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上野千鶴子『家父長制と資本制』:家事労働と再生産労働について

理論を知らなくてはならない

本記事は上野千鶴子『家父長制と資本制』の解説を行う記事である。解説は基本的な概念に焦点を当てるつもりであり、たとえばマルクス主義フェミニズムの歴史的意義、のような専門的な話には立ち入らない。

現代社会においてフェミニズム、あるいはジェンダー論は一種の「必修」科目だと言えるが、それらについて語る上で上野千鶴子の名前を外すことはできない。実践においても理論においても、上野の功績は功罪含めて極めて大きい。

フェミニズムを肯定するにしろ否定するにしろ、ある程度理論的な部分を知らなければ空言を費やすだけになる。素朴な経験的知識のみによって「私のフェミニズム」を語ることは、時に運動の後退すら招きかねない。上野は本書の冒頭で次のように記している。
※引用のページ数は岩波現代文庫版

くり返すが、解放の思想は解放の理論を必要とする。理論を欠いた思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、反主知主義の闇の中に閉ざされる。

p19

家父長制と資本制の二元論

大雑把にまとめてよいのなら、本書の立場は明確だ。マルクス主義フェミニズムである。

一般的なマルクス主義理論は、市場を中心に労働や社会を分析してきた。そこから「家族」という項は除外されている。家庭は市場の外部として想定される。それはしばしば「自然」「本能」という概念と結びつけて語られる。市場の外部に自然がある。たとえば、女性が子供を育てるのは母性本能からだ、というように。

しかし、労働者を生み出し育てているのは家庭である。ならば、市場を考える際に家庭のことも考えざるを得ない。資本制の一元論ではなく資本制と家父長制(家族の話)という二元論から社会構造を語る必要があるのではないか。本書の基本的な見取り図は、タイトルにはっきり示されているというわけだ。

もう少し詳しく説明しよう。

マルクス主義において注目されるのは「生産」という概念である。何かを生み出し、利潤を得ること。近代において主にそれを担ったのは男性たちということにされてきた。女性は工場や企業ではなく、家庭の内部を仕事の場としていたからである。

こうした見方においては、家事は労働ではない、ということになる。それはあくまで労働者の生活基盤であり、何かを生産しているわけではないという理屈である。

しかし、家庭の女性たちが無償で行っている家事も、外部に委託すればしっかり賃金が発生する。たとえばダスキンの家事代行サービスは、2時間で7700円だ。

ということは、家事は労働でないから賃金が発生しなかったのではなく、労働であるにもかかわらず賃金が支払われない「不払い労働」だということになる。近年ではこうした考え方が広まり、家事の「年収」を紹介する記事などもよく見るようになったが、上野が本書を連載していた1980年代の段階では相当に先駆的な思想だったと言ってよいだろう。

だとすると、家庭内の仕事も含めて「労働」として分析に含めるべきであり、そこで不払いを受けている女性たちはプロレタリアート(労働者)と同じく一種の「階級」であると言える。これが本書の基本的な立場だ。こうした見方からすれば、家庭を分析の外部においたマルクス主義そのものが市場中心主義=男性中心主義的なものであり、フェミニズムによって大きな概念の変更を迫られることになる(もちろん現在の理論的水準からは大いに反論の余地もあるだろうが)。

再生産労働と家父長制

ただし、女性の「労働」は家事だけにとどまらない。むしろ家事労働を生産とするだけでは、結局議論が生産一元論に戻ってきてしまう。

女性はいつの時代も生産者であったが、生産者だけであったこともなかった。女性は生産者であるとともに、つねに再生産者でもあった。

p90

生産だけではなく再生産も考えなくてはならない。では、「再生産」(reproduction)とはなんだろうか。上野はこの言葉の多義性に留意しつつ、ひとまず次の3つの意味を取り上げている。

(1)生産システムそのものの再生産
(2)労働力の再生産
(3)人間の生物学的再生産

p93~94

(1)については本書での記述があいまいだが、イデオロギーのレベルで説明されている。生産を可能にするような抑圧的なイデオロギーを次の代に引き継ぐこと。それにより、生産システムは時間を超えて引き継がれる。

(2)は先述した家庭の役割を考えればわかりやすい。労働者が働くためには、疲れ切った身体を休める場所が必要である。家庭は食事や睡眠を労働者に提供し、労働力を回復させる。

これは(3)とも関わってくる。労働者はいずれ親となり、子供を育て、子供も新たな労働者として市場に供給される。この意味において重視されるのは、「産む性」としての女性である(近い将来技術的に女性が産むことから開放される可能性は高いが)。男性に子宮はない。だから再生産の領域は女性に任せられる。それはいつの間にか、子育てや家事といった別の種類の再生産の委託にも及ぶ。

