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『愛ゎ時空を恋え』 第一話 by悟行(サトピーって読んでネ)


#創作大賞2023 #恋愛小説部門  

あらすじ: 昭和rétroど真ん中の頃、ジョンソンタウンに生まれた少年の物語。
    誰でも入れるわけではない神の家に、2歳のとき入った少年は、あろう
    事かそこを飛び出し、映画を見て過ごした1年後、動物農場のような
    保育園に強制収容の身となった。小学校で神の家の友や、天子のよう
    な学友を得、生家は株式会社となり少年も軌道を取り戻す。
     が地方の医大に馴染めず休学、著名人とも知り合いバブル期の六本
    木で精神分裂病の女と過ごす。一転復学後、Dr.になる少年は暫く後あ
    の大震災に出会す。
     そこから創造主を訴追する旅に出る。

『愛ゎ時空を恋ぇ』 第一章 聖人式


              (注:第何話表示は記事を分けてアップせよ
                という指示の便宜上の記事番号デス。章で
                行きま章! … …  全七話❣️)

    1

 バブルの塔(都庁)の
 強烈な照り返しもなく、

 20世紀も中葉、
 を過ぎた頃、
 トキオ近郊。
 夏の最高気温は、
 29度。
 特に冷夏というわけでもなく、
 そんな夏が、2年も3年もフツーに続いた
 直後、1955、昭和30年頃のこと・・

 折しも折、
 大宇宙の深淵に突き通るような、果てしなく
 濃い紺青の天幕の東の更に果てに突然、
 一際明るい星と、
 背後に2つの伴星が現れた。
 それは、
 幽かに輝き出し、
 2週に渡って更に輝きを増し続けた。

 夥(おびただ)しいサファイアの原石、
 のような夏の夜明けの光景が、
 地上に遍(あまね)く広がりつつ、
 3つの星は、
 いよいよそれぞれの明るさを増し、
 敢然として光り続ける。

 これこそ、
 有り難くも、
 神々の生誕の朝か。。

   2

 なんの屈託もない天真爛漫な笑顔の子、
 それこそ生きていることが、活きてて
 面白くて仕方がないほどの、
 満面の祝福の笑みを湛えた、
 その ‘子’ は、
 3才になろうという年、
 当然の如く、
 十字(クロス)の栄光に輝く、
 青く尖った塔の下、
 神の家に集められた。

 ここで、
 賢人たちの教育が為される、
 ーーわけだった。ところが、

 あろうことか ‘子’ は、
 ビル・ヴォーリズ設計の尖塔が、
 美しく青緑色に聳えたつ神の家を離れ、
 敢えて、民の中へと、
 40年余りに及ぶ旅に出てしまう。

    3

 停学40年、
 諸国放浪の途(みち)・・

 勿論、神の家からは、永浜家に遣いが赴いて事の重大性を説いた。ーー“弘行さんは、ちゃんと通われた方が宜しいですよ。お誕生日が同じだったチヨ美ちゃんやずず君もきちんと続けられてますし、どなたでもお入り頂けるところではないのですから❗️” と。
 しかしながら‘子’は3才にして、1年近くの浪人生活を経た後、恐ろしいことに、どこの馬でも入れる超無責任体質の保育所如きに、半強制的収容の体となった。
 
 神の家に残った2人の友との差は、小学校入学時に偶然にも、2人とも同じクラスになり歴然とした。2人に追いつけるようになったのは、クラス替えのある3年に上がる頃だった。
 その時、チヨ美はアメリカに一家で留学してしまい、ずずはずずで、音楽教師への道を順調に進んでいた。

   4

 更に1年の後、
 学習にもなんとか余裕を感じ始めた頃。
 この地上で、
 ‘子’は初めて、
 “聖人”の‘トモ’に会った。
 ‘毛利規朝(モーリ・ノリトモ)’
 と名のる、10才にして“聖人”と思しき。

 一万円札みたいな彼曰く、
 “ナガハマクン、
 この夏休みは、
 召集日には、ぜひ家(うち)に寄っていかないか❓”
 と。

 さて、8月初日、
 夏休みの召集(登校)日が巡ってきた。
 さっそく彼に連れられ、
 よくある金のロゴ入り野球帽にそれと同色
 紺地の半ズボンという‘子’は、
 我が、トモの屋敷に立ち寄ることに。

 日を浴びた煉瓦造りの門を越えると、
 彼の母親は、慎み深い聡明さの漂う人で、
 使用人というのが、とても頭の良さげなお姉さんだった。
 
 お茶とアイスクリームを頂くとじき、
 トモちゃんは、家を案内する、と言って、
 薄明るい長い廊下を歩き始めた。
 苔むした裏庭に面した使用人部屋の先は、
 うず高い、3万冊にも及ぶ蔵書のある書斎。
 ‘子’の小規模会社では、
 廊下に、夥(おびただ)しいデザイン雑誌やグラフ誌が
 無造作に積まれたまま有り、特に書斎というものは
 なかった。

 大層な書斎を過ぎると、トモちゃんと‘子’は
 夏の遅い午後の日盛りの中に出、南に広がる
 庭園を案内された。
 
 小高い芝山に立つと、
 青い草の中を、白く脹れた子持ち蜘蛛が
 往き来していて、‘子’にはちょっと気持ち悪かった!
 ーーけど、そもそも
 虫が居ればクモが居るし、蜂が🐝居るから
 花も実もなる・・とまァそーゆー当然の自然、
 大自然界が目前に広がっていることに驚かされた
 ってわけ。加えてーー10才のクラスメートに家を
 案内される10才の少年というシチュエーション自体が、
 詰まりは妙だったのかもしれなかった。

 そんなカンジで、
 数回ある召集日の内、トモちゃんの家の都合(都心の
 デパートへのお買い物の日とか)でツブレたことが
 あっても、‘子’はこの夏に5回トモの屋敷に立ち寄ることになり。

 で、
 目がキリッと賢そうなあの女の人(5桁の請求書が3枚あっても
 空中で指を2本動かし暗算合計即答してた❗️)が、行くと毎回
 ヒロくんは?トモちゃんは?と、アイスクリーム🍨の好みを尋ね
 (彼女いつも寒色系のスコティッシュな巻きスカートなので、子
 にはピンで留めた所のスカートの揺らぎが気になった。てゆーか、
 あの眼差しと鋭く光るピン処の捩(よじ)れた揺らぎとのエキサイ
 ティングなアンバランス感❣️)、広い応接間で、トモちゃんとお母様
 とあの人と子の4人で、いつも一緒に食べた。

