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新酒祭りを楽しむ。

「ボジョレー・ヌーボーって美味しい?」かと問われれば、僕は無条件には賛同できないかもしれません。でも毎年僕は飲んでいますし、楽しんでもいますし、好きでもあります。
僕の中ではそれを飲むことに意味があるからです。

僕がソムリエとしてあるレストランに勤めていたとき、ベテランのパティシエさんからこんなことを言われたことがあります。

「僕らはものをつくってそれを売る人間だから思うんだけれどさ、君たちにもそういうことができないか考えてほしいな」

と。
この言葉は、僕がボジョレー・ヌーボーを楽しむようになったきっかけの一つになっているのですがその話は後々。まずは、今更ですがボジョレー・ヌーボーの簡単な説明から始めさせてください。

11月の第3木曜日。ボジョレー・ヌーボーの解禁日が近づくと、そのワインの話題が賑やかになってきます。僕らはいつからその名前を聞くようになったのかなどと思ったりもしますが、そのボジョレー・ヌーボー、少し調べるだけでも

1998年「10年に一度の当たり年」

2003年「100年に1度の出来」

2015年「今世紀で最高の出来」

といった派手なキャッチコピーが毎年目立ち、一体いつが本当に美味しかった年なのかわかりゃしないワインです。
2015年なんかはそれを言っちゃったら次は「有史以来最高の出来」とかになっちゃうんじゃないかとか思うのですが、実際にボジョレー・ヌーボーを飲んだ人の評価は得てして毎年、

「薄くて美味しくない」

だったりします。

そもそもボジョレー・ヌーボーというのは、ボジョレー村の新酒(ヌーボーはフランス語で「新しい」)であるから、まさに出来立てのワイン。
木の樽で長く寝かせていない、絞りたてをそのままお酒にしたもの。深い余韻や香りというよりも葡萄そのものの果実味を楽しむフレッシュなワインなわけで、そこには万人が楽しめるような「ガツンとくる飲みごたえ」はないんですよね。

でも、そんな「薄くて美味しくない」ボジョレー・ヌーボーを積極的に楽しむ人が、いつからか僕の周りでは増えていったように思います。

冒頭の写真は2016年に、普段はワインをほとんど飲まないような知り合いから頼まれて、一緒に飲んだときのヌーボー会のワインです。敢えて新酒だけにしないでヌーボーとの比較をしながら楽しんでもらえるようにしました。こうしてボジョレー・ヌーボーをきっかけにワインを飲み始める人もいるわけで、僕はいちワインファンとしてそういう傾向を嬉しく思っています。



僕がTwitterの方でたまに話題に出す、僕のお酒の師匠がいるのですが、その方の話を少し。

その年、ボジョレー・ヌーボーの解禁日に合わせて、バーカウンターの端から端までボジョレー・ヌーボーのボトルがずらっと並べられていました。席数はそれほど多くはないお店でしたが、並んでいるだけでもゆうに30本はあったように思います。
それを2500円飲み放題、みたいな形で提供していました。
常連のお客様がやってくると、日付の変わった瞬間から「じゃあ今からはボジョレー・ヌーボーを飲みますか」と皆で飲み始めて、端の方からどんどんボトルが空いていきました。ボトルが透明なものだから減っていく様が見てわかりやすくて面白いんですよね。翌翌日の営業が終わるくらいにはだいたい完売していました。

でもそんな売り方では利益がそれほどあるわけでもありません。今年のは美味しいんだよ、みたいな話を詳しくするわけでもありません。
僕は師匠に聞きました。
「なんでこんなふうに売るんですか?」

師匠は答えました。
「ん?ヌーボーは祭りだから。この方が祭りっぽいでしょ」と。

僕は「そういうものか、まぁ祭りなら」とそれからは思っていました。それでなんとなくボジョレー・ヌーボーの解禁日には、味うんぬんじゃなくて祭りみたいなものだし、と飲むようになったように思います。

