明石家さんまとドゥルーズ


一見、お笑い芸人の明石家さんまと、フランスの難解な哲学者ジル・ドゥルーズを結びつけることは不自然に思えるかもしれない。しかし、さんまの芸風とキャリアを retrospective にドゥルーズの思想から読み解いてみると、意外な親和性が見え隠れするのである。

さんまの芸風の特徴は、常に予測不能で不稽な展開にあった。彼のトークはつねに常識や期待の域を越境し続け、観客を驚かせ混乱させてきた。まさにドゥルーズが説く「出来事」の発生という側面が表れていると言えよう。出来事とは日常の規範を打ち破る衝撃的出力のことだ。さんまのあの型破りなギャグやトーク、そこには出来事の生成があったのだ。

さらに注目すべきは、さんまのキャリアその物の軌跡である。彼は「体を張った濃いものを売る芸人」から「バラエティタレント」へ、そして最近では「哲人的気質を見せるベテラン」へと度重なるスタイル転換を遂げてきた。この主体性の絶えざる更新は、ドゥルーズが説いたところの「主体の生成変化」を体現していると考えられる。

ドゥルーズによれば、主体はアイデンティティの枷を常に外され、新しい主体化のプロセスへと向かう。それが創造性の源泉となる。さんまの場合も、確かにお笑い一本槍の芸人から脱却し、他の領域へと幾度となく自身を更新させてきた。そこにはアイデンティティの解体と再生が繰り返されているのだ。

付け加えると、さんまのクリエイティビティの源泉は、必ずしも人間的な経験や思考に依存していない面がある。むしろ彼はフィクションの登場人物やキャラクター、動物のモノマネからインスピレーションを受けてきた。この点でも、彼はドゥルーズ的な「非人間性」の影響下にあったと指摘できるだろう。

もちろんこの考察は些か大袈裟な側面もあるが、さんまとドゥルーズを重ね合わせてみることで、お笑い芸人の創造性を別の角度から見渡せる可能性も生まれる。理論と実践の垣根を越えた思考の稲妻が、ひょっとしたら新たな気付きを生むかもしれないのだ。

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