 1回目の訪問では、確かに家の案内があったわけだけど、2回目以後は
 アイスクリームの場面以外全く記憶がない‼️・・それに、トモちゃんには、
 優秀なお姉さんがいたはずだけど、不思議と一度も出会さなかった。ーー
 あっと、1つだけ鮮明に甦ったこと・・それは、
  トモは歩きながらいつも、なぜか膨大な数字、兆の位よりもずっとずっと
 上の桁外れの数字の絡むQが好きだった。何度も繰り返し訊かれたので、子は
 今でも即答できる。Question ・・

 Q1: 1日は?          A1: 86,400秒❗️
 Q2: 海はいくつ?       A2: 7つ❗️南氷洋・北氷洋・インド洋・・

というように。ーー宇宙・天文・地理、つまり

 ‘時空に関わる膨大な数字の世界’

を楽しんで共有していたことになるのかな。で、

夏が終わると、トモと子は、
不思議とゆーか1学期同様の男女10人仲良しグループの
一員という、フツーの友達に戻った。(この10人というのは、
どのクラスにもきっといるに違いない、クラスで何をやるにも
中心メンバー的な存在だった)

そうしてーー
この夏の、‘子’にとっての特別な体験も、年月と共に忘れ去られ
ていった、ようだ。

その後、トモちゃんは、

朝礼や運動会で、全校行進の先頭に立って
指揮をとったり、生徒会とか世のため人のために働いていた。

でまァその後は、
その手の子息のいく学校へ行き、そのまま大学まで進級したようだ。

子が高校卒業後、図書館通いをしている頃だった。トモは大学2年。
何年か振りにバッタリ見かけ、遠目に挨拶をしたのが、最後の記憶か。
その時も、
ブルックス仕込みの姿は、皇太子様のような雰囲気で、
顔立ちは相も変わらずあのお札の太子様似だった。
 ネット風の便りには、今も福祉活動に参加励んでるらしい様子が
窺(うかが)えたのです。

トモちゃんの、あの夏の誘いの意味は、
‘子’には、
その後30年近くわからないままだった。・・

   5

 ワープロなどない時代、1960年代。

               (simple is best! 多摩動物園🦓の坂シリーズ)


 オシャレ工房株式会社として、小規模ながら会社化された
‘子’の家では、年末千枚に及ぶ年賀状の宛名書きに、JK4人を
雇うことに。一方‘子’は毎秋、自分でデザインしたイニシャル入りの
オーダーセーター(子のデザインコンセプトは、“シンプル・イズ・
ベスト”で2色の毛糸しか使わせず紺地に白い線と文字を、腕か胸元に
入れさせた)を着て、おやつを食べようと家に戻るや
 
‘あれ⁉️’ 。。

 いずれも緑や紺地、胸回りに幾何学模様のよく見るセーターから
白くてキレイな首を覗かせた知らないお姉さんたちが、炬燵を占領
している❗️
 一見麻雀対戦のような東南西北4人座り。何をしているのかと思うと、
みんなペンを持って葉書に向かっている。挨拶がわりに、取り敢えず‘子’
がギャグを飛ばす。ーーと彼女たちは、必死で堪えてペンを走らせる。
堪えに堪えた引き攣る横顔のおかしさ❗️遂に1人が、我慢しきれず吹き出してしまうと、笑いは右回りに伝播し。

 “キャキャキャキャッ、
  キャハハハヘホーイハッ❗️”

一周してもう一度、笑い出しっぺの娘が、ホラおかしいよネッ、とばかりにまた大笑い転げた。しかも、
「坊っちゃま困りますっ❗️みんなァ、


 若旦那の言うことに耳を傾けないように‼️」

と注意喚起したはずの、目鼻ハッキリ一番キツくてまじめそうな千賀子さん
たら真っ先にコケた。続く次のギャグでは、逆回りにコケにコケまくり。
なので、賀状は結局、予定枚数を遥かにオーバーしてしまったみたい。

 で、笑いコケ方が

 ‘女子高生ってなんか面白い❣️’

というカンジが‘子’の
深層波動として刻印された。だからその後は、当たり前のように JK って
いいニャァみたいな気分がいつもあったかもしれない。双方向的にも。(実際、40代過ぎてもデートの相手はJKだったし、それもエンコーなんて無縁、対等どころか、たまにお嬢様御用達の高級lounge tea timeに🍰奢ってくてた娘すらいる。超〜違和感なし❣️)

 そして更に・・

 彼女たち JK が帰ると、落ち着く暇もなく今度は、知らないマルチュー
さん(中学生のお姉ちゃん)が、“え゛⁉️” 突然居る❗️ なんだか知らない
けど、一緒に夕飯食べた。どうやら、泊り込みのメイドのバイトらしかった。
明日っから丸々2週間近く、とか。ひぇ〜‼️

 さっそくとゆーか、翌日の夜。
 その◯中(マルチュー)さんに、歌謡ショーへ連れてってもらうことに。
‘子’の父親は、商工会議所の旅とショーの役員をやっていて、まァ‘子’の父親
が呼び屋というわけ。で、チケットを数枚貰ってあって。ので、マルチュー
さんに付き合って貰い、2日間2晩共連続ショー通いをした。
 
 何しろ、第2会場の方の民謡ガール3人娘がメッチャキレかったから❣️
丁度、最盛期の“ゴマキ・辻ピョン・加護ピョン” みたく。‘桃’ という他に
言葉がない❗️と、感じ入った‘子’ は、傍の席にいた知ってるオバチャンに
“モモみたくキレイだネ❗️”って囁くと、オバチャマ わっと笑って呆れてた。
 みんな綺麗な着物や浴衣姿で、主に民謡っぽい唄を歌っていた。とにかく、
高音が澄み通るようにキレくて、それもクラシックのような透明感とは全然違くて、色のついた透明というか艶(つや)のある上澄みで、頬の可愛さといったらなく。お腰の山吹色に結んだ帯が、歌う度に揺れていて、たぶん3つか4つ上、
14、5才の娘たちなんだろうけど。伊豆踊り子みたいなもんだろうな。あの、

  ‘道が九十九折りになると生足が激しくなった’ 

とゆーあのカンジ❗️しかも客席は、そもそもお隣からして◯中さんじゃん⁉️・・

 歌謡ショーがハネて家に帰ると、メインの第1会場を仕切っていた父親が、
レコード大賞新人賞とった高校生歌手に、楽屋で銘茶を差し出したって、ちょ自慢気に話している。それ勿論◯中さんはびーっくりしていたけど。ですがデス❗️
‘子’ には“へぇ〜・・” だった。てかやっぱ、白セーターの有名な高校兄ちゃんより、その時は、あの名もないかわい子ちゃんたち民謡ガール3人娘のために2晩続けて同じ会場へ通う方が、当り前田の自然だった。ーードぁあっっって、

