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古文漢文不要論と暴力装置としての教育

こんにちは。日本の文学を専門に研究している者です。

毎年恒例、そろそろ季語になりそうな話題に古文漢文不要論争があります。受験の時期なので、学生時代のもろもろを思い出すひとが多いのでしょう。

古文と漢文の素養がなければ日本の文化についての理解が著しく阻害されますし、文章の質も急落しますし、将来的に古典籍を読みたくなった際のハードルがうなぎのぼりです。それは間違いのないことで、不要かと言われれば必要です。

そのうえで、義務教育だけでなく高校でも古文漢文を教え、なおかつ入試問題にまで出すべきかと言えば、たしかに議論のあるところでしょう。教養という点で言うなら美術や音楽についても同じ位置が与えられるべきですし、なにより哲学や思想が必修になるべきです。古文漢文の価値を列挙することは容易ですが、なぜこれが特に教えられるべきなのかということを説得的に示すのはとても難しい。

事態は他の科目や単元でも同じです。なぜ英語なのか?中国語のほうが日本の地理的な条件や、今後の社会的な趨勢を考えれば役に立つのではないか?数学高校でやるような数学を万人が知っている必要はあるか?運動会は本当に必要か?合唱コンクールは?などなど。

古典に限らず、多くの科目が「この私」にとっては不要です。なぜなら、「この私」が歩んできた人生で恩恵のあった科目や単元はほんの一部だから。ある科目がある人にとって有益かどうかということは、確率的な問題です。教育という分野の非常に厄介なところは、コストに対するリターンを暫定的にさえ数値化することが難しい、というかほとんど不可能である点にあります。

三角関数を知らなくても多くの人は生きていけるかもしれない。しかし必要な人間だけが三角関数を学ぶことになったとき、日本の産業や科学の発展においてどんな障害が生じるか予想することは難しい。

ではプログラミングなら?これは確実に役に立ちそうです。でも、いまでこそPCと対話するために特殊な言語と文法が必要とされていますが、将来的にはそういった翻訳的な措置がほとんど必要なくなるかもしれません。ある科目を教育に入するためには、教員の育成から教科書の作成、カリキュラムの組み立てとなどなど膨大なコストがかかります。それを上回るメリットが得られるという保障は、どこにもありません。

他の科目でも同じです。ある科目が必修である必然性はあまりない。しかし、現状の学校の体力で、科目選択の幅を広げることは不可能でしょう。そんなに教員を抱えておけないし、そもそも教員が見つからないし、生徒の数は減っていくし。現状では、少人数教室さえままならないのです。

ちょっと極端なことを言えば、あらゆる科目は「教えることになっている」という理由で、仕方なく・とりあえず教えられています。全国の学生たちに、一律にある特定の内容を教えることのメリットは不明確だが、それらはまあ必要でないこともないし、それらの一部さえも変更することはものすごく難しい。古文漢文は不要かどうか?不要かもしれません。では、不要ならどうしましょうか。

私は主張はいつも変わりません。教育について語りたいなら、理念とともに臨床のことも、同時に考えるべきです。教育の臨床、つまり明日の授業のことについて。

古文漢文は不要かもしれない。それはそれとして、国語の先生たちは明日、教室に向かいます。教員に直近で必要なのは、明日の授業で内職をしたり居眠りをしたりしようとする生徒に対して、この「授業は聞いていなければならない」ということをアピールするための脅し文句です。

難しい議論は時間のあるときにすればよい。不要だろうが必要だろうが、とにかく明日には授業があるのです。そして少なくとも、向こう10年ぐらいは同じような授業を続けなくてはならない。授業をするからには、不要であるかどうかとか考えていても仕方ない。とにかく生徒に対して「勉強せよ」というメッセージを発し続けなければならない。

教育とは暴力装置です。教師のメッセージを極限まで要約するなら、それは「つべこべ言わずにやれ!」ということに尽きます。それはやらなければならないことになっているのだし、授業中はそのやらなければならないことをやる時間なのだから。

なぜ古文漢文を学ばなくてはならないか?教室において、その問いに対する答えはこうです。「学ばなければならないことになっているから」。やりたくなければ好きにすればいいが、生徒は単位を取れず留年し、受験にも滑ります。素行の評価も悪くなるでしょう。でもさすがにそれじゃああんまりだから、教員は「教養になるから」とか「受験に役立つから」とか「社会にとって必要だから」とかいろいろ言い訳を考えるのです。古文漢文不要論争の役に立つ側面は、しばしば生徒に対するいい脅し文句が見つかることがあるからです。それが便利なら使います。

教育の一側面には、たしかにこの理由なき強制があります。教育現場とは暴力の排除を絶対とするこの現代において、暴力が公然と行われる数少ない場所です。……まあ、ちょっと怪しくなりつつありますが。

記事の締めくくりとして、『徒然草』の次のような章段を紹介しましょう。

八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき

243段

このエピソードのひとつの教訓は、無限に問うても答えの出ないところにたどり着くだけだということです。ひとつの問を追究していくことはたしかに尊い。しかし教室とは、「仏はどこから来たのか?」と問う子どもたちに、「とにかくそこにいるのです」と答える場所です。


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