さて、話を冒頭に戻します。

「僕らはものをつくってそれを売る人間だから思うんだけれどさ、君たちにもそういうことができないか考えてほしいな」

と言われた話。

おそらくそのパティシエさんは、

「ただワインやリキュールを買って売るだけではなくてカクテルを作ってみるとか、何かしらのアレンジを加えて出すことも考えた方がいいと思うよ」

くらいのニュアンスで言ったんだと思うんですよね。

なのでそのパティシエさんにアドバイスをもらいながら実際に色々やってみました。でもうまくいきませんでした。多分僕はそういうセンスないんでしょうね。糖度計を借りて果物のピューレからシャーベットを作ってみたりとか、フレッシュの果物をカットして盛り付けてみたりとかやりましたけど、商品として提供できるレベルにはならず、結局それらの試みがお客様のもとに届くことはありませんでした。

それでも、そのパティシエさんの言葉はしばらく僕の中に重く響いていました。

なぜなら、確かにソムリエとしての仕事って、雑に言えば誰かが作ったワインを開けて、注いで、売るだけなんです。
僕らソムリエって、何にも産み出してないんですよね。

もちろん、見えない付加価値を産み出している、と言えばそれはもちろんそうです。それは理解しています。それでも、具体的な形のあるものを作っているわけではないですし、そのワインや料理というもの自体が無ければそもそも僕の産み出した「付加」価値なんて何の役にも立たないわけですよ。

遠く離れた地で一生懸命葡萄を育て、収穫し、ワインを作っている農家さんや醸造をする人がいる。さらにそこからいろんな人の手を経て、僕らの目の前にワインが届く。そんなふうにワインを作り出している人たちがいて初めて、自分はこうしてソムリエとしての仕事ができている。ワインを作っている人には感謝しかないなぁ。そんな思いが出てきたんですよ、そのパティシエさんに言われてもの作りというものの難しさを感じてから。

今までは当たり前のことだった、ワインがそこにあるという事実。そのことについて考えざるを得ませんでした。

そうそう、ワインが目の前にあることって、当たり前のことじゃないんですよね。

たとえば19世紀後半、ヨーロッパの葡萄って、一回絶滅しかけてるんですよ。フィロキセラという葡萄の害虫がいまして、これがアメリカから持ち込まれたことでヨーロッパ全土の葡萄の木が枯れてしまいそうになったことがあります。
このときはアメリカからの葡萄の木を接ぎ木することで持ちこたえたのですが、葡萄というのは農作物ですから、不作もあれば気候不順や何かの病気で、将来、葡萄の木自体がなくなってしまう可能性だって十分ありえるわけです。

ワインというのはそういう奇跡や努力を経て、大自然の恵みを受けながら、誰かが一生懸命に生み出したもの。それらのお陰で自分がソムリエとして仕事をしていけるという事実。

ワインに携わる者として、どんなときもそのことを心に留めていられたら素敵なことなのですが、忙しい毎日の中でどうしてもこの思いを忘れてしまうこともあります。
だから僕は、「新酒」を楽しむボジョレー・ヌーボーの祭りの日が訪れるたびに、そのことを思い出すようにしているんです。

その柔らかな赤色の液体を傾けながら、
「ああ、今年も葡萄の樹が病気にかからず、天災にも見舞われず、無事ワインができてよかった。このワインに続いていろいろなワインが今年も無事に生まれてくるし、これから美味しく熟成させられるワインも産まれていくんだ。今日がまさに今年のヴィンテージの第一歩なんだ」と。

「ボジョレー・ヌーボー」はお祭りだと僕は今も思っています。豊穣を祝う祭りの喧騒の中でまさに神に感謝し祈るような気持ちで、僕はそのワインを楽しんできました。今ではワインの現場を離れていますが、多分今年もそんな気持ちで11月の第3木曜日を、僕は祝おうと思います。

一年間、心を込めて葡萄に愛情を注いでくれた農家さんありがとう。そして、今年も美味しく育ってくれた葡萄たち、ありがとう!と。

皆様もぜひ、今年も来年も、いつまでも素敵なワインを。ではまた。

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