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天才の文豪と秀才の文豪

風呂に入っているときやトイレをしているときに時々、「文豪のなかで誰が天才で誰が秀才だろう」と考えることがある。もちろん意味はないし生産性も皆無である。でもちょっと楽しい。

文豪はみな大なり小なり天才だと言ってしまえば話が終わってつまらないから、ここで言う天才とはあんまり勉強とかしてなさそうだけどすごい作品を書くやつ、みたいな感じで考えることにしよう。

たとえば、秀才型の典型は芥川龍之介や森鴎外だ。彼らはあきらかに、知識を取り入れそれを血肉とし、自分なりの方法論を作った上で作品を出力している。芥川の短編小説の、あの「作った」感!『羅生門』など20代前半で作った作品とは思えないほどの完成度ど緊密さだが、しかし構成がよくできすぎている分「天才的」だとは感じない。

有名所の作家で言えば、夏目漱石、三島由紀夫、大江健三郎なども秀才型だと感じる。書くために意識的に知識を取り入れ、それを計算して作品に仕込んでいる。大江の『死者の奢り』が秀才型かと言われると微妙だが、でも『同時代ゲーム』とかは方法論の方が作品より前に出てしまっているような小説だ。

三島なんかはわかりやすく秀才型で、『仮面の告白』『金閣寺』『豊穣の海』など、どれも頑張って考えたんだなあ、という感じがする。そして頑張っただけあっていい作品である。ただし『命売ります』や『レター教室』などの、どちらかというとしょうもない話のときは筆が自由で三島も楽しそうだ。力を抜いているときの方が彼の才能をフルに発揮できているのではないかと思えてしまう。

村上春樹あたりは微妙なラインだ。彼はどう考えてもインテリだし、ヘミングウェイなどのアメリカ作家から多くを学んで作品に生かしているのは明らかだから、秀才型だと言って間違いではない。とはいえあの可読性の高さは、「勉強」によって達成できるものとも思えない。村上が日本で一番の作家かと言われたら全くそうは思わないが、日本文学史上最も読みやすい文章を書ける作家であることは間違いない。これはたぶん、才能である。

同様に太宰治も境界線上にいる。『走れメロス』や『女の決闘』といった彼の翻案小説は太宰がさまざまな場所から創作のためののエッセンスを吸収していたことを示すもので、その意味では秀才型である。しかしあの文体がなんらかの勉強によって可能になるかと言われれば、それは怪しい。義太夫の影響なんかも指摘されているが、やはり文彩の文才があったのではないだろうか。義太夫なんか他の作家もけっこう見に行ってるんだから。

じゃあ天才って誰なんだという話になるのだが、たとえば志賀直哉などは天才型だと思う。好きにぽんと書いたらそれが作品になる。そんな感じの小説だ。芥川が晩年詩的精神という言葉を使いながら志賀の小説をたたえているが、秀才型の芥川からすれば天才型の志賀がうらやましかったというところが本当なんじゃないだろうか。同様にそのときの論争相手、谷崎潤一郎も天才型であろう。つまらない作品も多いが(特に戯曲が下手!)、好きに書いてそれが傑作になっている、という感じがする。

同じようなペアは別にもあって、たとえば萩原朔太郎と北原白秋がそうである。萩原は詩の理論について細かく細かく考えた人で、自分の理想とする詩と実作が一致しないことに終生苦しんだ詩人だ(とはいえ、萩原の詩はすばらしいが)。北原にそうした屈託は見られない。がんがん詩や歌を作ってそれでOKというタイプ。萩原は北原に対して微妙な距離があるように見えるのだが、理論や詩への姿勢という対立以前に、その屈託のなさに対する愛憎があったんじゃないだろうか。

詩人で言えば宮沢賢治や中原中也も天才型に属する。なんせ『春と修羅』を開いて最初に出てくるのが、「私という現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」なのだ。「現象」「交流」「電燈」「照明」などひとつひとつの言葉は、当時の知的環境を考えれば宮沢の「手持ち」として十分に有り得る語彙だが、それを詩に使うかと言われたら話が変わってくるし、この組み合わせで使うかと言われたらもっと話が変わってくる。同時代の詩を通覧していても、彼の詩は明らかに語彙のレベルで異質で突出している。

一方中原が使う語彙は日常的だ。「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪のふりかかる」という詩の言葉に、特に難しいところはない。しかし中原の詩には、ひとつの作品にひとつずつくらい読んだら心にひっかかるような「殺し文句」が登場する。「汚れつちまつた悲しみに」がそうだし、「月夜の浜辺に拾ったボタンは、どうしてそれが捨てられようか」がそうだし、「無限の前に腕をふる」がそうだし、「僕はこの世の果てにいた」がそうだ。彼が現代に生きていたら、案外糸井重里のようなコピーの才能を発揮していたかもしれない。

ほかに僕が天才だと感じた文学者は、深沢七郎である。彼の小説のいくつかしか読んだことがないのだが、どの小説も力が抜けているのに読者をひきつける引力があり、不思議な魅力がある。さらっと書いたらこんなものができましたという感じで、なんだか非常にうらやましい。

他にも思いつくままに名前を挙げておこう。秀才型の文豪はたとえば永井荷風、三好達治、横光利一、埴谷雄高、鮎川信夫、大岡昇平、倉橋由美子、丸谷才一あたり。天才型の文豪は泉鏡花、稲垣足穂、江戸川乱歩、立原道造、谷川俊太郎、小島信夫、森茉莉、寺山修司あたり。

もちろんテキトウな戯言だから、異論は無限に認めます。




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