TVつければいっつも男のケツで溢れてうんざりしてたし❗️球技もプロの球団といえば全部男。レスラーも男ばっか・・なんなんだか⁉️

 たま〜に女子プロが街に来そうになると、見せ物だからダメ、とか言って中止しちゃう主婦連みたいな人たちときたら、その舌の乾かぬうちに、なっなんだ後援会とか称して裸フンドシ力士の隣に平然と立って記念撮影なんかしちゃってよ❗️女子によるセクハラ大横行時代真只中❗️つか今もチンチョーハって蔓延ってるけど。・・どころか、
 じき、エレキだ4人組だァ、どのTV も真似男バンドの声ばかり。掃いて捨てても?ほどうれしいAKブーどころか、沢もホレカワスミナホミも影も形もない超〜つまらない真っ黒K、まさに暗黒時代が受難の中高時代が待ってるたァ夢にも思わなんだ‘子’ であった。 ーーとゆーような時代背景デスので、爽やかな三田©️そのものは別にいいのだけれど。
 もしもあの4人組がツィーギーが4倍集まったようなミニスカポリスのスパイスガールズだったとしたら、‘子’の人生も日本の若者文化も世界も全く違ってただろうに❗️だから、このマイナーな第2会場のフェスこそは

   天〜ん国‼️


でしたよぉ。
 結局‘子’にとって、その冬は‘巫女年代’で暮れていった。

 『13から17の健全な女子、青春の記念に写真プレゼント付』

ーー全国最寄神社、巫女さん新春バイト募集の貼紙には皆そう書いてあった。

     6

 あくる日。“この辺に何かない❓❓”って◯中(マルチュー)さんが訊ねるので、それなら❗️と、父親が大株主の1人になっている‘森のレストラン’を教えてあげた。
 緑と茶色の軽井沢風の瀟洒(しょうしゃ)な建物の前には、

  “ようこそ豊かな森のレストランへ”

という大看板と、その脇にはカラフルでピカピカのアメ車が、何台か
パーキングしてて。”ね、ここ高くないの⁉️” とマルチューさんの引け顔に
‘子’は、

 「これ❗️」

と“株主優待券”をポケットから出して見せたんだけど、ピンときてなさげ丸ペチャ丸ポチでやっぱ里山の娘っぽい❓❓お洋服だけでなく・・で、優待券には小さな字で

 “お食事50%off・本格的サイフォンコーヒー無料❗️”

とある。勿論、◯中さんを連れた小学生の‘子’としたはまァ、おいしいコーヒーを飲みに寄ったまで。。で、です。

 帰り際、蝶ネクタイをした支配人の温玉げた目ん玉といったら⁉️タロ岡本のように丸〜ん丸くすっとんきょ‼️ スペースないのか、特に“食後の”とは書いてないよネ❗️そのコーヒーたるやメッチャ旨んまくてもう◯中さんびーーっくり②・・来店2度目の‘子’は、それもだったけどそれよか何よりも、脇のテーブルに居合わせたクラスの‘魚屋クン’一家の豪華な晩餐に目を見張った。

 サラダ1つからしてキラキラクリスタルグラスに載せて。人参一切れが
まるで高価なカトレアの一輪差し。
 壁際の4つのスピーカーからは溢れんばかりの南米音楽が軽やかに、とりわけパーカッションとボサノバギター音とがカンカンザンザン心地よく館内に響き、奥のテーブル席の方には、南部訛りの米軍属が陣取っていた。

 ‘魚屋クン’というのは、親の職業欄に何も考えずに魚屋と書いてそのまま担任に提出してしまったものだから、群馬の山奥から来たというトンマな新人担任に

 『おまえ魚屋か⁈』

と言われ(今ならこれだけでも個人情報漏洩の謗りを受けかねないワ)、以来その担任ときたら何と授業中当てるときにまで『魚屋』と呼び捨てるようになった。
 おそらくこの先生、自己紹介でケツの穴まで見せる人はいないってことを知らないか、尻尾は隠すものだと習わずに育ったようだ。呆れた事に、家庭訪問の後も、鈍感な担任は、魚屋クンを魚屋呼ばわりし続けた。魚屋クンの家の電気の配線や特にガスの設備配管の様子をよーく見りゃ、隣接するビルの配管と1つに連なったプロパン小屋から出ている。

 敏感な人なら、いやいやよほどの鈍(どん)でない限りこれだけで実態把握は可能なはず❗️魚屋クンのお父上は、正式には
 
  ‘◯魚(マルギョ)水産株式会社不動産部資産管理部長’

だから本来、職業欄には[会社役員]と記入すべきところだ。!資産12億を管理なら実質オーナーさんよ。そもそも不動産部だけで水産部の20倍以上の収入があり、それこそゴールドどころか’プラチナカード‘ の世界の人なのに。
 こーゆー風に、トンマな担任にからかわれたままでいると、結局は同様のトンマつかよくわかってない奴からつけ込まれることになり、宜しくないかもね。

 さてこのトンマ教師ときたら、どこまでも底抜けで、

 “ファントム1機ありゃ、この町の人が1年暮らせる”

などと授業中に言ってのけた。トンマがいるから、人が他国に平気で誘拐されたままでいながら“平和だ”なんてボケてるんよ。
 独立しても憲法も作らないニッポン国の教員の質の低さは嘆かわしい限りだった。中学とき、憲法とかいう文、変な日本語だと思ったら、白洲さんが訳した’アメリカ人の置き土産’ だっちゅうから驚きだァ。なんで共産党はアメリカが大好きなんだか❓憲法もないのにどうやって立つんだか❓‘立憲’ とか、沼の上に立ってんだかね⁉️更には、‘護憲’ て無いものをどうやって護るんだか⁉️っちゅう話じゃんネ❓❓
 
 さてと、魚屋クンの実態、豪華ディナーを目撃した後、星空の下でなくエア・ベースの敵機哨戒燈が夜空をサァーッサアァーーッと回転(サーチ)してくのを横目に、◯中さんと‘子’は家路についた。

 そんなカンジで、泊りの◯中さんは、4年間4人続いた。というのも、労基とかだんだん厳しくなって、やっぱ中学生のバイトは禁止になった。どちらにとっても、メッチャうまくいっていたのに、だ。
 女子高生の方は、例えば次の春休みには、JK2の娘が1人で来て寂しそうだった。おやつタイム、一緒に食べている時に、卒業文集とかを抑揚つけて面白おかしく読んだら、紀子様みたく笑ってくれた。やっぱJK1人じゃつまんなかったんだよね!そんなんもあったりして、JKバイト君は8年間続いた。ーー突然プッツンした。
 というのは、老いることが大嫌いだった父親が、老いるどころか壮年にすらなる前の47才の若さで、髪の黒いままさっさと他界してしまったから。ある意味、有言実行。老いるのが絶対ヤダという言霊(ことだま)が結果的に現実化、病に倒れたのだった。

