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綿野恵太『みんな政治でバカになる』――バカな人からドヂな人になる

本記事は、2021年9月に晶文社から出版された綿野恵太『みんな政治でバカになる』についての書評記事です。主に本書の概要と、最終章で示される「ドヂ」という概念について解説・考察しています。

○「バカの二乗」

「みんな」が「バカになる」とはなかなか刺激的なタイトルですが、これは決して「釣り」タイトルではありません。本書の内容は、まさにこのタイトルのまんまだからです。

本書によれば、私たち人間は政治的な判断に関して、本能的にバカである上に無知であるという、「バカの二乗」なのです。

私たちは人間本性上バカな言動をとってしまう。くわえて、ほとんどの人が政治について無知=バカである。いわば、「人間本性」によるバカ(認知バイアス)と「環境」によるバカ(政治的無知)とがかけ合わさった「バカの二乗」である。これがフェイクニュースや陰謀論が後を絶たない理由である。(「はじめに」、12ページ)

まずひとつ目の「人間本性によるバカ」から説明しましょう。「二重過程理論」という認知科学の理論が存在します。これによれば、人間の認識は「直観システム」と「推論システム」で成り立っており、すごくざっくり言えば、前者は感情によって判断し、後者は理性によって判断します。

直観システムのほうが文字通り直感的なので、素早くはたらきます。その結果、推論システムが「ちょっと立ち止まって考えてみよう」と言う前に、直観システムのほうが「許せねえよ!」と燃え上がってしまうわけです。

しかもこれは人間本性的なシステムですから、賢い人なら冷静に判断できるというわけではありません。両システムの働き方に違いはあるにせよ、「みんな」直感的に感情的な、バカな判断をしてしまうのです。

さらに、私たちは政治的な知識もあまりありません、バカです。知識がある人でも、その知識は偏っている場合が多いでしょう。たとえば日本とアメリカや中国の関係についてはある程度知っていても、日本とトルコやフィンランドの関係、となってくると、知識を豊富に持っている人は少ないはずです。

それどころか私たちの多くは政治的な関心がありませんから、中国やアメリカの代表の名前は知っていても、その政治体制や大臣の名前についてはあいまいです。自国の大臣だって、何人くらい名前を言えるでしょうか。

ただし綿野氏によれば、これは単に「大衆は愚かだ」という話ではありません。いまの「環境」が政治に興味をもたせるようなものではないため、多くの人はわざわざ政治について知ろうとしないのだと言います。

かくして私たちは――著者である綿野氏も含めて――本性的にも環境的にも、二乗にバカであるということになります。

本書には監視社会論や「亜インテリ」論など面白い部分がたくさんあるのですが、とりあえずこの「バカの二乗」議論さえ押さえておけば、本書の主題を理解したと言ってもあんまり嘘にはならないでしょう。

○「バカ」から抜け出すために

しかし、直観システムの方はともかく政治的無知については、知識さえつければ解決できそうです。政治的に成熟した市民が担う、より豊かな民主主義政治、それは一部の思想家に「熟議性民主主義」と呼ばれ目指されてきたものでもあります。

ただし、大衆の政治的無知は個人の問題ではなく、政治に興味をもつことができないような環境のせいなのでした。いまの環境を変えないまま「政治に興味を持とう!」と言ったところで、だれも立ち止まってはくれないでしょう。

また、「興味」の水準もさまざまで、たとえば「ネトウヨ」と呼ばれる人々は政治に強い関心をもっています。ところがその「興味」が時として歴史修正主義やヘイトスピーチにつながっていきます。「とにかく政治に興味を持ってもらえたらOK」というわけでもないのです。

ではリベラルな、つまりPC(ポリティカル・コレクトネス)や生命倫理にのっとった政治的価値観を学ぶことがよいのか、というと微妙なところです。ひとつの知識としてリベラルな価値観を身につけることは大切ですが、リベラルはリベラルで問題を抱えていないわけではありません。リベラルを自称する人々による失言や差別への批判が、それ自体差別的な発言になってしまっているような逆転現象は、今日SNS上の随所で見ることができます。

実際本書はネトウヨだけでなく、リベラルにも批判的な筆致で分析が進められていきます。ネトウヨもリベラルも同じような「部族主義」にはまり込んでおり、他陣営への批判は多くの場合「攻撃」「差別」の様相を呈してくるのです。

私は、本書でもっと苛烈なリベラル批判がなされると思って読み進めていたくらいです。綿野氏の記述に沿っていえば、ネトウヨの部族主義を批判しつつも自らは部族主義に陥っていないのだと主張する一部のリベラルのほうが、ある意味ネトウヨよりも危険だからです。実際、本書の論理には近ごろの東浩紀氏などによるリベラル批判と通底する部分があります。

