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「裸足で鳴らしてみせろ」の映画感想文など

“世界旅行”の果て、二人の青年は凶暴な愛を予感する

“父の不用品回収会社で働く直己なおみ(佐々木詩音)と、盲目の養母・美鳥(風吹ジュン)と暮らす槙まき(諏訪珠理)。
二人の青年は、「世界を見てきてほしい」という美鳥の願いを叶えるために、回収で手に入れたレコーダーを手に“世界の音”を求めて偽りの世界旅行を繰り広げていく。
サハラ砂漠を歩き、イグアスの滝に打たれ、カナダの草原で風に吹かれながら、
同時に惹かれ合うも、互いを抱きしめることができない二人。
そんなある日、想いを募らせた直己は唐突に槙へ拳をぶつけてしまう。
それをきっかけにして、二人は“互いへ触れる”ための格闘に自分たちだけの愛を見出していくが……。

「裸足で鳴らしてみせろ」公式サイトより

レビューとか見てると、概ね高評価
確かに、いい映画だった。と思う。それは同意。
(でもどこがどう良いとか、具体的な感想があんまりない。そういうのが知りたいんだけどなぁ…)

架空の世界旅行設定は面白い。楽しい。

俳優陣の演技は文句ないほど良かった。
主演のお二人は初めて拝見したというのもあるけど、直己と槇というキャラそのものの様に見えた、演技してる感は無い。
次はどういう表情をするんだろう?とずっと引き付けられながら見ていた。
キャラとしてのプレゼンス、存在感がしっかりあり、直己と槇は確実に映像の中で生きていた。


More Fantasy Less Real

プールでの偽・青の洞窟はスゴク画面的にキレイだな~って思った。
ポスターにもなってるけど、青の使い方が上手い。

だからか、他の世界旅行先ももうちょっと印象に残る画面作りしてくれていたら…と少し残念。

イグアスの滝アンテロープ・キャニオンも、そりゃ本家みたいにはいかないけど、もう少し観客がウワァ~、こんな地味な場所なのにキ、キレェ~✨!!となる絵、撮れそうだけどなぁ~と思った。

滝はせめて虹🌈がかかってるのとか、プレーリー代わりの草原も信州辺りが舞台?ならもっとイイ所ありそうだけど。

勿論、音を録ってるので、絵面なんか重要じゃないのかもしれないけど、それでも二人が一緒にいて、心がドンドン近づいていく時間。
それはキラキラすればするほど、残酷な現実との対比が際立つと思うわけで…。
あの録音時間はいわば、二人の親密且つ現実逃避の時間なわけだから。
あの瞬間だけは魔法がかかった様な、More ファンタジー Less 現実感 を強調して欲しかった。

映画って、やっぱり夢を見せて欲しい部分がある。
槇と直己も、槇の母・美鳥の夢の為に、世界中の音を記録してるわけで、
その夢を、観客にも提示することで、映画の世界線とメタの観客の世界線がオーバーラップして、より美鳥の心情に共感できるようになったんじゃ?と思ったり。


肉体が教えてくれること

もう一つ、ウ~ンと思ったところ。

この映画内では、何度も直己フィジカルのぶつかり合いが描かれます。もう飽きることなく遊び続けるワンプロ(犬同士のじゃれ合い)かっ!っていうぐらい

工藤梨穂監督はこう語ってる。

ただ、二人の間で発生した愛を、いわゆる万人が納得する恋愛の成り行きセックスに向かっていくような)には従っていかないもので表現したかった。そういったことでは語ることのできない愛もきっとあるはずだと思ったし、自分が撮るならばそれを捉えたいと思いました。
二人の絆を唯一無二のものにしていた行為がのちに二人を苦しめるものになってしまう。そのような矛盾、それがこの映画における格闘(=暴力)でした。

公式サイト「Director’s Note」より

そう、この映画は腐女子向きのBL映画でも、「エゴイスト」のようなクィア、ゲイ・ムービーでもない。
というか敢えてラベルを貼らないようにようにしている感じ。

監督が言う”そういったものでは語ることのできない愛”

ではそのとは何なんだろう?

そこが見終わった直後、私的には腑に落ちないというか、”もっと大きな愛”ってぼやかして高尚感というか、同性愛なんてものじゃ括れないもっとレベルの高い愛とでも言いたいのか?と、穿った考えが残ってしまった。

もっと大きな愛ってこと?実際この二人の愛って何だろう?
と考えを巡らせた。

そもそも私、安易にすぐセックスする映画とかは好きじゃない。

なので工藤監督の方向性も共感できなくもない。
閉塞感に押しつぶされそうな二人が、惹かれ合ってすぐセックスしていたら、定番すぎてシラケていた気もする。

でも、もうSTOP STOP!!って止めに入りたいくらいフィジカル・コンタクトを繰り返していたら、いくらなんでも伝わってしまうことがないですか?