家父長制は女性支配を通して、こうした再生産の領域を支配する。

家父長制とはなにか。これも問題含みの概念だが、ここではシンプルにいきたい。年長=家長の男性が家を支配するシステムだと考えておこう。「サザエさん」などにおける「おじいちゃん」や「お父さん」の位置を考えるとわかりやすいだろう。

家父長制において、女性や子供が行う生産や再生産は家長に領有される。たとえば家事は家のために行われるのであって、労働者=女性のために行われるのではない。かつ、家事労働の報酬が労働者に支払われることもない。したがって家長は無償で家事労働の報酬(できたての夕食、綺麗に整ったリビング……)を獲得することになる。

こうした制度のもとでは、支配の変数は二重になる。性別と世代だ。同じ男性でも息子は父親の支配下にある。ということは、娘は性別的な支配と世代的な支配の二重の支配の下に組み込まれることになる。たとえば近代文学では、父親が娘に身売りさせてその金を自分のものにしてしまうという話がよく出てくる。

先述したように、家庭内での労働は市場の問題と深くつながっているのであった。ということは家庭内労働を支配する家父長制について、市場の問題と合わせて分析しなければならない。「家父長制と資本制」、である。

上野千鶴子の戦略性

基本的な用語や概念の説明に終止したが、ひとまず以上が本書の概略である。この記事ではできるだけシンプルな説明を心がけたので、フェミニズムの歴史的な進展や、家父長制および家族の成立過程などの話は省いた。本書の中にはそうした通史的な概観を行っている章もある。

巻末の20ページにわたる参考文献を見てもわかるように、当時の時点での理論を集大成し家父長制と資本制という二元論を打ち立てた点で上野の功績は大きい。

ただ、上野千鶴子の主張をすべて真に受けるのは危険である。上野の著作は常に論争的・挑戦的・挑発的な意図が潜在していると思って読んだほうがよい。男性を挑発し論争を起こすことで運動を広めていくという戦闘的フェミニストが上野であり、論理的に見れば納得し難い記述がさりげなく(ときにはあからさまに)織り込まれていることも少なくない。

理論的に詰めていく形式をとる『家父長制と資本制』では、そうした戦闘的な側面はあまり表面化していない。しかし本書でも、たとえば次のような箇所は気になるところである。

男性にはなるほど、自分は愛する妻子のためにこそせっせと稼いでいるのだという言い分があるかもしれないが、女性は第一に貨幣費用(カネ)ではなくて現物費用(テマ)を再生産労働というかたちで支払っており、この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている。

p121~122

さらりと「この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら」と書いてあるが、どのような計算でどの程度の費用に換算されたのか示されていない。もちろん「この現物費用はもし貨幣費用に換算するとしたら、夫が負担できる額を超えている」可能性は十分にあるのだが、他の箇所でしつこいほど参考文献が引用されることを踏まえてもこの言い落しは不自然である。

おそらく、少なくとも本書執筆時の上野は該当するデータを持っていなかったのだろう(あるなら示すのが作法だ)。上野はしばしばデータを示さずに断言する。こうしたところに上野の、よく言えば文体の力が、悪く言えばデマゴーグ的なところがある。

もうひとつくらい引用しておこう。

アメリカのデータによれば、離婚を契機にして女性の生活水準は一様に下がっているのに対し、男性の生活水準は上昇していることが知られている。離婚したもと妻が、多くは子供を引き取ってシングル・マザーになり、その上労働市場の女性差別に直面して貧しい生活を強いられるのに対し、もとの夫の方は、妻子を養う家計責任から逃れて、端的に可処分所得が大幅に上昇するからだ。

p318

ここに示されている男女の賃金格差の問題、シングルマザーの問題はたしかにうなづけるものである。引用からは省いたが、今回は「アメリカのデータ」も示されている。

しかしこのデータは、本書が無視しているひとつの事実も浮かび上がらせてしまう。離婚して夫の可処分所得が上がるということは、離婚する以前はどこかに所得が供給されていたことを示すからだ。それはどこか。この文章からは、その供給先が妻子であったことが読み取れる。

要するに家事労働に対して十分な「賃金」は支払われていなかったかもしれないが、少なくともある程度の還元(日々の生活費や服飾代)が行われていることがデータから示されていることになる。上野はこのグラデーション的な部分を、おそらくはあえて無視して記述を進めている。家父長制の搾取性を強調するためだろう。この言い落しを「うっかりしていた」ということにしてもいいが、『家父長制と資本制』が書ける著者にあり得る「うっかり」ではない。

とまあこのように、上野の主張はところどころ真正直に受け止めがたいものも混ざっている。上野の本は名著が多いので積極的に参照することを勧めるのだが、こうした戦略的な部分には留意しておきたい。誰の本にもそうした部分はあるが、特に上野千鶴子は名前に権威があるので気をつけて読みたいところだ。

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