 それはさておき、年賀書きのJKたちが去った冬の頃に話は戻るけど。。
 炬燵を占領されることもなく、ゴロゴロしている‘子’に向かって父親が言う。

「お〜い寝てばっかいないで新聞でも配ってみろ、小遣い貰えんぞ❗️」

 と突然の、聞き慣れない言葉に、

 「何それ⁉️」

と素早く‘子’が反応して起き上がった。と、冗談飛ばしたつもりのオールバック・ポマード照からせた父親が笑ってる。で‘子’は気になる質問、
「え?ナニお金くれんの⁉️」


「そらそーだろう。」
「へ?どーすればいいの⁉️」
「アハハハ、・・新聞屋行ってみたらよぉ。」

 さて、このナニゲの会話。後々とんでもない展開に。ま、寝ている子を起こし過ぎたようだ⁉️ ‘子’ は、暇潰しがてらホントにそのまま新聞店へ行き、折しも忙しい夕刊時。
 なので、そのまま

 “一度ついて回ってみィ”

と、店主に言われるまま、ごくフツーのカンジ・鈴木亮平みたいな20代の兄ちゃんを自転車で追った。

 映画のロケにも使われる、キレくて小さな石橋の袂にあったキラキラしてる🤩賑やかなパチンコ屋をスタートし、着物ショップを折れ住宅街を数軒過ぎると神社の境内を勢いよく抜け出て、再び商店街の魚屋さんの所に出たり、ピカピカのドイツ車のある住宅街に再び入り、気がつくとあっという間に50軒ほど回っていた。50軒目の文化住宅2軒を終えると、その兄ちゃんに、

 「どーお❓❓」

 と訊かれ、答えを聞くまでもなく兄ちゃんはニコニコしていて、そこにあったパン屋さんで焼菓子を買ってくれた。

 夕方のヘッドライトが行き交う道を、2人とも菓子が落ちないようにか、上を向いて食べ歩いた。その時の兄ちゃんのしあわせそうな顔。。きっと‘子’が一緒だったので、いつもより時間がかかって彼自身がそもそも何か食べたかったんだァ、と後々考え及んだ‘子’であった。
 翌日も一緒に回り終えると、道順も誌種も丸暗記できていた❗️3日目からは1人で回り始められそうだったので、念のため兄ちゃんが帰り、‘子’の母親に“大丈夫ですかねェ” というカンジの挨拶に寄った。機転の利く母親が、兄ちゃんに、

「ちょっと待ってね」

と言い、サッサとハイライトを5コ買ってきて包みを渡した。“お兄さんタバコ吸う❓”と聞かれた時点から兄ちゃんはピンと来たらしくニコニコしていたんだけどネ。兄ちゃん上機嫌で帰っていったよぉ。これじゃ、小学生のバイト代なんて今週1週分パァになっちゃうところなのですが、まぁ母親は気前がいいとゆーか、そこはホレ🫵そもそも東京オリンピックに向かってくときの昭和30年代の日本の景気の良さを知っている方なら、あァと合点のいく当然の挨拶・お礼の類だゃネ。。

 さて、母親の反応とは打って変わって、1人で配り始めると驚いた父親だったが、まァまァ2週経てば丁度折よく給料日だ。半月分の駄賃(給料)を貰えば、大方それで気が済むに違いない、とタカを括っていた。が、兄計らんや父も計らぬか、予測大ハズレ❗️

 なんと、配り終わると逆算して1日分を使ってくる生活になったではないか。終点には丁〜度友達が遊んでいて、毎日一緒に駄菓子屋・氷屋にタムロするようになり(何しろ人生初の‘金余り❗️’ 一般時給の3割増位でしたかな。)、まさか

 「やめろ」

とも言えず、流石の父親も3ヶ月目には、本気で対策を考える羽目に。

 何しろ、働いているようで実は堕落❗️
 これで、2度目だ。あの幼稚園が中途になり、課題も何もない楽な動物農場如き保育園なんぞに収容されたこと、そして今。子どもは放っておくとまるでその日暮らしの如きラクな方へ行く。由々しき事態‼️これじゃ、手配師が来ない日に髙田の馬場高架下でワンカップ飲んでる輩と何ら変わらないことになる❗️自分の踊りの発表会どこじゃない❗️ーーその結果、

「ヒロユキ、明日から家庭教師の先生が来てくれることになった。新聞の終わった30分後から2時間だから、夕飯ちゃんと食べとけなっ。」
と父親からいきなし通告された‘子’は、

「え⁉️いつ❓何曜日❓❓」

「うん、だから明日っからだ。週6日、」
「え゛〜〜❗️❗️」

 ‘子’は1週間奮闘した。夕飯の消化吸収が間に合わず超〜眠い。といって食べとかないわけにはなァ。。とゆーわけで、流石にギブアップ、父の勝利か⁉️力をも入れずして‘子’を動かした。

 さて、これには続きがある。‘週6日も!’ なので、半年後には勉強が2年先ぐらいのところまで進んでしまった。学校の成績は急上昇。だもんで、親からやたら褒美を貰うことになった。顕微鏡・望遠鏡、などなど幾度となく。しかもそれらの機器を用いた、いわゆる‘夏休みの自由研究課題’では何度も表彰状を全校朝礼の場で受け取ることにも繋がっていくのだが。

 まず‘子’は、風流人の祖父・千鳥山人が社屋竣工祝いに贈ったという牛ほどの庭石(そこには句が彫られていたーー

 
  ”藪に寝た/鳥より早し/栗拾い//詠・千鳥“

)と、この春も鮮やかなピンクの花を咲かせたツツジとの程良い隙間に樽を埋め込んだ。プランクトンを培養しようと思ったからだ。

 川藻を取ってきて樽池に入れ。検体ができるかも❗️と期待して毎日、樽液を顕微鏡観察すること1ヶ月。来る日も来る日も、緑鮮やかな‘アオミドロ’・‘アオミドロ’‘アオ見ドロ青アオォォ・・’ とまるでかの黒沢フィルムの如き延々長蛇のアオミドロの美しい緑の連続で、目にも鮮やかなプランクトンには違いないのだが、流石にすこし飽きが来たのだが。ーーそして遂に、31日目、忘れもしないその感覚❗️
 ‘静止画アオミドロとは違うぞ❗️’
 それは感動というより驚ーーあっっと驚きだった。
ーー何しろ永遠に続く巻物アオミドロの長〜い連続の後、突如としてムッチリした‘生き物’を発見したからだ。300倍で見る、その口つきといったら❗️今の絵文字のφあかんべマーク?にそっくりのシロモノ。輪郭は、まさしくそのまんま