「目は口ほどにものを言う」はないけど、「体は口以上にものを言う」というか…

私、歴代のゲイムービーたちを観てきました。
「モーリス」、「アナカン」時代から、「プライベート・アイダホ」そして「ブロークバック・マウンテン」「きみの名前で僕を呼んで」と。

その中で、この映画同様に、触れたいという欲求はあるのに、その感情が何なのかわからない、どう表現したらいいのかわからなくて、レスリングの様に体をぶつけあうという表現は何度も見た記憶があります。

ハッキリ覚えているのは、「ブロークバック・マウンテン」。
山の上のテントの中で主役二人が荒々しく体をぶつけ合い、そこからキス、セックスへとなだれ込む。

体をぶつけあって揉み合っているうちに、最終的にキスぐらいには至るパターンが多いわけです。だってわかっちゃうから。お互いに好きだってことが。
男女物だとそんなプロレスみたいな暴力的なシーンってのはない(性欲溢れて焦りながら服脱ぐシーンとかは洋画では定番だけどね)。よってこの流れは男同士での関係でのみ見れる型と言ってもいい。

そう、このゲイムービーで定番の男同士のつばぜり合い。相手の気持ちを推し量る、ほぼ前戯みたいな行為。それがこんなにハッキリあるのに、同性愛じゃないと言われても…って感じになったんですよね(;^_^A。これはゲイムービーを観すぎてる私の感覚が偏ってるのかも知れませんが…。

あれだけお互い体を触れさせていたら、

自分との接触で熱くなる肌 
荒ぶる呼吸
激しい鼓動
振り撒かれる香り、フェロモン


そういうフィジカルの反応、それは相手のものも、自分のものも。
それによって、相手の興奮想いの強さ、いたわり、優しさなんかが伝わってくる。
そして同時に自分自身も、性的に興奮してるんだ、強く惹かれてるんだ、体が好きと発しているんだ…と気付く、思い知る。

この間たまたま見かけたコチラのツイート。
メソポタミアのギルガメシュ叙事詩に登場するギルガメシュ王とその友人の描写。

紀元前から男同士の殴り合いとか、体のぶつけ合いが求婚、睦み合い、激しいセックスの暗喩だと捉えられてるわけです。

だから、あれが愛の行為じゃなかったら何?と訊きたいくらい。
ラストシーンを見ても愛する人を失った後悔、喪失感で涙を流したのですから。

*****
そうそう、身体の反応が教えてくれることで、最近読んだ本でへェ~と思ったこともついでに書いておきます。ちょっと趣旨とはズレてる気もするけど、自分的備忘録として。

「足をどかしてくれませんか。」という本のなかで、
女装パフォーマーのブルボンヌさんが、ホルモン治療している知人の話を語っていました(男性だけど女性ホルモン打ってるMtoFの人の話です)。

「男性の性的欲求とか女性のパートナーへの独占欲を生み出すのはホルモンの作用なんだね」
女性ホルモンを打った直後は、パートナーが浮気してるか?という疑念が頭をもたげイライラする。一方、女性ホルモンの効果が薄れてきて男性ホルモンの影響が強くなってくると、街行くイケメンに目移りするようになってくる。

「足をどかしてくれませんか。」より抜粋

これはホルモンを定期的に打ってる人だからこそわかることですよね。
女性は生理周期によってホルモンの影響を受けやすいとは言われるけど、男性はまず気が付かない感覚です。
(最近は男性更年期も注目されて来て、男性のホルモン量変化による影響も知られるようになってきましたが)
特に、こんなに男性ホルモンと女性ホルモンの増減をはっきり感じる状況って、そういう施術を受けてる人以外はまずない。

ことほどさように、体が感情を生み出したり、時には感情を裏切ったり、体から心への影響は侮れないということです。
心が体の反応を支配している気になってるけど、逆に体の反応によって心の状態を知るということも十分あるということです。心と体は相互作用していて切り離せない、絶えず密接な関係にあるもの。

*****

というわけで、この映画の直己と槇は、あれだけ体をぶつけて、そこに気が付かなかったのか?と思わざるを得なかった。

ただ、槇の方は直己に対して性的にも惹かれてると思われる描写はあった気がする。アッ、と何か気付いたような表情があったし、基本直己から始められるぶつかり合いに付き合ってあげてる、受け身のポジションの様に見えたから。傷つけたくないという思いはあったんじゃないかな?


それでも越えられない壁

映画序盤の方で直己は友達と海に行って砂でトンネルを作る。
開通するトンネルで女友達と手が触れることさえ躊躇する直己。
後ほど槇との会話で、自分には磁場があるという。槇も同じだと告白し共感し合う二人。

私はこの時、直己はクローゼットのゲイだから周りと壁を作る=磁場がある人物なんだと勘違いしていたようです。

でもどうも違ったみたい。
彼は完全なシスジェンダーヘテロセクシュアル男性だったということですね。(シスジェンダーは生まれ持った性と自分の性自認が一致している人。対義語が体の性と心の性が一致していない人がトランスジェンダー。ヘテロセクシュアルは異性を性的対象とする人)
映画終盤で、前述の女友達と再会してあっという間に肉体関係→交際→婚約と進んだわけで、そこに躊躇はなかったですから。

