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プランBの不在:国語科新学習指導要領批判の違和感

2022年度、つまり今年度から高校でも新しい学習指導要領が適用されるようになった。とはいえ新学習指導要領が発表されたのは幾分か前のことであり、事実上は段階的に新しい学習指導要領下での教育が始まっていたと考えてよい。

それに伴い、センター試験も共通テストに改められ、各大学の個別試験も徐々にかたちを変えていった。こちらは2021年度から実施されている。コロナ禍も相まって現場は混迷を極めたというが、とくに議論が百出したのは英語と国語であった。

英語では従来の文法教育・長文読解教育偏重からの脱却が歌われ、スピーキングテストの導入や、TOEICなど民間の試験を活用することが検討された。しかし民間試験を導入した上でどのように公平性を確保するか、採点をどうするのかなどさまざまな問題が提出され、ひとまず取りやめとなった。

国語も記述式の問題に関しては採点の問題が大きく、やはり共通テストでは見送られることになった。しかし、試験自体は大きく様変わりしている。私も一度解いてみたが、2つの文章を相互に比較しながら読み取れることを指摘するなど、短い時間で行わなければならない作業量が増えた。今後は情報処理能力の早さが問われる形になり、そうなると受験技術に関してノウハウのある予備校などの存在感がますます大きくなると予想される。

さて本題は国語の試験の方ではなく、学習指導要領の方である。国語科の新学習指導要領はどのようなものか。細かく語りだすとキリがないのでその特徴を簡単にまとめるなら、「社会における国語能力の活用」を重視するということになるだろう。英語と同じく発信する能力=書くこと・話すことの重要性がこれまでより強調され、「主体的・対話的で深い学び」、要するにディスカッションなどを行いながら生徒が主体的にテーマについて調査・発表することが求められている。アクティブ・ラーニング重視と言い換えてもよい。

今回の改定で批判が多かったのが、いわゆる文学的な教材の扱いである。国語の最低取得単位数12単位の中で、必修4単位を除くとそれぞれ4単位分ある「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」から2科目選択することになる。しかし受験で評論文と古文が頻出することを考えれば、選択されることが予想されるのは「論理国語」と「古典探究」の組み合わせであり、「文学国語」が履修されなくなるのではないか、と懸念されているのである。

実際にどう運用されていくのかは今後を見守るしかないにせよ、結果的に文学作品が軽視されるような流れは指導要領の実学重視とも合致しており、文学を愛好する多くの人々の怒りを買うことになった。これが、国語の新学習指導要領批判が巻き起こった大雑把なあらましである。

先に言っておけば、私も国語の新学習指導要領には批判的である。そもそもアクティブ・ラーニングには教員側に十分な準備が必要だが、教育現場はそこまで授業準備に時間をかける体力がない。また、新学習指導要領では契約書などを読み解く実学的な能力に焦点が当てられているが、「いま・ここ」で役に立つ知識は、10年後には時代遅れになっている。基礎的なリテラシーを涵養する以上に将来につながる教育はない。

しかし、新学習指導要領批判には違和感を覚えることもある。

特に、「文学」が失われることに対する批判が先走りすぎ、すでにこのカリキュラムが施行されることになったいま教室で何を行うべきかという視点が抜けているケースである。

先述したようにこの学術指導要領は2022年度から施行されているので、これからいくら批判したところで中身が変わるわけではない。現場の教員が知りたいのは、この学習指導要領のなかでどうすれば少しでもいい授業ができるのか、ということであろう。すでに制度が動かし難くなったいま、問題の中心は具体的な教室での実践に移っているのではないか。

言うまでもないことだが、新学習指導要領への批判と、新学習指導要領に適応した授業実践の提言は両立する。この学習指導要領下での授業を考えること自体が新学習指導要領を受け入れたことになり、すなわち敗北であると考える人をたまに見かけるが、それはプランBなき思考である。制度への批判と、制度の中でどのようにもがいていくかという提言は同時並行的に行われ得る。

我々は制度を批判するとき、しばしばプランBを失念しがちである。どのように制度を横領し骨抜きにし脱構築し抜け道を探していくか、そうしたプランBの存在がなければ、批判はついに自己満足で終わってしまう。

たとえば安部元首相の国葬問題もそうである。国葬反対を訴えるのはよい。しかし、国葬自体は九割五分ほどの確率で実施されるであろうし、批判者とて本気で国葬を阻止できると考える人間は少数ではないだろうか。ならば、実際に国葬がされたとき、どのように批評的な行動が可能かというプランBを考えておくことが肝要である。

聞いた話によれば、国葬当日に山上容疑者を扱った映画が公開されるという。正直死者の弔いにこうしたものをぶつけるというのは私の美学には合わないが、しかし国葬が行なわれることを見越したアクションとして、つまりプランBとして一定の評価はできる。映画の中身は不明でも、そこになにかしらの批評性が込められていることは確実である。

話を学習指導要領に戻そう。改めて言えば、新学習指導要領を批判する言説にはしばしば読者が誰なのか困惑してしまうものがある。学習指導要領批判、ひいては政策批判は時候のあいさつなどでは毛頭なく、外部に向けた発信が必要である。仲間内で納得し合うことに大した意味はない。

新学習指導要領に対して最も対応を迫られているのは現場の教員である。教員の授業をサポートするような言説がもっと必要だ。新学習指導要領言説になぜか文学の授業ができる前提で指導案を提言したものを見かけるが、文学に割ける時間が減っているというのが問題の根幹にあるのだから、必要なのは論理国語の中でどのように文学がなし得ることをなすのかという、いわば時間を横領することである。指導案の提言はもちろん必要だが、批判のための批判に陥ってはならない。

繰り返すが、制度への批判と制度の中での抵抗は両立し得る。プランB、プランCを用意しておくことが必要だ。我々はウイルスのように制度を侵さなければならない。

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