  ‘ゾーリ’

だったよ‼️

 で、この単細胞生物“ゾウリムシ”を皮切りに‘子’は生まれて初めて、生命の器官[口]細胞というオーガン(器官)を意識した。
 はっきり言って、チョキモかったヮ。勿論、大学に入るまではちゃんとした固定法とか習ってないので、それは見てそれっきりになっちゃったけどネ。。(注:アメーバやゾウリムシに対して『器官(オーガン)』という表現は、厳密にはおかしいかもしれません。ただ、両者とも変幻する単細胞ゆえ、運良く“アカンベ👅”になる瞬間を観察できたようです(^○^) )

 そして、新聞🗞でも配ってみろ!に派生したオマケ2つ。
 1つは、樽池の大石に刻まれた祖父・千鳥山人の句。“藪に寝た〜・・”を含む10句・・‘子’には、今も好きな句が十句あって、すべて空んずる。10のうちの8つは、いわゆる芭蕉10句の内の好きなベスト8で。残り2つの内1つは、俳諧論にも取り上げられる有名な‘読み人知らず’の1句ともう1つこそが、祖父‘千鳥’のこの句なのだ。
 ただし、‘子’が文章に目覚めるのは遠い先のことであり、そのとき頭の片隅に強い印象を残しつつも、まずは機器による理系ごとに花開いた。

 オマケの2つ目: ‘子’ はほとんど気づかなかったが、あの新聞を配っている時、深窓の令嬢の目線がジツゎあったのだ。それも、1つではない。いずれも、ピカピカなドイツ車の置かれた住宅街の娘さんなのだが。何しろ、生活のためとかが微塵もないばかりか自分デザインのシックなセーターを着て、毎日夕方になると庭の木陰に見え隠れする小綺麗な少年の姿は、彼女たちにとっては、まるで‘役’でそれやってるお兄ちゃんのように見えていたらしく、それこそお家でちゃんとお勉強している深窓のお嬢様の目に入らないわけがないというわけですょ。。結果は、‘子’が中3になった時の中1の下級生たちーーそれも凡そ接点のないスポーツ少女達がジワジワ騒いだり通学路の川辺でたむろして待ち伏せしてたりってことになる2年後や更に5年後の恋に影響してたなんざ、それこそ‘お釈迦様でも・・’ という話だワさっ❣️

    7

 中学に進む。
と、トモちゃんを始め多くの友を失った。てゆーか離れた。代わりに‘悪代官’がやってきた。ーーいいトモから‘子’が遠くなったのは、まァ中学の成績偏重主義の弊害だろうね。

 小学とき、‘ハセスン’とのケンカを仲介して、レフリーを申し出た‘テルミックン’とか。‘ハセスン’とは、卒業後いつ会っても笑顔で

 「よ〜っ❗️」

だ。これも‘テルミックン’あったればこそ。小学校入学早々、一緒に担任の若い女の先生に叱られて階段下の小部屋に入れられたとき、無言で微笑んでいた‘ソンべ’さんとか。彼は、18のとき、バッタリ電車で出会し。黙ってチューインガムを差し出してくれた。既に働いていたらしく、カーキ色のスーツを着、ジャン・ギャバンみたく、2駅の間ずっと無言だった。只々優しい男よのぉ。
 あとは、ワーちゃんとか・・勿論トモちゃんも。みんな躾が良くていい奴だった。。で、疎遠になった、そーゆーいい友たちは、成績はまァ第2グループにいて、そこそこっつうかトップ10ではなかった。
 ‘子’はトップ10中頃にいつもいた。トップ10の連中というのは、概して躾がよくない。そんなカンジで、いいトモたちが、例えば生徒会運営とか世のため人のために関わっていた時、‘子’らは勉強してたってことなんだろうな。。

 そんな中学時代、蛮族の悪代官とも呼ぶべき’キョータケ(経堂武吏・キョードータケリ)なるものが闖入してきた。
 この生徒、辛うじてトップ10に引っ掛かったりすることもあって、何かと口の立つ奴だった。それも、後々調べてみるとかなり、デタラメが多いときてる❗️何よりも、出身地が遠すぎて誰も知り及ばないのをいいことに、やたら出身地を自慢しまくり、尚且つこの街のケチをつけるという2本立て。ーーしかも、それをいう時は必ず、睨みつけるような目付きでもって、まるですべてその話し相手の責任であるかのような言い方をするという失礼至極というか、前代未聞のクソ野郎か。。

 必ずといっていいほど、手口はいつも同んなじだ。ーー即ち、自慢と貶(けな)しがセットになっていて且つ引っ掛ける。
 例えば、
「オール5だった(昔話)」
と言ってくる。おっとっとぉぉぉ⁉️ お愛想のつもりで、ここでウッカリ
「スゴイネ」
などと反応したら、それこそ罠(ヒッカケ)で、
「なんだ、とったことないの⁈’凄い’だって❓たいしたことじゃないよ。」
と、馬鹿にしまくるのが常道。ーー幸い、オール5の話にだけは、ノンなかった。だからか、こいつときたら何回も挑戦(チャレンジ)してくる。反応しないのなら、それは相手にとってどうってことないわけで、日常か身近にそーゆー人がいるってことになぜ気づかないんだ⁉️‘子’の母親はオール5だったから、どうということもなかったのだ。
 なのに、こいつときたら人の母親をバカ呼ばわりし、後々殺傷事件に発展しても誰も不思議に思わないような発言を平気ですることにもなり。さてーー

 まず、軽い一例からいってみるか。。
 これは、ハッキリ場所も鮮明に覚えている。校舎2F音楽室の窓際。
 ‘子’が、“今日は歯医者の終りの日で‘ミガク’だけだ“ と言うといきなりバカ扱い顔で、

「‘ミガク’だってェ⁈歯はセメントで治すんだ。」

と喚き散らし、たまたまそばにいた奴をつかまえて、コイツこんなバカ言ってるみたいに‘子’をバカ扱いし、今度は2人つるんで、

「セメントだよなァ、ハハハハハァ〜!」

と大声でもう1人にも賛同させようとする。そもそもたまたま居合わせたソイツは、話の取っ掛りも聞いてなかったのに、だ。

 ーー10年後、大学で習った。まず、セメントからして違う。ここは、アマルガム充填の箇所だった。で、その場合の最終行程(つまり‘子’の言う通り[ミガク]が正しい。即ち、歯の表面も含め充填物の表層を滑らかにして細菌の付着を極力防止することで再発防止云々・・とちゃんとテキストに書いてある。

