村上裕一『ゴーストの条件』--幽霊と神と
いまさらながら、村上裕一『ゴーストの条件』を読んだ。2011年に発売された本書はざっくりいえばキャラクター論で、批評の歴史でいうと大塚英志『物語消費論』⇒東浩紀『動物化するポストモダン』⇒村上裕一『ゴーストの条件』という流れになる(正確に言うと斎藤環とか伊藤剛とか宇野常寛とかをはさむ必要があるけれども)。特に本書では、東浩紀がくどいくらい引用されている。それは本書の成立事情にかかわることではあるが、そのあたりの事情は本筋と関係ないので、ここでは説明を割愛したい。
この記事は、『ゴーストの条件』のまとめと、本書から触発されて僕が考えたことを記しておくメモのようなものである。刺激的な本だった。
〇「ゴースト」とはなにか
本書のタイトルともなっている「ゴースト」とは、どのようなキャラクターのありかたなのだろうか。
実はそれがよくわからないのである。
本書のはじめでは、次のような説明がなされている。
この部分のあとにも具体的な説明はされるのだが、「ゴーストとは〇〇です」といったはっきりとした説明はなされない。どうやら、「初音ミク」や「やる夫」は「ゴースト」らしいという具体例が読者に伝わるのみである。しかし、2段組で500ページ弱ある長大な本書の記述からは、『ゴーストの条件』が「ゴースト」についてかなり検討を重ねていることもうかがえる。
『ゴーストの条件』は説明から逃げているのではなく、はっきりと説明できそうなのだが、あえてそれを避けているらしいのである。たしかに「ゴースト」の正体がはっきりしてしまったら、それは「ゴースト」らしくないかもしれない。読者が二次創作的に「ゴースト」に向き合うことを、村上は期待しているのだろうか。ちょっと読者に期待しすぎだと思うけれども、実際にこうして記事を書いている人間がいるのだから、その意図はうまくいっているのかもしれない。
本書は3つの部立てで構成されている。第1部「固有名の哲学」、第2部「クラウド化した二次創作」、第3部「水子の倫理」である。個人的な面白さで言えば、熱意に満ちた作品論が展開される第3部が一番魅力的だが、はっきり言うとここは「ゴースト」という主題から逸れてしまっているように見える。「ゴースト」を一番説明しているのが第2部で、第1部は固有名論やキャラクター論を読み慣れている人からするとちょっと退屈だろう。
では、「ゴースト」とはどのような存在か。これを説明するためには、『ゴーストの条件』が参照している東浩紀、そして東浩紀が参照している大塚英志の批評を理解する必要がある。
ただ、ここで批評史について薀蓄を垂れるつもりはない。大胆にまとめよう。大塚のキャラクター論は作者の視点から構成されており、東のキャラクター論は読者の視点から構成されている。そして、『ゴーストの条件』のキャラクター論は東のそれをさらに読者主体に置き直したものである。
そもそも大塚英志は小説の執筆や漫画の原作なども手掛ける実作者であり、『物語の体操』を代表に創作論の執筆などもしている書き手である。大塚の批評において、読者はしばしば創作者の意図や戦略に翻弄される存在である。
一方東のキャラクター論では、読者集団の中で共有されているデータベースの存在が重要な鍵となっている。読者はデータベース(キャラクターを構成する要素の束のようなもの。猫耳とか、ツンデレとか、黒髪ロングとか)にアクセスし、二次創作を楽しむ。
『ゴーストの条件』のキャラクター論においても、読者は二次創作的な活動を行うが、それはもはや一次創作に近いものとなっている。『ゴーストの条件』が「ゴースト」の重要な具体例として挙げる初音ミクややる夫というキャラクターには、オリジナルの物語が存在しない。読者は彼ら彼女らを使って勝手に物語を紡ぎ始める。ここで、読者と創作者は限りなくイコールである。『ゴーストの条件』が「ゴーストの条件」として「創作のエンパワー」を挙げる所以だろう。
