見出し画像

大学院というネオリベラルな場所でネオリベラリズム批判を学ぶ

ネオリベラリズムとケア

昨今の人文系の研究者で、ネオリベラリズムを素直に肯定する人は、あんまりいません。

自由競走によってより能力の優秀なものが生き残るというネオリベラリズム考え方は、一見すると無駄を省くことができて効率的ですし、合理的です。しかし人生のスタートラインは往々にして平等ではなく、ジェンダーや階級、出身地域によって大きな「ハンデ」が生まれてしまいます。

したがってネオリベラリズムはときにマイノリティへの差別につながります。またマジョリティにとっても、一度ミスをしたら這い上がれない「オワタ式」の人生コースを設定することになってしまいます。

今年に入って『文學界』や『美術手帖』が特集を組んでいた「ケア」の思想は、こうしたネオリベラリズムに対抗する思想として登場したものであり、そこでは自立した「個」の能力よりも「みんな」による助け合いが奨励されています。

哲学、文学、社会学などいわゆる人文系の大学院に所属していれば、直接そうした講義があるか否かに関わらず、ネオリベラリズムの危険性と「ケア」的な発想の重要性を学ぶことになるでしょう。

ところがどっこい、大学院ほど競争原理に貫かれた場所もなかなかないのです。

大学院という競争社会

ひとくちに大学院生と言っても、卒業してから企業に就職することを目指す人と、博士後期課程に進んで研究職を目指す人ではちょっと意識が違ってきます。就職活動自体もかなりの「競争」ですが、ここではひとまず後者、研究職につく人のことを考えてみることにしましょう。

研究職につきたい人は多いですが、実際に研究者になれる人は少ない。狭き門で、そこでは激しい競争が存在します。

たとえば、論文の数の競い合い。乱造粗造はいただけませんが、大学院段階では普通指導教員のチェックが入りますから、低クオリティの論文を乱発することはなかなかできません。数を書けている人は、やはり競争で有利です(文学研究だとふつう単著論文しかないのであまり問題になりませんが、共同研究などの場合には筆頭著者かどうかも重要になってくるでしょう)。

ふつう論文執筆の前段階として、研究内容を学会で発表します。論文ほどではありませんが、そちらも「ポイント」がつくと考えていいでしょう。さらに言えば、一般的に国内学会よりは国際学会の方がよりポイントは高いです。

もちろん、論文を発表する媒体の権威によってもポイント数は上下します。多くの論文が投稿される査読誌はそれだけ採択率も下がりますから、高得点です。競争のためにポイントを集めるわけですが、ポイント集めの段階でも競争が発生します。競争のための競争です。

あるいは奨学金の採択なども、そもそも採択されるのに競争が存在しますし、採択されれば採択された事自体が得点となります。

また、非常勤講師の職も競争です。教歴があるとのちの「就活」で有利ですが、多くの非常勤講師は非常勤講師の経験があることを条件に募集がされる「一見さんお断り」システムであり、「最初のひとつめ」を掴み取るには実力と運が必要です。逆に言えば、非常勤講師の経験がある人に非常勤の仕事は偏って割り当てられていきます。

富めるものがより富むシステム。「実力」に根ざした競争原理。大学院の基本原理は、ザ・資本主義ネオリベラリズムです。

陰性の院生と陽性の院生

大学院はバリバリの競争社会ですから、「自分なんてもうだめだ……」とネガティブになっていく人も少なくありません。わたしはネガティブになっていく人を「陰性の院生」、「研究楽しー!」みたいな人を「陽性の院生」と呼んでいます。

陽性の院生だとまあ競争社会も楽しめるのですが、陰性の院生にとってはけっこうストレスフルな環境です。とはいえ、陰性の人は必ずしも実力がないから陰性になるというわけでもなく、周りから見ると研究能力がありそうな人も自己評価は妙に低かったりします。逆に言えば、実力がある人でも陰性になってしまうような環境なのだということかもしれません。

陽性は陽性でポイントをじゃんじゃん稼げるから自信があるという人と、意味もなく陽性である人と、さまざまです。競争に勝てているから陽性である場合も多いですが、なんかよくわからんけど陽性である場合もけっこう見ます。でも精神を病んでしんどくなるよりは、意味のない陽性の方がいいのかもしれません。

ちなみに、日本の近代文学研究で最も権威のある査読誌『日本近代文学』の採択率は現在5%を切ります。陰性の院生が生まれるわけですね。

大学院というネオリベラルな場所でネオリベラリズム批判を学ぶ

先ほどから「実力」とか「研究能力」とかいう言い方をしていますが、もちろんこれらも平等に「よーい、どん」という競争にはなっていません。家に漱石全集があって中学生のときから読んでいたとか、親が大学教員なのでなんとなく研究の仕方がわかるとか、教授のコネがすごいとか、大学院も一般社会と同じくさまざまな不平等に満ちています。あたりまえですね。

でも、じゃあかわいそうだから論文を採択してあげよう、とはなりません。あたりまえですね。

競争社会なので、「強者」はときに「弱者」を見下すことがあります。場合によっては、研究能力の低さが人格にまで結びつけて見られたりします。大学院で目立つのは研究能力のある人であり、研究能力のある先輩は研究能力のある後輩を引き立てますから、学内での二極化も起こりやすくなっています。

昨今の「ケア」流行がやや白々しいのは、まさにそうした思想が生まれている足元でこのようなネオリベラリズムが平然と存在しているからです。専門誌で「ケア」について書ける立場にある大学の先生などは、この苛烈な競争社会を生き抜いた強者です。少なくとも論文の書けない院生よりは、はるかに。

かといって、私はこのように概念を弄び、解決しようのない矛盾を指摘して悦にひたりたいわけではありません。くじ引きで教員を決めるよりは、業績で教員を決めたほうがいいのは当然ですし、院生ととしても頑張り甲斐があります。

ただ、ある種の屈折は欲しいな、と感じます。「ふだん自分はネオリベラリズムはだめだと思っているけれども、一方で査読論文の数を相手の評価基準にしてはいないだろうか」くらいの屈折。「ケアは大切だと言うけれども、研究室で辛そうにしているあの院生のケアは誰がしているのだろうか」程度の屈折。「競争で勝ち残って教壇に立っている自分が、ネオリベ批判をするというのはどういうことなんだろう」という屈折が。

私にはどうも、屈折のない思想は信用できないのです。


よろしければサポートお願いします。