 あのバカどうしてくれるんだ❗️この半世紀に渡る屈辱状態をよぉ‼️
 あの数年後のことだった。遠回しに、奴の出身地のはずの場所を『その辺は汚いところだった』と旅先葉書や他にも遠回しに、同様の被害に遭った友だちの浅木の分まで2回送った。けど、類推力も記憶力もない人間には無用らしくて無反応、という結果。

 どうせなら、ハッキリとテキストを内容証明で送った方がマシだったかな❓❓勿論ボケには何の話かサッパリわかるまい。送付の意味すら理解できんだろうが。逆に、こっちが変人扱いされるのがオチ❗️
 よーく考えると、この話相当変チクリンなんだ。だって、1人のドクターが診療計画に基づいて次回の行程を超簡潔に患者さんに伝えている。しかもこの患者というのが即ち‘子’は、将来結果的には同様のドクターになる人間だということは、聞いた診療計画を正確無比に受容すべき素地を持っていたので、‘ミガク’という行程は百%ブレなくて伝わったはずなのだ。
 そいつは、これを否定したわけだ。今すぐ、あのドクターに謝るべきではないだろうか⁉️ ・・・さて更に、、

 別のとき。父親の自慢に必ずセットの罠(ひっかけ)付き。
 まず、父親が仕事で米国行きだという。そこはフツーだ。で、TVに出るという。要は、仕事の件で向こうでインタビューを受けるっつー話。まァここは、褒めるのが挨拶なんだろなってフツーに思って“スゴイネ”と相槌を打ったらさぁ大変❗️こ、
ここからが経堂武吏(きょうどう・たけり、経武=キョータケ)の‘狂武’たる所以(ゆえん)なんだんす❗️ワッと豹変、

「えっ⁉️凄いって❓TVに出るのがそんなに凄いの⁉️え、バカみたい。」

と捲(まく)し立て。誘導自ら話題にしておきながら、相手が俎上に引っ掛かって載るや否や、一目散にバカにしてくるサマは、ゴキブリを叩くよりも素早い。必ず、か・な・ら・ず自慢とバカにするが、この人間のトークに於いてはいつ何時でも病的なまでにセットだった。

 次は、夏休み中の話。狂武(キョータケ)が、望遠鏡を貸してくれ、と。
ーーところで‘子’の家は学校の北方、川の手下町にある一方、狂武は南方高地の畑を開発した宅地だった。
 で、どーゆーわけかモノを受け渡す待合せ場所が、学校と狂武の家の真ん中になった。夏休みさ中の炎天下1時の約束!‘子’は学校まで坂を登り詰めた上、更にそこから上り坂を少し行くことになる。約束を5分程過ぎるかという頃、大汗かいて💦ハアハァしている‘子’。下ってきた狂武は、当然の如くモノを受け取ると、30メートルくらい戻り登った地点で、突然振り返りざま、こう叫んだ。

「遅れて来ると思ったよ!」

‘子’はあっけに取られた。まだ息切れ大汗・・追いかける気力も削ぐ坂の中腹。そう見込んだ上での捨て台詞⁉️まさに年貢取り立ての‘悪代官’そのまんまだ。
 しかも続きがある。ーー数日後の夜のこと。様子を見に行くと・・。
 レンズの固定・調節のためのネジって、眼科医とかがよく手袋して回すよね。あれは手で回すためのギザギザがあるからだ。それを、狂武ときたらイキなりペンチで回した。

「えっ⁉️」

と思わず‘子’が叫んだ。ネジ溝が潰れて使いにくくなる上、歪んだ溝で指もケガする❗️すると、狂武の信じ難いリアクションが待っていた。なななななんと、

「このぐらいいいんだよ。」

だってよ‼️  ・・・うっ絶句。。他人の物をを傷つけておきながら。

 これこそ悪代官❗️このぐらいいいんだぁ⁉️ どーゆー育ち方したんだか(知りたくもないや)。親の顔が見たい❓・・嫌々。。(これこそが半世紀のち第三者委員会によって“企業体質”って言われる事柄にほぼ一致の大伏線也‼️持主が

よくないって言ってんのに。ってことと、銀行統合の際、専門家の言う事を無視してシステム障害を繰り返す

ことの、ほぼほぼ一致酷似のこと。)

 要するに、狂武に対するぼくの思い込み偏見かと思い何十年も遠慮してた感慨が、第三者の指摘で思い違いなどでは微塵もなく、やっぱり❗️という‘御墨付‘を得た感があった。

 沈黙していると(てか呆れて怒り同時力抜け中)、メシ食ってけ、と言うので、姉ちゃんとご母堂様と4人で食べた。父親は、単身赴任とかで不在中也。キッチンの棚には、やたらデカい漬物瓶が幾つも犇(ひしめ)いていて、大方肉食系だった。
 狂武は、大口を開けて食べてたんだろうか、漬物をやたらと

 ガリガリガリガリ、イガイガガリガリリン、

かなりの爆音を響かせて食べているではないか❗️思わず‘子’と姉ちゃんの目が合って、2人ともクスッとなった。がしかし・・お姉さん特に、弟というか、取分け弟の躾にはさして興味もなさそうだった。母親もナーンも言わんかった。

 使用人のひとりもいる訳ではないので、食べ終えた食器を‘子’がシンクまで運ぼうとしたら、狂武が‘いいよ’と制した。ので、全く野放図のような気がしたのだけれど、‘郷に入ったら’とかで狂武に合わせてほっといた。それから、母親の狂武に対する呼び方が、ギコちない気がした。あとで聞いたら、つい何ヶ月前までは生まれてこの方ずーっと‘坊やァ’と呼ばれていたそうだん。。

 帰り際、向かいの畑も宅地化されるみたいで。
 狂武に『ここ、◯◯さんが越してくるんだけど、どんな娘❓』と訊かれた。

 やさしいカンジの先輩だったし、“いいカンジの人だけどォ” と常識的に受け応えた‘子’であった。。が❗️である。
 後日いきなり、またも信じ難いリアクションが待ってましたぁあっっっ‼️

 「あれ、ブスじゃんか❗️」

と。
 長く住んでてトラブルがあったとかではなくて、全くマッサラ隣に越してくる同じ中学の人を、あんなあからさまに罵(ののし)る人間ていったい何だろう⁉️しかも、[アレ]とはヤ‼️
 公的評価は無視、好みでなきゃ婉曲表現すらなく貶し尽くす。これぞまさしく、

 ‘悪代官・狂武’