『ゴーストの条件』はキャラクター論であると同時にファンダム論である。初音ミクをつかって創作を行う人々は、いわば「初音ミク」という共同体=ファンコミュニティで交流していることになる。『ゴーストの条件』が「言語ゲームを構成する実在」(188ページ)や「共同幻想」(189ページ)という言葉を用いるのも、『ゴーストの条件』がキャラクターを軸としたコミュニティ創造論であるからだ(集合的無意識、クラウド化、中間的共同体)。
したがって私が定義してしまうとすれば、「ゴースト」とは「共同体を構成しうるキャラクター」ということになる。ただし、共同体が先かキャラクターが先かというのは難しい。やる夫がやる夫スレの積み重ねによってさまざまにキャラ付けされていったように、共同体によってキャラクターが作られ、更新され、訂正されるというベクトルもあるからだ。もっと正確に言えば「ゴースト」とは、「共同体と相互補完的な関係を築くキャラクター」なのだと言える。このキャラクターはその共同体にとっては実在するけど実在しないような存在=幽霊である。キャラクターは虚構の存在だからもちろん実在しないが、そのキャラクター抜きには共同体が存在しないのだから、その共同体にとってキャラクターは前提条件として存在するのである。
こうした『ゴーストの条件』の論述は、現在のファンダム論を正確に射抜いているように思われる。いま使われている「推し」という言葉は、自らの愛するキャラクターを「推す」相手がいることを前提としている。「推し活」によってつながることは、もはや特殊なオタク的仕草ではなくなった。10年以上前に出版された本書だが、その射程は十分現代にまで届いていると言えよう。
※私の関心から言えばこうした「ゴースト」のありようは、詩的言語のあり方とかなり近い。ここで詳しく説明することはしないが、和歌における枕詞などの例を考えてもらえればイメージしやすいかもしれない。
◯キャラクターの実存論
上記の説明で「ゴースト」については割と説明がつくと思っているのだが、本書にはキャラクターに関する全く水準の異なる議論が存在する。それが第3部「水子の倫理」だ。
『ゴーストの条件』の中では、「ゴースト」の話と水子の話は「存在するけど存在しない」者の話としてつながっているようだ。しかし、読者論としての側面が強い第2部に対して、第3部はほぼ純作品論と言ってよい構成となっており、第2部で中心を担ったファンコミュニティの話もほとんど出てこない。「ゴースト」について様々な角度から検討したいという『ゴーストの条件』の意図はわかるものの、ぶっちゃけて言えば第3部の話は全く別物として割り切って読んだほうがよく分かる。
しかし作品論を愛好する私としては、第3部の議論が最も面白い。作品論は純粋に読み手の読解力が問われる。そして村上は優れた読み手であるように思う。彼の作品論をもっと読みたいのだが、残念ながら本書とネトウヨ論以外に、村上の著作はない。ただ、noteやyoutubeで表現活動は続けているようだ。
第3部の主題は、私から見ると「水子」ではなく「人形」である。これは第1部から『ローゼンメイデン』論を含む本書にとって、外せないテーマであったはずだ。
最初に引用したように、「ゴーストの条件」には「自立したキャラクター」や「神でもなく、人でもなく、単なるキャラクターでもないもの」といった、キャラクターの実存に関わる条件が含まれている。
なぜ人形というモチーフが大切なのか。
近代文学の祖の一人と言える小説家、芥川竜之介の第三創作集は『傀儡師』と題されて刊行された。傀儡師、人形遣い。作者にとって、登場人物=キャラクターとは自由に操れる人形である。
もっと言えば、日本文学の起源自体が「人形」からはじまったのだと言えるのかもしれない。『源氏物語』の主題はピグマリオンコンプレックスだ。人形性愛。光源氏は人形として紫式部を自分の理想の女性として育てる。『源氏』はしばしば形代の物語だと言われるが、形代とはそもそも人間の代わりに使われる人形のことである。ちなみに、『源氏』の近代版が谷崎潤一郎『痴人の愛』である。人形のモチーフは、近現代にいたるまで脈々と受け継がれている。