それでも本書でしばしば例に挙がるのが「ネトウヨ」や保守系の「亜インテリ」なのは、優先順位的な部分があるのではないか、と想像しています。たしかにリベラルも問題は抱えていますが、ヘイトスピーチや差別によって他者への実害を多く与えているのはどちらかと言えば「ネトウヨ」です。リベラルを叩くならその前に叩くところがあるだろう、ということではないでしょうか。これはあんまり自信がありませんが。

話を戻しましょう。では我々は、どんな「勉強」をして政治的無知を解決すればいいのでしょうか。綿野氏はその具体的な内容を示してはいませんが、勉強に際しての「姿勢」は示してくれています。

とはいえ、「他者」と向き合い、みずからの「礼節」=「文化」を批判できる自立的・自律的で合理的な個人になることはやはり難しい。私たちはあくまでも他者や環境に依存し、その影響を受けやすい。しかし、そのような中途半端な能力しか持たなくても、「推論システム」を発揮できる「環境」を自分自身で整えることはできる。たとえ、そこにあるのは別の部族であるとしても、部族から自由になる方法を私たちは「勉強」することができる。(「第6章・部族から自由になるために」、239~240ページ)

どのようなことを学ぶにしても、それが絶対だと信じてしまうことは危険です。知識を蓄えつつも自らの位置や思想を相対化し、問い直し、他の価値観を持った人の存在を容認する。そのような姿勢の必要性が、ここに記されています。

○「ドヂ」になれ

では、具体的にそれはどのような姿勢なのか。本書の最後では、「ドヂ」な存在の重要性が語られています。

バカの居直りでもなく、シニカルに嗤う冷笑主義でもない。重要なのは、その「あいだ」である。その「あいだ」とは「ドヂ」な存在である。(「第6章・部族から自由になるために」,240ページ)

この「ドヂ」とはなんなのか。この概念については本書の最終盤数ページで足早に語られているだけであり、正直、外の記述と比べると十分に議論がなされているとは言えません。しかし、推測を混じえつつこの「ドヂ」の内実を確かめておきたいと思います。

本書によれば、「ドヂ」な人とはその人が所属する部族=グループが本来持つ「テンポ」からずれている人のことです。では、テンポがずれているとはどのようなことを指すのか。本書中ではこのあたりが具体化されていないのですが、ここではふたつの観点から「ドヂ」について考えてみます。

ひとつ目。本書の「ドヂ」は明らかに千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を踏まえて提唱されています。この本の議論は『みんな政治でバカになる』5章の亜インテリ論で紹介されているのですが、本書の帯文を千葉氏が書いていることや、「バカ」というキーワードが重なっていることから、5章に限らず本書全体の重要な参照先だと推測されます。

では、『勉強の哲学』ではどのような議論がなされているのでしょうか。

 深くは勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方です。
 状況にうまく「乗れる」、つまり、ノリのいい生き方です。
 それは、周りに対して共感的な生き方であるとも言える。
 逆に、「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、それは言ってみれば、「ノリが悪くなる」ことなのです。
 深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。
(千葉雅也『勉強の哲学』Kindle位置100)

千葉氏によれば「深く」勉強していけばその場の「ノリ」を客観視する能力が磨かれ、別の「ノリ」に移行していきます。しかし、それだけだと単に別の部族に移動したに過ぎません。「ノリ」と「ノリ」のあいだにおいて、「ノリ」そのものの根拠を疑いながら批判的に「ノる」こと。『勉強の哲学』における「勉強」とは、私たちにそのような態度をもたらすものです。

こうした千葉氏の議論と本書の「ドヂ」論は、大部分重なっています。むしろなぜ「ドヂ」論を展開している部分で『勉強の哲学』が参照されなかったのか不思議なくらいです。そのあたりを深く突っ込んでいけば、それがそのまま綿野氏と千葉氏の距離にもつながっていきそうですが、ちょっとこの記事の手にあまるので、いったんおいておきましょう。

『勉強の哲学』を補助線に「ドヂ」を考えると、それは自分の所属する部族から浮きつつ(※)、しかし完全に部族に対して離れた位置に立つわけではない、テンポはずれているけれどもまわりと全く違うことをしているわけではない、そんなあり方のことを指しているのだと考えられます。

※部族を客観的に見たければ、どんな部族にも所属しなければいいのではないか、と考える方もいるかと思いますが、それは罠です。「部族に所属しない人」という集団=部族を形成するだけだからです。えてしてそのような部族こそが、最も厄介だったりするのです。

ふたつ目。これは綿野氏の考えを汲むというより、「テンポ」という言葉とに引きずられるような感じになりますが、テンポという語が使われているからには、スピードの問題も考えたくなります。