だゃ❗️

 この優しい先輩は、“卒業までには持ってきてネ❗️“ と、そっと‘子’に囁き、“えっ❓❓” と問い返すと、“あなたの写真ょ❣️” と。‘子’は勿論こころよく応じた。そんなお姉さんデス。
 これから建つ家に、とんでもない隣人が待っているとはな・・10年後‘子’は父親他界後、エア・ベースの街から、都心よりのS 区へ移転していた。その頃、たまたま見かけた住宅地図で、狂武のとこが更地になっているのを発見した。既に自分が住んでいない街であるのにも関わらず、‘子’はなぜか安堵した。
 何なんだろう、この安堵感て・・悪魔が去ったカンジ、とでも云おうか❓もう1つは、先輩がもう、狂武のお向かいではなくなった、という解放された安堵感に違いなかった。

 この種の、狂武の悪口雑言(あっこうぞうげん)は、皇室にまで及び、ある皇族方の御結婚が決まるや‘ブースだ!‘ といきなり全否定。
 別に右翼とかでなく普通の日本人として、このような人格否定の発言は居心地悪い❗️その方は、

今も品よく、杖を使うようになられてさえ素早く立ち回られ、御公務に勤しんでおられる

のに、随分な言い方だ。しかも、品位というものは、年と共に否が応でも一層滲み出てくるものであって、狂武の毒舌は全くもってド外れと言えた。
 
 しかもです。陛下が、本でも出そうものなら、’子’が”いいなあ”と言うと、ハエ叩きの勢いで、
「あんなの全部他の人がやってるんだ。」
と、もの凄い軽蔑眼を向けて詰(なじ)りたてる。皇族の方々の労力や品性を一斎認めない。

 また別の日。
 音楽室の片隅で、人の良いマー先輩が、ミニスカの似合う体型のミーちゃんにカマチョされていた。’子’ は只笑って(^.^) 見てたけど(多分にそれは好意的な微笑みネ❣️)、狂武ときたら、こんなとこでイチャついてんなよみたいに因縁をつけた。しかも、
 まるで正義感とか背負ってるかの如く。。音楽を聴きに来る人の邪魔だ、というのだ、らしい! 人のいいマー兄ちゃんは笑って受け流しては、金ピカのトランペットを手にすると、ミーちゃんの手にしっかり取らせて説明を始めようとしたのだが。けど、
 流石のミーちゃん、狂武の剣幕に相当気分を害したか、出ていこうとした。‘子’
の、
「べつにいいじゃん」
が引き金になったか、それとも音楽室を出がけにミーちゃんが、‘チェッ’ てカンジではあったけど、丁度出口近くにいた‘子’ の頬を猫撫でタッチしていったのが気に食わなんだか、狂武はなんと‘子’ の方向に向って椅子を放り投げたのだ❗️おっと避けたょ危うく‼️ 狼藉者目が!
 ーーしかし実は、狂武のこーゆー短絡そのものの行動というのは、3年間で1回限りだったが、この狂暴さは記憶しておいた方が良さそうだ。

 凶暴な奴というのは、学年に1人や2人はいるもので、そーゆーのはいつものことで、そいつらは警戒できるが、狂武の場合、ガッチリした銀行員よろしく普段は大人しく澄ましているのでソロ恐ろしい❗️‘幸福’の故大川氏が銀行嫌いってわかる気がした雰囲気。。だって、大手の証券・金融機関には、‘百万取引はゴミ、一千万円がクズで1億円からが敬語のオ・サマ抜きの客’と呼んでるらしい噂があるけど。
 それじゃいったい、いくらからが‘お客さま‘ なのかって❓10 億から❓ノウノーゥ、多分10 億以上は’カモ🦆’かもネッ❗️つまりお客様など存在しない。第三者委員会の思いと大方等し。それは、ある宝屋の呼称に如実に表れる。即ち、
 ‘年末ジャンボ’とか聞いたことあるでしょ⁉️もしホントにお客様が1人でも存在して、その身になるならだ、言葉通り‘年末にジャンボな富を得られる’ はず。しかし実際は、年末に潤うのは発行銀のみ!つまり自分らのボーナス支給に用立てる目的なのか自分たちこそ‘年末ジャンボ’ な潤沢な享受を被るための命名だ。ここまで露骨なエゴイズムを許しておいてよいのか⁉️


 もしお客様が存在するなら、アンタらの賞与支給の12月1日頃に抽選するのが筋やろがよ。なのに、年末どころか年明けてお正月にもビタ一文やらず、ななんと松が明ける1月8日になってからやぁ〜っっと少しばかり賞金を分けてやろうとかいうやり方。年末に自分らは、しこたませしめる悪代官。さァさァN 国党のやるべきことはまだあるってカンジかね。

それに、
 おいちょっと待てよ。年末どころか松明けなったらよ、もはや庶民は使う暇がなくなる。そこで、ここぞとばかりに‘是非当行での運用を’ と言ってくるだろう。
 つまりは、年末までに集めた現金は1円たりとも外には出さぬ!という魂胆が見え見えなんだワ。“越後屋い、その方この日にちの設定は当初からそう見込んでの事に相違ないな❗️(越前流)”・・『うぉははァ、その位いいんだよ。』って⁉️ “たわけ悪代官めが❗️この者の耳と鼻を切り捨てよ‼️(秀吉流)“

 ‘年末身内用立てジャンボ’

 そもそもお客様はおろか、初めっから客すら存在していないのが実態だ。
 ここまで阿漕なカンパニーって一体何だろう。N 国党の当初の標的なんて、これに比べりゃヒヨコ🐣かもしれない。
 そして、この阿漕な所には、常にそーゆー仲間が寄ってきて、劣悪至極な菌体が悪臭を発する集簇を成し、遂には巨大汚水槽の塔の様になってくんじゃ⁉️ーー更にデス!こうした阿漕さに対し
‘俺たちにも分けろ!’
と、長年騒ぎ立て続けてた弱小金融集団がいる。彼らの言い分には頑として耳を傾けなかった大手を追い払って、遂にスポーツ関係の賭場を勝ち取った。まではよかったんですがね。
 驚いたのは今年の12月29日のことだ。当選金の受け取りは12月29日とはっきり印刷してありながら、な何と売り場にわざわざ行くと貼り紙

 ’12月29日より年末年始休暇につき・・’ ❗️ こらはもはや完璧にサギでは⁉️

じゃあ今日からの利息はおまえらアリババする気だな。
 これじゃ敵対視していたはずの大手行と全く同じ手口じゃんかよ。大手行に教わったんさァって逃げ口上か⁉️どうか良識ある弁護士様、集団提訴を❗️年越えの利息もしっかり払わせましょう。絶対運用してるはずだから。そう、かのタケシさん口調なら

 ”じゃあおめえらテラ銭返せよバカヤロー”

ってね。
 金融って丸仲間⁉️ーーさて、

 Jが付く大鉄道カンパニの人間貨物扱い。
 朝ガラガラでもミジメに立つ人々。車内の椅子が上がっちゃってて座れない。こーゆー箱詰め発想自体を疑うね。よく思いつくもんだよんとに。その流れでいくと、次の話もわかるでしょ❓例えば、お菓子屋さんで。。

 “もうひとつください”というと、まずは、
‘ありがとうございます’があって、それから‘ではあと、いくらいくらお願いします’
だろう。ところが❗️デスよよよよ!

