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1923年の出来事―関東大震災の年、世界では何が起こっていたか?

ただいま「本で旅する Via」の2階では、「1923年の出来事―関東大震災の年、世界では何が起こっていたか?」を催しています。

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1923年9月1日、最大震度7ともいわれる大地震が日本を襲いました。今年はその関東大震災から100年を迎えるとあって、メディアでも多くの特集が組まれました。

十年一昔といいますから、100年は大昔です。

この100年で世のなかは様変わりしました。大きな戦争と冷戦を経験し、政治変革が起きて、多くの国が独立を果たしました。道路・空路が整備されて各地が結ばれ、インターネットの登場によってウェブ上で人々がつながれるようになりました。宇宙にも飛び出し、地球を外から眺められるようになりました。1920年前後、20億だった世界人口は80億人に膨れ上がり、日本の平均寿命は約40歳から約80歳になりました。科学技術の進歩や福祉政策の充実が住みよい社会を実現したといえます。人口の増加、高齢化はその証左です。

80億もの人間のドラマが展開し、地球上でそれだけの喜びがあふれているさまを思い浮かべると、ワクワクもクラクラもしてきます。多くの国で暮らしやすくはなっているかもしれませんが、しかし、一人ひとりの人間にとって、喜びは増えたでしょうか。

「1923年の出来事―関東大震災の年、世界では何が起こっていたか?」では、100年前の世界の出来事を各月ごとに1つ、2つピックアップしてご紹介し、関連するスポットや人物の写真、書籍を陳列しています。

100年前の出来事には今では考えられないようなものもありますが、形を変えて、まさしく今でも起こっているように感じられるものも少なくありません。おもしろいのはそうやって大昔のことを眺めていると、次第に過去を見つめる視線が今に向かい、次に100年後の未来から今を見つめたなら、どんなふうに映るのだろうと考えてしまうことです。そして、さらに100年後、どんな出来事が起こるのだろうということも。

本展示を眺めながら、そんな時間旅行にしばし思いを馳せてみてください。

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たとえば…

1923年1月30日
ギリシャ・トルコ間で住民交換協定が結ばれた

1830年、ギリシャはオスマン帝国から独立。しかし領土は限られ、ギリシャ系の人々は帝国内に数多く暮らしていました。それらの人々を統合して領土を広げようと大ギリシャ主義が掲げられるようになりました。

一方、第一次世界大戦のさなか、またその余波を受けるなか、より弱体化したオスマン帝国内では数十万人ともいわれるギリシャ人の虐殺が行われました。背景にはギリシャ系住民によってトルコの基盤が揺るがされるのではないか、という疑心暗鬼が働いたといわれます。

1920年、第一次世界大戦の勝利国である連合国(英露仏、日本、ギリシャなど)とオスマン帝国との間で結ばれたセーヴル条約で、イズミルなどエーゲ海側の一部がギリシャ領となりました。大ギリシャ主義がくすぶるギリシャは、イズミルを拠点に帝国領内に進軍するも敗れました(希土戦争1919年〜22年)。これによりセーヴル条約で得たイズミルなどをギリシャは失いました。

1923年、新たに成立したトルコ共和国と連合国の間でセーヴル条約が破棄され、ローザンヌ条約が新たに結ばれ、トルコは領土を回復。ギリシャ・トルコ間で、更なる復讐や残虐行為が行われないように住民交換協定が締結されましたが、基準は宗教。言語や民族アイデンティではなく、トルコに暮らしていた約100万人以上の正教徒、ギリシャに暮らしていた約35万人以上のイスラム教徒が、強制的にそれぞれの住まいから移住させられることになりました。移住した地では白眼視されることもあったといわれます。

世界複合遺産カッパドキアには古くからキリスト教徒が暮らしていました
ギリシャ・クレタ島にはトルコ系民族が暮らしていました。
港には1923年までモスクとして使用されていた建物が残されています


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