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陽性転移ぐらい許してくれまいか。

夜の薬を飲んだところ。生搾りグレープフルーツサワーをちょびちょびやりながら昔のマドンナを聞いています。

ついぞ始まったオリンピックの開会式が・・まあ演出家の熱意は感じるのだけど率直に、直視するのが恥ずかしい。こういうのを理解できるようになるのが大人になるってことなのかな。苦手なキノコを噛まずに呑み下すような感覚。うう。家ん中で夫だけが4Kテレビの前でワクワクしていてその場面ごとなんかシュールでね。

さてさて、今日もわたしは休みで1日好きなように過ごした。漱石の『彼岸過迄』も読み始めたし、夕方ウォーキングにも行けたし。歩くとき最近は矢野顕子を聴いているのだけど、彼女の音楽が、運動にもましてわたしを元気にしてくれるのですね。「こんなとこでいじけてちゃダメよ〜!」という強い気持ちにさせてくれるから。矢野あっこちゃんとスタイルは違うけど、漱石の小説もそういうところあるよね。「いじけてても、みじめであっても、次に行くしかないじゃないか」みたいな。単なる前向きとは違うのね。暗いところにいたって前ぐらいみなさいよという感じ。そういう漱石の人生を放り出さないスタイル、若い時は味わおうともしなかったし理解できるアタマがなかった。神経質なおっさんが書いた面倒臭い話じゃん、みたいな。あの名作『こころ』に対しても、そういううがった見方をしていたからね。わたしはずっと、バカで自信過剰、かつ生意気だったということです。この歳になって、「前を向いて生きる」という意味がようやくわかってきた。同時に漱石の作品のすばらしさも。一昨年ぐらいから一冊読むごとにバカみたいに感動して、どんどん漱石を好きになっている。小説を制覇したら、漱石に関する評論も読んでみたいなーなんて、そんなところに辿り着けるかしら。

こんなふうにいくらか明るい気持ちで生きられるようになったのは、家族の協力はもちろん、たくさんの芸術作品(小説、絵画、映画・・)との出会い、何よりも精神科のY山先生のおかげだと思っている。もっというと、Y山先生への陽性転移のおかげ(わたしは「愛と尊敬」だと思っているけど医学の世界ではそう呼ばないのだそうで)だと思っている。陽性転移って望ましくない治療関係らしいんですけど、嫌いなやつだったら二度と行かなくなっちゃうし、先生を少し好きになっちゃってもいいじゃん?とわたしは思う。特別何をするわけでもないし。いい男だな、と思うぐらいです。「先生みたいに朗らかに生きたいな」と思うからわたしもそれを目指して頑張れるわけです。本当はどんな人かしらないけど、そのことにこだわりはないの。向き合ってくれるときの先生がわたしの先生の全てだから。それだけ。

わたしの診察はいつも1分でおわる。テキトーあしらわれてる気がいつもする。でもわたしなんか軽症の方だから、もっとつらい患者さんのために時間を使ってほしいと、これは心から思う。こればっかりは仕方ないね。でも先生を尊敬する気持ちに変わりはない。わたしは先生がみんなのために働いている姿をみて頑張ろうと思うから。

・・と、書いてみて、ちょっと頭がやばい女の手記みたいになっていますが。もう10年以上通っていて、わたしも先生との距離を考えながらやってきたわけで、先生に依存しないようにというのはすごく心がけているのです。ただ、ずっとファンでいさせてね。というだけのこと。なんで陽性転移がわるく言われるのか、わたしには専門的なことはよくわからないのだけどね。

ちょっと薬が効いてきて良い気分になってきた。あしたは仕事ゆえ、もうそろそろ寝る時間だね。難しいこと考えないで布団に入ろう。今日から使い始めた資生堂のHAKU(美白美容液)が効きますように。Y山先生にもいいことありますように。











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