ファストフードやファスト映画という言葉がありますが、SNSが加速させたのは「ファストワード」でしょう。その場で思ったことを直ぐに投稿できるtwitterなどのプラットフォームは、直観システムと相性が良く(ある意味では相性が悪く)、十分な吟味ができないまま言葉を公開することができてしまいます。

結果として、立ち止まって推論システム=理性を働かせていれば言わなかったようなことまで言ってしまう、あるいは浅いレベルで議論をしてしまう。「速さ」はそのような問題を引き起こします。

だから私は、「テンポ」をずらすというのをもっと直接な意味で解釈してもいいだろうと考えています。要するに、遅れることによって推論システムが作動する時間を作るのです。それが周りと比べると人よりテンポの遅い「ドヂ」な人に見える。これが、本書における「ドヂ」のもうひとつの意味だと解釈することもできるのではないでしょうか。

○本書の重要性とメッセージを届けることの難しさ

この『みんな政治でバカになる』が重要なのは、この本を議論のスタートラインにすることができるからです。

違う部族=グループの間では、しばしば「あいつらがバカだから話が通じないんだ」というような言い方がなされます。個人的には、リベラルの「ネトウヨ」への目線には、けっこうこういう考え方が混ざっているように感じます。

一方、本書の主張はこうです。ちがうんだ、あいつらはたしかにバカなんだけれども、俺たちだってバカなんだ。お互いバカだってことを認めあって、そこから議論を始めなきゃダメなんだ。バカ同士をつなぐ言葉を見つけるんだ、と。

本書の、いわば「解決篇」である「ドヂ」論が手薄なのも、このような議論のベース作り労力を注いでいたからではないでしょうか。つまるところ、本書は問題に答えを出すタイプの本というよりも、話し合いのための環境整備をするような本なのだと思います。

ただし、コトはそう単純には進みません。

本書では、「みんな」が政治でバカになることが説かれています。「みんな」の中には筆者=綿野氏も入っています。しかし、綿野氏がその他大勢と同じような「バカ」なのかというと、それも少し違います。この本が書けているからです。状況を整理して、警鐘を鳴らせる位置にいます。

一方で、「バカの二乗」に落ち込んでいる人に本書の言葉がどの程度届くかというと、疑問が残ります。なぜなら、ある立場の人から見れば綿野氏もひとつの部族の代表として外の部族を「バカ」だと批判しているように見えるだろうからです。特に本書の多くの箇所で否定的に扱われている「ネトウヨ」あるいは保守系の亜インテリにとって、本書の主張は単なる右翼批判だと捉えられかねません。実際、本書の主張を取り違えた「バカ」な人々による騒動(炎上?)もあったと聞きます。

要するに、本書の主張を理解し受け止めることができるのは、ある程度すでに「ドヂ」な人なのであり、「バカの二乗」の真っ只中で議論している人にはなかなか本書の主張が届かないという事態が発生しうる(発生している)のではないでしょうか。

本書には、「あなたは実はバカですよ」と伝えてくれるという役割があるのですが、「なるほど、私はバカなのだ」と思える人はその時点であんまり「バカ」ではないのです。

我々はドヂにならなければならない。しかし、「ドヂにならなければならない」というメッセージが伝わる人はすでに多少なりともドヂである。そしてドヂでない人には、「ドヂになれ」というメッセージが伝わらない。

本書の抱えるこのような困難は、そのまま現代の多くの思想が抱えている困難につながっています。

○おわりに

そこそこ長く書いてきましたが、この記事は本書の議論の多くをすっとばしています。特に最新の認知科学の知見を用いて我々が無意識に持っているバイアスを示していくようなあたりは素直に勉強になるので、気になった方はぜひ購入して実際に読むことをおすすめします。私の記事が、本の内容を簡単にまとめて理解したような気にさせる「ファスト読書」にならないことを祈ります。

さいごに個人的な感想。

本書を読んで嬉しかったのは、「熟議」の可能性がある程度信じられているように感じた点です。私はハーバーマス的な熟議空間の達成を諦めきれないでいるのですが、残念ながら近年そうした議論はナイーブなものとして処理されがちです。

その点本書では一定の距離を置きつつも、成熟した市民による熟議の可能性は捨て去られていないように見えました。そうなってくると、私としても「ワンチャン」を感じます。

ただ最後に示したように、異なる部族間でコミュニケーション可能な言葉を考案するのはなかなか簡単なことではありません。自分の身内だけでなされる「熟議」は、単にバイアスを強化することにしかつながらない。私たちはいま、バベルの塔崩壊以前のコトバを求めています。現代で翻訳論が改めて盛んになりつつあるのは、こうした現状を反映してのことではないでしょうか。

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