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n+1回目のプロポーズ

他人の作る飯は美味い。

自分で飯を作るようになってから、他人が作る飯の旨さに気付く。なぜだろう。

『愛情たっぷりだからね!!』と彼女に言われても『どの段階で"愛情"を投入するかによって味は変わってくるのでは?』と考えてしまうし、『料理は勘だからねぇ』と母親に言われても『成分を分析すればその"勘"もなんらかの調味料の比率で出てくるのに』と思ってしまう。

人間の舌に配置されている味蕾の数は、大人になると減少するらしい。それは幼少期に人体に対して毒素を持つ食べ物を敏感に判断できるように味蕾が多く配置され、大人になると経験的に判断ができるようになるので数が減少するのだそうだ。

もしも『他人の作った飯がうまい』が錯覚ではなく真実だとしたら、人間の舌には『他人の作った』という部分を感じる器官、もしくは『他人が作った』という情報を旨味に変える機構が備わっているのだろうか。

人体の不思議を解き明かしたい。

自然消滅のオーガニック野菜

『使用人』という肩書をいただいて家事をやるようになり、他人の分の飯まで作るようになった。

『毎食美味しいから外食する必要性を感じないな』と、雇用主にはお褒めの言葉をいただいている。

しかし自分で毎日料理をするようになって気付いた。

『そもそも目の前の料理に対しての新鮮さが違う』

料理を食べる側は、料理を食べる時がその料理との『初対面』になる。『今夜はカレーだよ』と伝えておけば『今夜はカレーを食べられるんだな』と期待感を持って食卓に座り『待ちに待ったカレー』を食すことができる。

一方で料理を作る側は、『今夜はカレーにしよう』と思った瞬間から幾度となくカレーのことを思い描き、カレーに必要な食材を購入し、カレーの味を予想しながら調理をする。その日1日で少なくとも10回以上はカレーについて考え、カレーがカレーになる前から、目の前の食事をカレーにするために行動し食材と関わっている。

目の前の料理は『待ちに待ったカレー』ではなく『自分がカレーにしたもの』となる。

調理実習のプロ

野菜がみずみずしいかではなく、食材と対面した時の『新鮮さ』は間違いなく美味しさの秘密であると思う。

初めて見る映画の感動と同じように、予告編を見てワクワクし、どんなストーリだろうと想像をめぐらし、実際に鑑賞して初めて感動を体感できる映画体験。

もしも映画監督が自分で構想を練り、ロケハンや演技指導を行い、実際に完成した映画を鑑賞したとしても、その感動はきっと一般鑑賞者の感じる感動とは別物だ。

全国の主婦の皆さんが『毎日の献立を考えるのが1番面倒』というのもうなづける。ものつくりのスペシャリストというわけでもないのに必要に駆られて料理をしなくてはいけないのだから。それも毎日。

外食や実家の素晴らしさは『自分で作らなくてもいい』という点以上に『料理との新鮮な出会いを経験できる』という面にあるのではないかと俺は考える。

いつものメンバーに感じる安心感を、いつもの朝食に感じる。毎日白米を食べ、毎日味噌汁を飲んでいても違和感がない。

しかし毎日の晩ご飯がカレーだと『インド人か!!』とお叱りをくらってしまう。なぜだろう。

SFの世界で常識となっている『何らかの栄養を取れる液体』が一般的になったとしたら、普段の食事の意味は変わるのだろうか。

最終問題は100万ポイント

主婦の皆さんが対峙する料理のように、『1回目』と『2回目』には大きな違いがあるのは言うまでもないだろう。

何事も1回目には補正がかけられる。良い結果が出たら『ビギナーズラック』という言葉で実力ではないとされ、悪い結果でも『始めてだから』という理由で情けがかけられる。

いくら目の前にある体験が『本番』であろうとも、1回目である以上は真の本番には数えられないようにできているのだと思う。

誰しもが1回目を0回目かのようにカウントし、2回目を1回目かのように、それでいて紛れもない2回目でもあることを認識して暮らしている。

初犯は軽い。1度目の浮気ならば『魔が差しただけ』と言い訳が通用してしまうような気がして男性は浮気をする。『1回くらい』の軽さによって未来が奪われることも多い。

たとえ1回目だろうと、それは確実にこの世で同じだけの重みを持つ『1回』であることを、何事に対しても意識して生きなくてはいけない。

もしも『1回』が軽率に扱われ、あたかもノーカウントかのように数えられるのであれば、長年の修行と鍛錬の末に勝ち取った執念の勝利に対して辛辣なセリフを吐かないといけない。

『1回勝っただけでしょ』と。

最後に

経験の密度や質によって、人間の感性は反応を変える。

繰り返し回数を重ねることでも、人間は物事の見方を変える。

自分に対して1万回愛を伝えてくる人を、自分はどう評価するだろうか。ストーカーとなるか最愛の人となるか、回数だけではない要素に大きく左右されるにしろ、回数だって1つの評価要素になり得る。

多くの場合、100回チャレンジし続けた人に、人は『粘り強い』という評価を下す。

それがたとえ何の戦略もなくただ同じことを繰り返す100回で、次の101回目も何の改善もなされていなくても、この世界の一定数の人間はその『ひたむきさ』に心打たれる。

誰もが1回目の人間体験、誰もが1回目のこの世界への転生、誰もが1回目の死を待ちわびるこの世界で、1回目を大切に出来ないのであれば潔く来世に期待して生きていこう。

k回目とk+1回目が同じ結果になったことで、これから訪れる任意のn回目も同じ結果にならぬように、何かを変えなくてはいけないことを自覚しよう。

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