キャラクターの実存を考えることは、この人形というモチーフに立ち向かうことである。人形として作者に支配されることと、キャラクターが自律して行動することの対立だ。
これは、メタレベルとオブジェクトレベルの対立として整理できる。キャラクターは作者に逆らえない。作者はキャラクターに対してひとつ上の水準にいるからだ。『ゴーストの条件』では、第1部にメタゲームの話が登場する。メタレベルとオブジェクトレベルの関係というモチーフが、早い段階から示されている。
キャラクターは作者に抗えない。これはある意味で、当然のことである。キャラクターが作者に抵抗する素振りを見せたとしても、それさえも作者の創作に過ぎないからだ。「作者に抵抗するキャラクター」という人物設定を、作者が創造したのである。わかりやすく言い換えれば作者とは神なのであって、人間が神に逆らうことが原理的に不可能なのだ。すべては予定調和なのであるから。
それでもなお『ゴーストの条件』は、キャクター自身の選択を尊重する。ここで導入されるのが「クラインの壺」だ。やはり細かい説明は省くけれども、「クラインの壺」はメタレベルとオブジェクトレベルの循環・陥入を示す概念として知られている。ざっくりと言い換えよう。人形は創作者に対抗できる。つまり、オブジェクトレベルとメタレベルの上下関係は、絶対的なものではない。
このことを本書では、奇跡からの脱却として記述している。たとえば『AIR』論は次のように展開される。
引用文は神をそのままgodの意味で使いつつ、それを作者と読者両方に重ねるという複雑な操作をしているためちょっと分かりづらい文章になっているが、私なりの理解を示しておこう。
物語における奇跡とは、ありていにしてしまえば神=作者による介入、デウス・エクス・マキナ、つまりご都合主義の操作である。たとえば主人公が実は〇〇族の血を引いていて最終決戦で覚醒するとか、友情パワーでなんか押し切るとか、少年漫画でよく見るアレだ。読者としては「力押しだなあ」と思って読むけれども、それが作品の瑕疵になるわけではない。物語とは、「そういうもの」だからである。
しかしこうした奇跡の発生は、キャラクターたちが作者のさじ加減でどうとでもなる人形的な存在であることを際立たせてしまう。キャラクターの自律性を考えるならば、神による奇跡は否定されなくてはならない(実際、本書の『Fate』論も「奇跡の否定」をテーマとしている)。
こうして『ゴーストの条件』が取り上げる作品群は、ときに読者あるいは神というメタレベルをオブジェクトレベル、つまり作品世界内に巻き込みながら、神学的な奇跡ではなく確率的な奇跡によってキャラクターたちを、場合によっては神を救済しようとする。
もちろん実際には、こうした構図自体が制作者という神によって設計されたものだと指摘することは可能だ。しかし、『ゴーストの条件』の丹念なテクスト読解は、ときに制作者側の意図を乗り越えているように見える。「そこで神に代わる役割となったのが読者やプレイヤーだったというわけだ」。『ゴーストの条件』という読者によって、人形たちの物語に自律性が与えられる。ここに賭けられているのはキャラクターの実存であり、キャラクターの実存に重きを置くという倫理である。
こうしたキャラクターの実存論が、第2部で「ゴースト」の例として取り上げられた初音ミクややる夫にどれほど当てはまるのかといえば怪しい気はする。初音ミクは共同体の条件となるメタレベルであると同時に、さまざまな歌を人形として歌わされるオブジェクトレベルでもある。これが「ゴースト」なのだとすれば、やはり本書で論じられている『AIR』や『Fate』、『ひぐらしのなく頃に』のキャラクターたちは、「ゴースト」なのだとは言えなかろう。しかし、そのことよって第3部の魅力が損なわれるわけではない。
◯令和の「ゴースト」