なので、槇に人間的にものすごく惹かれる部分があり、魂レベルで好きなんだけど、どうしても越えられない性指向の壁があって、それに板挟みになる。
その事実を認識すればするほどどうすればいいのか分からなくなって、直己のフィジカルコンタクトは激しく、凶暴になり、最終的に槇を傷つけるほどになっていったのかなと。

あと甲本雅裕さん演じる直己の父親との関係も、直己のセクシャル・アイデンティティを分かりづらくしていたような気もします。

子供の金を勝手に使うほど、父親は直己のことを従属物だと思っている家父長制意識の高い人物なんだと思っていました。もちろんそういう面もある。

直己は大学中退だったかな?一応あの世界ではインテリ系に属してる。不用品回収で得た映画のビデオや音楽をコレクションして、文化的嗜好もあの環境においては高め。

この二人の大きな隔たり、わかり合えない意識の違い。
こういうのもゲイムービーとかでよくある家庭環境なんですよね。

でも父親は唯一の家族である息子を非常に愛してはいた。その愛が重すぎて直己は家から離れた倉庫に逃げていただけで、父親がゲイの息子を受け入れない息苦しさから逃げていたわけではなかった。ここがまた勘違いしてしまった所でした。

家父長制でホモソーシャルが強すぎるとホモフォビアになる傾向があるけど、直己がそこまでホモフォビアに陥っているようには見えないんですよね。今の時代ゲイに対しても禁忌感も薄まってきているし、見つかったら殺されるみたいな恐怖感はないはず。
あれだけセクシュアル・テンションが高まってる様に見える体のぶつけ合いでも越えることが出来なかったということは、やはり厳然とした性的指向の壁があったんだろうなと。

そう思うと結構新しい視点の作品ですよね。
いままではゲイの主人公がストレートになれない苦しさに悩む物語が殆どでした。
しかしこの映画は、ストレートの主人公がゲイになれない苦しさを扱っていたのかもしれないですね。


ぶつかり合いはメタファー?

または、単に男女の関係に置き換えたら?と視点を変えて考えてみました。

直己と槇の取っ組み合いは、男女の恋愛関係でも、その合間合間で見られるぶつかり合い(フィジカルではなく考え方、意見の食い違いなど)のメタファーだと考えられると思うんです。

そういう意見や感情のぶつかり合いを繰り返し、二人の関係は取り返しのつかないところまで行き、やがて別れてしまう。普遍的によく見られるパターンです。

なので、最後に直己と槇が再会した時、そのもう取り戻せない関係に涙する。それはゲイ、ストレート関係なく響く感覚。そのゲイもストレートも関係ない、包括性を重視したかったのかも?

そう考えると、監督が暴力を繰り返し挿入し、性的な部分にこだわらなかった理由もわかる様な気がしました。

でもまあ個人的には暴力表現って苦手。
露悪的というか、刺激的な手法で注意を引こうとしてるみたいで好きじゃない。過去のフラッシュバックする人もいるだろうし、あ~絶対ケガするよ~ってヒヤヒヤするの、心臓に悪いし(;^ω^)
もうちょっと別の表現はなかったのかな?とは思う。


最後にオマケ

自分的には難しい部分もあったけど、思考活動は楽しかったです。
キレイな画面作りもあったし、工藤監督の今後の作品も注目してみたいと思いました。

この映画と関連するかどうかはわかりませんが、
先日のアカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされていたコチラのベルギー作品。作品賞を獲った「エブエブ」と同じA24製作なのも期待できそう。

「Close」

22年度カンヌのグランプリも獲ってる。

兄弟、それ以上に親しく触れ合っていた隣家同士の2人の少年レオとレミが、周りの子供達の無意識なホモフォビア的言動によって関係が変化し、取っ組み合いの後に一人が自殺するという話。その後の喪失感も丁寧に描いているそうで、すごく観たいなと思った作品です。

彼らも性的な関係には至らない。至る前の年齢。しかし魂の絆は強く結ばれてしまっていて、セクシュアリティの問題に至る前に悲劇が起こる。

「裸足で鳴らしてみせろ」とは似ているようでテーマは違う。いかに世間の目が純粋な愛する関係を壊してしまうか?という点が強調されている模様。
そしてその傷が、何の責任も取らない社会が招いた傷が、その人物のその後の人生を苦しめ続ける

これもまた普遍的なテーマを扱っていると思う。ゲイとか関係なく、社会が与えるプレッシャーによって、純粋な愛の関係が壊されることはいっぱいある。そこに一石を投じている作品。
WOWOWの放送でゲストに来ていた大友啓史監督も、誰しもが共感できる部分のある心に残る作品だと仰ってました。

*****

もう一つ、台湾映画のコチラも面白そう。

「擬音 A FOLEY ARTIST」
フォーリー・アーティストとは音響効果技師
つまり槇と直己が映画の中でしていたような、道具を使って映画などの様々な音を作り出す仕事。
ドキュメンタリー的な感じなのかな?

コチラは日本の音響効果技師さんのお話。


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