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掘り出して新発見した歴史は自分で埋めたはずの遺跡だった

 今でこそカメライコールデジタルカメラなので、フィルムカメラ時代のように一枚の写真を撮り、現像して、プリントするといくらかかるかなんて考えながらシャッターを押すことはなくなった。何度撮り直しても懐に優しいし、何なら手軽に修正できたりもする。そこがデジタルカメラの利点だ。デジタルカメラを発明してくれた人、本当にありがとう。でも、そのせいで構図や露出やなんかをあまり気にしなくなって写真の出来が雑になってきた気もするのだけれど。

 元々カメラ好きで写真を撮ることが大好きだ。昔はカメラを持ち歩く人間はそんなにいなかったので、卒業アルバムに提供した写真のほとんどは私が撮ったものだった。その写真を見た同級生たちが喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。やがてカメラはデジタルになった。失敗した写真データは、その場で消去され保存されることも少なくなった。結婚して子供が生まれてからは、その役割は子供の成長記録が主になり、人物や風景やモノや色んな写真を撮り続けてきた。ハードディスクにに記録してきた膨大な写真データをクラウドサービスにバックアップしている最中なのだけれど、未だに完了していない。さすが約20年分の写真たちだ。

 撮りためた写真のほとんどがプリントされることはない。残念ながら。たまにモニタ上で眺めるのみで、撮ったきりで一度も見直してない写真が多数存在している。そんなことだから、たまに見つけた写真に何とも言えない不思議な気持ちになり胸を締め付けられたりもする。確かに自分で撮ったはずなのに、見えない誰か、有り体に言うと神様とでもいうべきか、そんな存在がシャッターを押した写真のように感じる。そこに写るのは、サルに取り違えられそうな赤子だったり、子供らが保育園で使っていた名前入りの古びた小さな椅子だったり、幼い我が子たちの足を守ってくれて穴が開くまで履きつぶした幼児靴だったり、もう一度見たいけれどもう存在しない風景だったり、あんなに親しくしていたのにもはや名前も思い出せない昔の知り合いだったり、もう会うことが出来ないこの世に存在しない人たちだったり。

 そういう写真と向き合うたびに、私は未知の遺跡を発掘した考古学者の気分になる。かつてこんな歴史が確かに存在したのだ!大声で叫びながら学会発表したい気分に駆られる。無論、それらを埋めたのは私自身に他ならず、捏造論文になってしまうので発表できないでいるのだが。どんなにネットを駆けずり回り探しても見つからない歴史が、この世に生きた人の数だけ存在している。万人が興味を持つ歴史よりも、限られた人間だけが興味を持つ歴史の方が実は重みがあるものなのかもしれない。その歴史を刻む手段の一つとして、これからも私はカメラで写真を撮り続けよう。そして、いつか本当に新発見として考古学者に掘り出されたときには、未来にはもしかしたら存在し得ない目を瞑ってしまった記念写真を見て笑ってほしい。

#カメラのたのしみ方

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