もう一駅余分に乗ると、改札などでいきなり

 ‘料金不足!’

と騒ぎ立てる。

和菓子屋さんとは、天と地の差だ‼️な〜んなんだか?極悪人扱いだや。‘90年代のこと、東北新幹線では、トイレにまさに入ろうという時にだよ、目を睨みつけてきた上、切符を見せろと呼び止められた。健康被害も甚だしい!あいつぶっ殺す!って思っても不思議じゃないな。。とか、遅れの列車で切符のことを訊いたら、
’遅れ承知だろう!’
と声荒げに怒られた。

 お客様が、なぜわからないことを訊いて怒られなければならないんだろうか⁉️ N 国党さんは、こーゆーどっかみたいな会社どう思う❓❓
 
 J + P (郵便)も同んなじ。既にお客様(勿論あいつら客と思ってないが)が住み始めた所(住変とちゃうで2箇所とも居るんだから)を、確かめもせず勝手に宛て所無し、とか判子押した上に切手を返還しない。他の宅急便屋さんの花は届いてる❗️おかしい‼️誰しもそーゆー目に1度はあったと聞く。


 なら、83円切手換算でも83✖️1億2千万人で約百億円が返還されてない計算になる。実際はこんなもんじゃないことは明白だ。良識ある弁護士諸氏は被害者同盟を結成すべきだし、N 国党はこんなにやることがあったのだよ。
 
 ‘国民を悪代官から救え❗️’

ってことだよな。
 何よりも郵便の場合、目上の先生とかが差出人の場合、人間関係が壊れてしまう危険すらありうるのだ。そこ考えりゃ、百億どこの騒ぎじゃない。兆被害❗️それもこそ、補償させるべきだ‼️

 さてっと。
 元祖・悪代官の話に戻ろうか。。悪代官・狂武は、その夏、3年間で1回だけいい事をした、ようだ。
 学内プールでのこと。‘子’が、上級生に因縁をつけられて沈められかけたときのことだ。助けを求めてか、プールサイドを走っていく狂武と氏原の姿が、一瞬波飛沫の合間‘子’の目に映った。水にもがかされながらも気づくと、氏原の兄貴と同じバスケ部の花崎さんが勢いよくバシャーンと飛び込んできた。それが目に入った上級生は、シャチのように絡んできたのとは打って変わって水上を走るウサギかと思われる体(てい)で一目散に消えていった。
 花崎先輩は、氏原の兄貴ほどマッチョではないが、適度な胸板いやそれよりも生徒会の副会長をやっていたので教職員に通じるという盾があった。で、ここで唐突デスが、‘副’ の花崎先輩の上に立つBigBoss・会長こそが、忘れるなかれ、あの聖人‘トモ©️’ の聡明なお姉さまであられた❗️のだ。。そうだな、このインテリゲンちゃん、今なら JAXA のドン・向井千秋Dr. とゆー貫禄だったかもしれない。

 氏原は、スポーツマンでまァ常識人だった。座って金勘定でもしてそうな横柄な体型の狂武に対し、スリムボーイというところ。
 その氏原や‘子’が好んで女子と出かけるのに比べると、狂武の家には、いつも男子が犇(ひしめ)いていたという変な性癖がある。そもそも女子を誘ったという話も聞いたことなし。
 で、その日、成行き上、2人が‘子’の家に寄ることになったのだが、ここで‘子’の 親族などの写真を見て、早速狂武が平気で批評を始めた。氏原君は無言。当たり前だ。
 廊下にうず高く積んであるデザイン書やグラフ誌のファイルは目に入らず(子の父親は幾つかの定期刊行物をとっており、纏(まと)めて四半期毎にファイルしている。10年後‘子’が、ものを書くようになると古いグラフ雑誌で色んなお宝写真を発見しては良き資料となったのだ。例えば、JK と逗子海岸を歩きながらウィスキーをラッパ飲みしている若き石原慎太郎氏とか。とにかく、今のネタ写真誌とはまるで違って、昭和を手厚く克明に包み込んだ実録宝本といえるシロモノ。)、狂武ときたら‘子’のへやに入るなり、
「本が少ないねぇ。」
と、ひとの家を批判する。全集とかの事なんだろうけど、廊下のデザイン書だって立派に本でしょ⁉️

 夜、会社で扱っている商品撮影をちょい覗いてた小学生の時。カメラマンに、
『ぁ僕ちょうどいいとこにきたワ、コレちょっとヌスンで❗️』
とか言われた‘子’は、

“え⁉️盗むってぇ❓❓”

と思わずきき返した。すると、カメラマン曰く、

『そっか② ハハハっそのうちわかるからさ、これちょっと持っててよ。』

と見学傍ら手伝ったりしていた。
 しかし必ず、出来上がった広告作品(折込)は確認し、まァ監修してたことになっちゃうわけだワサ❗️大人になってからの大々的な広告出演(モデル仲間でも自慢の4大新聞見開き2頁全面広告に1人で出演という快挙!)を可能ならしめた素地は、既にここから培われていたのだろう。それもデザイン書の助けもあるわけだし、一朝一夕の偶然などではあるまいジロ。それに、小学生の時に既に、自らデザインしたセーターを秋毎に母に連れられオーダーしに行ってたではないか。優良顧客として、編み物オバチャマは、当時の花形・後楽園遊園地や豊島園に連れていってくれたのデス❗️

 さて帰り、2人を送りがてら外へ出て少しばかり歩いた。狂武は更に言う。ーー「あれはかわいいけどアレはひどいな。」とか、‘子’の親戚縁者のアルバムのことを。。氏原は、そーゆー話題の時はダンマリを貫いた。
 狂武は、ギブ&テイクよりもテイク&テイク的だった。不得意科目の質問を徹底的に‘子’にしてくるくせに逆に、つまり‘子’が他の科目のことを聞こうものなら、
「その位わかるだろう。」
とか
「そんなの常識だよ」
と言い、いかにもバカにし、且つ訊きにくい雰囲気をつくってしまう。
 雰囲気といえば、いつだったか何人もが言っていたことがある。
 それは・・・

                (つづく)… … ズズッと下の方に⇩次話クリック有ス
#N国党   # ジャンボ  # ご公務  #JP



 


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