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日本人能力検定

『にほんごを べんきょう しています』

留学先にわが国を選んでくれたスリランカ人留学生が、早速勉強の成果をLINEしてきてくれる。他国を理解するために言語の勉強も疎かにしないのは尊敬だ。

しかし何か違和感がある。

市役所での手続きで違和感の正体に気付く。

『こちらにお名前をカタカナでご記入ください』

そうじゃん。彼らの名前カタカナじゃん。なんでひらがなから勉強させ始めるのよ。

ただでさえひらがな、カタカナ、漢字と3種類の文字があることに難しさを感じているのだから、せめてせっかく練習した自分の名前を書いた時に『カタカナで書いて』と否定されるようなことはあってはならない。

こちらがそれを求めるなら、せめて日常会話くらいは英語でしてあげてくれ。

日本の鎖国は続いている。文化でも伝統でもなく、生き方がそうさせている。

This is Japanese "慣習"

外国人留学生がこの国に暮らす中で最も多く書く言葉は間違いなく『自分の名前』だ。

日本に生まれ、日本に育った人間よりもはるかに多くの書類が必要になる。当然外国人の名前は『カタカナ』で表記され、登録される。

しかしなぜか、日本語の勉強に際しては『ひらがな』から勉強が始まる。

おそらく外国人がひらがなで自分の名前を書くことなんて『ふりがな』欄くらいしかないし、その欄さえも『名前』欄がカタカナで書かれていれば不要なはずだ。

ひらがなもカタカナも50音。実用性や日本語の文字の楽しさを味わう初期段階においては、確実にカタカナを最初に勉強した方がいいと思う。

それなのにひらがなから教えてしまうのはなぜだろう。

それが『通常の日本語の文章にカタカナは出てこないから』だとしたら、そもそも感じが読めないと意味なんて解読不能な言語を使って記述しているのだから、助詞や文末表現に多いひらがなを勉強したところで日本語の文章なんて読めるわけがないのだ。

令和時代にタイムスリップ

『慣習』日本人はこの言葉を勘違いしている気がする。

慣習を手抜きしていい理由に使い、前回と同じことをしていれば咎められない理由にし、変える面倒さを回避する根拠にしている。

『夫の3歩後ろをついて歩くのがいい妻だ』などという戯言もそう。

地球は丸いのだから、いくら奥ゆかしく3歩後ろを歩いたところで、物理的には『4万km - 3歩』分の圧倒的な距離分だけ先を歩かれていることになる。大和撫子を求める男性は図らずとも『夫の3.9万km先を先導して歩く妻』を求めていることになる。

少し暴論が過ぎたが、実利を無視した慣習をとにかく日本人は大事にする。

給食を全部食べ切るまで居残りさせられるとか、研究室の教授よりも先に帰ってはいけないとか、新人は5分前に来て会議室の椅子を揃えておくべきだとか。

『自分もそうしてきたから』という理由がまかり通るのなら、俺は幼少期に庭でミミズを掘り返して水洗いし地面に干す『ミミズの洗濯』をしてきたのだから、全国の保育園でのお遊びの時間には『ミミズの洗濯』をするべきではないか。

慣習は前時代的なものであることが多い。

少なくとも、数十年間アップデートされないシステムを使い続けていることのおかしさに、日本人は気付く必要がある。

蒸汽機関車

小学2年生で習う漢字に『汽』がある。

俺は今までこの漢字を『汽車』『汽笛』『汽水』以外に使ったことがない。

この漢字は『汽車』という言葉を読めるようにするために7歳で教わる漢字なのだ。

常用漢字として登録されている2,136文字の中で、小学1.2年生で習う漢字は240個。つまり全体の11.2%の漢字をこの2年で勉強することになる。しかし『汽』という漢字は、どうもこの上位11.2%に優先的にランクインするくらいに汎用性の高い漢字には思えない。

今の時代、汽車と一般的に言われる蒸気機関車などほとんど走っていない。汽笛は船か汽車に乗らないと聞くことがないし、そのどちらもが一般的な交通機関ではない。汽水はそもそもその言葉を知らない人の方が多いくらいの概念だ。

それでも『汽』は上位11.2%に名を連ね続ける。広辞苑が何度編纂されようとも、プログラミング教育が必修になろうとも、英語が世界の共通言語になろうとも、『汽』は日本人が初期段階で知っておくべき漢字であるらしい。

慣習は恐ろしい。

『汽』という漢字を学んだことのない大人がいたとして、『気』は絶対に学んでいるし読める。人間の想像力と予測力を生かせば『汽』の右側だけで『き』と読める人がほとんどなはずだ。『汽車』の2文字目が『しゃ』であることで『きしゃ』という音だと判断できる人がほとんどなはずだ。

それでも『汽』は学ばれ続ける。入学式で見たのに小学3年で習う『式』より先に。そもそも習っている漢字の『漢』よりも先に。

いっそ量子力学を小学校で習うことでアルファベットを覚えられるくらいの教育を、この国は目指しているのだろうか。

最後に

テヌワラさんは3カ国語を操る。

スリランカ料理店に俺を連れて行き店主とシンハラ語で会話し、大学の授業では英語で他の留学生たちとディスカッションし、学びたての日本語で『そうじゃないよー』と俺の計算ミスを指摘してくれる。

『日本人はみんなやさしいから、日本好きです』

そう言って国内での就職を決めた彼女に敬意を表する。だけど俺は胸を張って『日本人はみんないい人だよ』とは言えない。

外国人を見ると『英語話せないから』と距離を置く鎖国組を敬うことはできない。1639年〜1854年まで続いたとされてきた鎖国政策を、現代はまだ『慣習』という形で国民性として受け継いでいる気がする。

『外国人だってみんな同じ人間だよ!!』そう力強く主張する彼女は、SNSに外国人と撮った写真ばかりアップする。外国に旅行に行った画像ばかりを誇らしげに載せる。日本人は同じ人間ではないのかと思うほどに、『特別でない外国人』の中で『日本人の中で特別』になろうとしているように見える。

日本人と遊んだからと言って画像をあげないのはなぜだろう。

開国組と形容するべき行動との矛盾を感じながらも『触れないでおく』という日本人の遺伝子に刻まれた慣習を実践する。

ひらがなよりも先にカタカナを。カタカナよりも先に、もっと教えてあげられる日本の素晴らしさがあるはずだ。

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