見出し画像

自衛官から海外ビジネスコンサルタントというキャリアの作り方(no.15)

プロフィール
金光 俊暢さん
現職:ビジネスコンサルタント(ベトナム)
自衛隊在職時最終役職:陸上自衛隊陸士長

経歴

ーー本日はお忙しい中、退職予定自衛官、元自衛官のキャリアを考えるインタビューにご対応いただきありがとうございます。まず、金光さんの経歴を教えていただけますか。
金光さん:高卒で陸上自衛隊に入隊。前期・後期教育を信太山駐屯地で教育を受けて、普通科連隊に4年勤務しました。

その後、任期満了に伴い、もともと興味があった英語を勉強したいと思い、1年間オーストラリアへ語学留学をしています。高校生の時からいつかは英語を使った仕事をと思っていたこともあり、短期間で英語を得るには海外しかないと、自衛隊にいる際に貯めたお金で留学をしました。

高校生のころは勉強がすごい苦手だったんですが、自衛隊で仕事をしてから、勉強が恋しくなったんですよね。

画像2



オーストラリアから帰ってきてから、シェアハウス事業を起こしました。日本では当時あまりシェアハウスってなかったんですよ。あまり知られていなく、外国人向けでした。そこでシェアハウスを大阪で開きました。
ご高齢で家が余っている人に直談判して、日本人やもちろん外国人を対象にシェアハウス運営をスタートしたんです。

留学したオーストラリアでの生活がシェアハウスだったのですが、オーナーが同じ学校の中国人留学生だったんです。なぜ同じ学生に家賃を払わないといけないのかと、悔しい思いをしました。

日本に帰ったら家賃を取る側になりたいと思い2軒運営して、そこそこ稼げて順調でした。

ただ、さらに事業を広げて、利益を出そうと考えると、物件を買った方が利回りが良いんですよね。そこで、銀行審査も通って、いざハンコを押すタイミングだったところ、怖くなってしまいハンコが押せませんでした。

そこで、僕自身はこの仕事を全力でできる仕事ではないと思い、であれば、きっぱりと全撤退しました。

それから、父におまえは色々やっているがサラリーマンは出来るのか、と言われ、インターネット企業をベースに就職先を考えました。当時まだ電話回線で繋いでいる時代だったのですが、オーストラリアで、日本の友達に連絡する際に結構インターネットを使っており、インターネットの便利さを感じていました。そこで帰国後、僕自身も初めて20万円くらいでPCを購入して、シェアハウスの集客などもPCやインターネットを契約して行っていました。

そこから次もインターネットを使う仕事をしたいと考えていたところ、ECサイトで筆記具、万年筆を販売している会社があり採用してもらいました。すごいやり手の会社で、ネット通販のみだったのですが、高い万年筆が毎日バンバン売れていくのを眼の当たりにして、インターネットの凄さを当時感じていましたね。

ただ、30歳をすぎて、自分の人生を考えた際に、語学留学のときの友達はみな、英語を使った仕事や海外で活躍しており、自分も海外で勝負したいと思いました。そこで、会社に退職届けを出して、バックパッカーとしてアジアを周りました。

1年後そろそろ仕事を始めようと海外の就職先を探しましたが、僕の場合、高卒で学位や資格がなくてそんな簡単じゃないんですよね。それこそ、英語が話せるだけでは難しく、見つけるのに苦労をしました。

なんとか1つ、ベトナムでゼロからの立ち上げのマネージャーを募集している会社があり、採用してもらいました。ただ、完全にゼロからスタートで大手のように予算も潤沢にあるわけではないので、かなり苦労しました。人の採用、現地営業自体も完全にひとりでやっていました。

ただ、おかげで沢山のベトナム人の現地のネットワークもでき、日本やベトナム企業から顧問やコンサルをしてくれと頼まれたので、いまは独立して現地でコンサルタントをしています。