現在、『ゴーストの条件』で多数取り上げられた美少女アドベンチャーゲームのたぐいは、残念ながらゼロ年代ほどの勢いを有していない。いまのソーシャルゲームは当時のアドベンチャーゲームの残滓を会話の選択画面という形で残しているものの、そこにはどう答えても大した違いはないような選択肢が並んでいる。プレイヤーは、もはや能動的にシナリオにかかわることができない。
しかし、メタレベルのオブジェクトレベルへの貫入を論じ、奇跡のあり方を問うた村上の議論は、現代の作品に当てはまる部分も多いように思う。
たとえば本書の最後に論じられた『魔法少女まどか☆マギカ』は、その後映画版である『叛逆の物語』が公開され、文字通り神への「叛逆」が描かれることとなった。オブジェクトレベルのキャラクターがメタレベルにいる神を物語内に引き込み、最後には叛逆を成功させるという映画版の物語構造を、本書はかなり正確に予告している。
あるいは2024年に映画が公開された藤本タツキの漫画『ルックバック』も、奇跡の不在と向き合う物語のように読める。この作品では、凶漢に襲われて少女が死んでしまう物語と、少女が死ななかった物語の双方が描かれる。シナリオゲームなら、確実に選択肢分岐が発生して少女生還ルートがトゥルーエンドとなるところだ。プレイヤーは任意の場面を振り返る(look back)することによってバットエンドを回避するのだが、しかし『ルックバック』を読む限り少女生存ルートはあくまでifの世界線であり、そこに「シナリオ分岐」は存在しないという描き方らしい。プレイヤーというメタレベルによる奇跡はない。我々は死者を追憶する(look back)することしかできない。この作品のメッセージはこのようにまとめられるのではないか。
また、つい先日(2024年8月)に完結した『僕のヒーローアカデミア』も、神の救済というテーマを含んでいたように見える。物語における「ヒーロー」とは最後には必ず悪を打ち倒し、問題を解決する。ヒーローはある意味でデウス・エクス・マキナである(それを戯画的に描いた漫画が『ワンパンマン』だ)。しかし、作中で主人公の友人である麗日お茶子は次のようにいう。「ヒーローが辛いとき 誰がヒーローを守ってあげられるだろう」。
ヒーローは人々をケアし、時にヴィランのトラウマをケアする存在である。しかし、ヒーロー自身もケアされる必要があるのではないか。この作品の面白さは、そこに目をつけたところにある。本作はその問いに、「僕たちみんながヒーローになる物語」を描くことで答えた。ここでは誰もがメタレベル=救済者の役割を背負うことによって、メタレベルとオブジェクトレベルの区別が実質的に意味をなさなくなっている。(ここで詳しく論じだすと長くなるから、気が向いたら個別で記事にしたい)
一方、「ゴースト」として論じられた初音ミクややる夫のようなキャラクターが増えたかと言えば、あまりそのようには見受けられない。初音ミクはまだまだ現役だがさすがにやる夫は古いし、東方ProjectやSCP財団といった、集団創作的なものの人気も落ち着いてきている。物語の二次創作自体は盛んに続けられているが、多くのwiki(集合知)が企業によって営利化されたように、そうした二次創作の動き自体がマーケット化され資本の設計の中で管理されているように見える。冒頭で示した図式で言えば、大塚英志の理論が勝利したのだと言えよう(大塚自身は、そうした創作者の論理に対する免疫を読者につけさせたかったようだが)。
※ほんとうのところをいうとニコニコ動画で言う「例のアレ」が「ゴースト」として機能しているとは思うのだが、それが「ゴースト」として機能していること自体に深刻な問題があるので、論じることが難しい。
したがってやはり、本書を今読む意味は第3部の議論にあるのではないだろうか。第3部で論じられた人形的な生のあり方に関する論述は、たとえばVtuberにおけるメタレベルとオブジェクトレベルについて整理する際に使えるように見える。第3部を引き継いだ、『ゴースト条件』IIをぜひ読んでみたいところだ。
よろしければサポートお願いします。