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Senhor do Bonfimの町で高校入学
1945年にAracajuのJackson de Figueiredo中学を卒業したジョアンはバイーア州に戻りSenhor do Bonfimの町で開校されたばかりのGinásio Sagrado Coração高校に入学します。その頃の写真や入学試験の成績表が残っています。
ジョアンが小学校を退学になった話
ジョアンが小学生の時の先生、ルージズ・ドゥアルチ(Lurdes Duarte)さんは99歳になってもジョアンジーニョのことをよく覚えていました。ジョアンが小学生の時にどんな子だったのか、どうして退学にさせたのか語っています。ルージズ先生はこのドキュメンタリーでインタビューを受けた約2年後の2018年に101歳で亡くなっています。ここでは退学の理由を簡単に書き、インタビューのリンクをアップしますが、
もっとみる唯一のUnknown Title (1958)、この名曲を弾いてみる
オデオン(wiki)のカメラマンだったシコ・ペレイラ(Chico Pereira)の自宅で1958年初頭に複数回にわたって録音されたと思われるジョアンの弾き語りが2009年に公開され世界が驚愕しました。29曲のうちの2曲目は誰が作った何と言う作品かいまだに解明されずジョンが録音を残した曲の中で唯一「Unknown Title」とされています。歌のないインストなのでジョアンの単音も含めたコードワーク
もっとみるアラカジュの中学校のストリートビュー
アラカジュはセルジッペ川のほとり、大西洋に面した美しい町。バイーア州の北隣、セルジッペ州の州都です。ジュアゼイロには小学校しかなかったのでジョアンはこの大きな町の中学校に入学します。ジョアンの生家もジュアゼイロの町の中心の聖堂がある広場に面していましたが、アラカジュの学校「Colégio Jackson de Figueiredo」も同じく町の中心の大聖堂「Metropolitan Cathedr
もっとみるジョアンのお父さんとお母さん
ジョアンの音楽的才能は両親から伝わったDNAなのか知りたくて、そして、ジョアンは孫のソフィアのことを「僕のお母さんの生まれ変わりだ」と言っていた理由を知りたくて調べてみました。
この有名なお母さんの写真はサン・フランシスコ川のほとりに立つ1940年頃のものです。
ほとんど世に出たことがないお父さんの写真と、ソフィアに面影を残す若い時のお母さんのお写真がみつかりました。
ジュアゼイロのキーパーソン、マウリシオ
メディアがジョアンとジュアゼイロの関係を語る時によく登場するのがMaurício Dias(マウリシオ)です。彼はジュアゼイロ市の文化観光スポーツ部長をしていたので町の歴史にも詳しく、ジョアンの生家だった「Casa de Bossa Nova 」の運営責任者をしています。彼はジョアンが1970年代にジュアゼイロに帰省した時に友達になり、その後もジョアンが帰省すると会い、ジュアゼイロのバーで朝まで一
もっとみるジョアンの親戚、日本にいるバイアーナ
クラウジア (Claudia Morikawa) は福岡でDJをする日系人。しかもジョアンと同じバイーア州のジュアゼイロのサンフランシスコ川のほとりで生まれ育ったバイアーナです。クラウジアは福岡の「LOVE FM」でブラジルの音楽や文化を紹介しているとっても明るくて可愛い女性。ある日、クラウジアは番組でも紹介していたジョアンが自分の近い親戚だと知り驚きました。クラウジアのインスタはこちらです、20
もっとみるジョアンが生まれた家のストリートビュー
ジョアン・ジルベルト生家のストリートビューです。現在は「Memorial Casa da Bossa Nova」としてジュアゼイロの文化観光スポーツ局が管理し、ジョアンの写真・レコード・文献でこの偉大なアーチストの功績を世に伝えています。
世に残るジョアン・ジルベルト最初の声?
今までジョアンのレコードデビューは1951年のGAROTOS DA LUAのメンバーとしてリリースした「Quando você recordar / A mar é bom」だと考えられていました。同じ1951年にもう1枚「Anjo Cruel / Sem Ela」もリリースしています。
ところが1950年のEP「Recruta Biruta / Bateria Sentido」A面の「Recr