コロナ禍で今は日本にいますが、遠隔で現地指示しながらプロジェクトのマネジメントをしています。そんないろいろと経験をしながらのキャリアですが、海外に住んで、仕事は人に任せられるため、時間があれば、何か面白いビジネスアイデアがないか考えています。

画像3

自衛隊で得られたこと


ーーなるほど、さまざまなキャリアを経験しているんですね。特に英語に着目しているの良いですね。改めて、自衛隊に入隊された背景と在職時の職務内容を教えていただけますでしょうか。
金光さん:18歳になったら家を出ろと親に言われていました。ただ、勉強嫌いだったこともあり、進学は考えてなく、できるだけ早く社会に出たいと思っていました。ただ、その時の自分には何の取り柄もなく、就職も限られた選択肢しかありませんでした。父が昔自衛官だったという背景があり、衣食住が提供され、給料があり、体力には自信があったので、自分に向いていると思い入隊をしました。

入隊後は、新隊員の教育を受けて、配属は普通科で中隊車両整備班でした。もともとバイクが趣味で、整備が出来ることもあり、中隊から整備班への配属を相談されました。ただ、先任の一曹の班長が職人気質で最初は仕事をさせてもらえませんでした。しかし、信用を一つひとつ積み重ねていくことで、少しずつ仕事を任せられるようになり、同時に話も良くする様になり、認められたのはすごい嬉しかったですね。

ーーそんな中、自衛隊在職中の思い出・エピソードを教えていただけますか。
金光さん:教育隊時代がやはり強烈な思い出です。前期後期教育ともに信太山駐屯地で日々辛い訓練を受けさせられましたが、色々な地域から集まった同期とよく喧嘩し、よく泣いて、よく笑い、最高に楽しかったです。

ただ、いま思い返してみても、自衛隊の教育は、規律統率やリーダーシップも実体験で学べるすごい良い経験だったと思います。

また、在職中に実働を一度経験しました。鳥インフルエンザが流行って、インフルエンザにかかった鳥を全てガスで殺す殺処分がありました。自衛隊へその鳥の処分をするという命令があり、すべて地面に埋める作業に行ったんですね。

養鶏場に最初入った時には、ガスで処分された鶏が小屋に山積みになっており、かわいそうですが、鳥を踏みながら中に入りました。肉で滑りやすく、踏むたびに骨の折れる音がしました。防護服を来て防備はされているものの、バケツリレーで3日くらいその処分をしていた時は、重いし、臭うしで、さすがに当分鶏肉を食べる気にはならなかったです。ただ、他の班の陸曹は焼き鳥を買ってきてテントでパクパク食べていました。さすが陸曹はタフだなと思いました。

自治体に貢献できたことも含めて印象深い思い出です。

ーー再就職に関してですが、なぜ自衛隊から民間企業へ再就職されようと思ったのでしょうか。
金光さん:任期満了のタイミングだったこともありましたが、ひざの故障やレンジャーという目標を失ったことが大きいと思います。

体力に自信があったため、教育隊が終わってからすぐにレンジャー課程のテストを受けました。体力検定等は無事合格したのですが、陸曹を教育優先させるということで、結果、行けませんでした。

2年目もチャレンジしたのですが、同様で、レンジャーへの憧れがありつついけなかったことや、走りが得意で練成隊にも呼ばれるくらいだったのですが、無理しすぎて、膝の故障をしてしまいました。日々の不満やストレスは走っている時には忘れる事ができ、完全にランナーズハイになっていて、身体が悲鳴を上げていることに気づきませんでした。

そこから、僕にとって唯一の強みだったランニングとレンジャーという目標の喪失により、外で活躍することを考え、退職を決意した次第です。

ベトナムでのビジネスコンサルタントというキャリアの作り方


ーー実際に海外で仕事をすることがかなった今、どのようなお仕事をされていますか。また、ご自身の今後のキャリアをお聞かせください。

続きをご覧になりたい方は、下記にて公開しています!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?