうになることだって、もちろんある。そりゃ、つかず離れず毎日同じ部屋にいれば、情が湧いてくるのが人間の性だ。ただ、もしもそれを心地よく思ってしまえば、あっという間に共依存になるだろう。人は寂しさの蠱惑的な魅力に陶酔してしまうからこそ、その危険性を理解した上で接しなければならない。ましてや、寂しさに甘えるなんて自殺行為であり、本当の意味での命取りだ。だから、今日も一日適切な距離感を保って、一緒に過ごしてる。密接な関係にさえならなければ、コロナウィルスが収束した後に人に会おうとする原動力にだってなるし、寂しさの良いところはもっとたくさん見つかるだろう。寂しさも三密の対象かもなどとくだらないことを考えつつ、またうつらうつらと夢の中へ戻っていくのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?