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教育と暴力―自主的に学ぶこと?

○思い出話


教職課程のグループワークで、こんな話をした学生がいた。

彼は倫理学を専攻している学部4年生。イギリスに留学し、日本のそれとは違った教育システムに出会った。

イギリスでは、教員は「先生」ではなくひとりのファシリテーターにすぎない。主役は学生であり、教員は導き手である。日本も、もっとこのような教育を取り入れたほうがいい。4(for) studentsの精神が大切だ。なぜ4であってforではないのか?それはforのもつ、「ほどこし」のようなニュアンスを避けるためである……。

おおよそこんな話だったと思う。この話を聞いたのはもう3年くらいまえだが、よく覚えている。そのときはとりあえず黙って聞いていたが、内心その意見に反発していたからだ。

その反発が、大部分forを4と言い換えるのををうさんくさく感じたことからきていることは否定しない(まあ、よくある言い換えだけれども)。ただ、もう少し原理的なところでの反発もあった。

生徒の自主性にまかせると言ったところで、どこかでは教えなくてはならないのだ。議論の作法、形式、ボキャブラリー、それに伴う知識などなど。教員が単なるファシリテーターだとすれば、それは誰が教えるのか。教えることなしに「生徒の主体性」を考えることなんてできるのか。

とはいえ、今の僕はもう少し柔軟である。要は割合いの問題だと考えればいい。いままでの授業が能動1/受動9くらいだとすれば、それを能動5/受動5くらいにすると考えればいいのだ。

……いや、そんなに簡単な話だろうか?

○教員と生徒

以前にアクティブ・ラーニングについての記事で書いたことがあるが、ディスカッションとは基本的にアウトプットであって、アウトップットとするためにはどこかでインプットしなくてはならない。そして少しでも教員としての経験がある人ならわかるが、生徒の自主性に任せていてもインプットははかどらない。やるやつはやるし、やらないやつはやらない。そして大概の場合、「やらないやつ」の方がマジョリティである。

生徒の自主性に任せた教育を行えばどうなるか。おそらく、おそろしい二極化が発生するだろう。これは一種の新自由主義なのである。「各自の責任において学習活動を行え」。なにもしなかった生徒は最終的にどうなるか。学力がすべてではないが、選びうる選択肢が減るのは確かだろう。そして、その責任をとってくれる人は誰もいない。

教育において、主体と客体はあいまいだ。たとえば、僕は長いあいだ個別指導の塾でアルバイトをしていた。自分なりには一生懸命やったつもりだが、宿題をやってこない生徒、なかなか成績が伸びない生徒は少なくなかった。しかし、僕には自分の指導力を棚に上げて彼ら彼女らを叱ることはできなかった。生徒が宿題をしてこないのは、自分が宿題をさせられなかったということではないか?

たしかに、やるやつはやるし、やらないやつはやらない。しかし生徒を「やるやつ」にするのが教育なのだから、それができなかったのはやはり僕の責任なのである。

教員は生徒に知識を伝授する。そしてテストで知識の定着度を測る。テストで点数を取れない生徒は、知識がうまく身につかなかった生徒である。それは生徒に知識を教えることの失敗である。つまり、教育の失敗である。

たしかに、個別指導だから余計に生徒と僕との境界があいまいになった部分はある。多くの教員は多対一で教えている。よって、責任は分散する。ひとりひとりの生徒をフォローすることは到底不可能だから、それぞれの生徒の点数はある程度それぞれの生徒の責任である。

でもそれは「ある程度」、だ。それぞれの生徒が頑張ればいいということなら、教員など最初からいらない。授業がうまい教員が動画を作って配信すればよい。実際オンライン授業が行われ始めてから、その手の議論を毎日のように見る。

しかし教育とは内容だけ教えるのではない。勉強をさせる管理能力、それが教育には不可欠だ。繰り返すが、生徒それぞれの自主性に委ねればよいという言説は、教育の皮をかぶった新自由主義なのだと言える。

生徒が勉強をしないことの責任の、少なくとも一部分は教員にある。もちろん、どんなに教員が努力をしても勉強しない生徒もいる。が、それは生徒に学ばせるべき教員の無能力でもある。もし教員の能力がそこに関わらないのなら、誰が授業しても同じということになってしまう。教員免許なんて不要だ。

要するに、教育とは主体と客体が入り混じったものなのだ。教室において教えている主体=教員と、教えられている客体=生徒の境界線はあいまいで、切り離すことができない。だから教員は原理的に、「生徒の自主性」にさえ責任を負うことになる。

○アクティブラーニングにおける「主体性」

では生徒が主体的に調べ学習やディスカッションに取り組むよう導く教育では、生徒は自ら学ぶ主体になっているのだろうか。残念ながら、そうとは言えそうにない。生徒は教員に言われて「アクティブ」に動くのだから。それは言わば強いられた能動性であって、能動的な能動性ではない。

もちろん、強いられてでも主体的になれば学習の質は変わる。僕自身、授業には必ずと言っていいほどグループワークやペアワークの時間をとっている。だからそこに難癖をつけたいのではない。僕が言いたいのは、どんな授業方法をとったとしても、教員は主体=「先生」の位置から降りることができないのだということだ。

4studentの精神で生徒を導くと言ったとき、そこには教えることの主体性から降りようという意図が感じられる。生徒と同じ立場に立ち、ともに頑張っていこうというようなイメージなのだろう。たしかに講義形式の教育には、どこか抑圧的な側面もあった。教壇に立っている教員が一方的に生徒に知識を詰め込んでいく。そんなモデルだ。

生徒を導く教育は、この抑圧がもたらす暴力性を解決しようとしている。しかし導く教育は、抑圧の暴力から逃れ生徒の主体的な学びを顕彰しようとするあまり、教員の教える主体としての責任もうやむやにしてしまっているように感じる。

いくら双方向的な教育と言ったって、本質的には双方向ではないのだ。その双方向性を形作るシステムを管理しているのは教員なのだから。能動/受動の枠組みが別の水準にずれただけだ。繰り返すように、それによって教育的な効果や教育の質は変わるだろう。しかし教員と生徒の関係は変わらない。

やはりどこかで教員は生徒を教える主体であるし、生徒は教えられる客体である。そして教員は生徒の活動に責任を負う。「生徒の自主性」や「双方向的な授業」に関する多くの言説は、どこかでこのことをごまかしているのではないか。ポストモダン的な主体の解体という議論を持ち出すまでもなく、教室において「本当の自主性」を求めることはある種のロマン主義なのだ。

教師はファシリテーターになり得ない。教師がファシリテーターだとしたらそれは単なるファシリテーターであって、教師ではない。教師はどこまでいっても「先生」なのである。

○教育とは暴力である

生徒に勉強をさせる。生徒を管理する。それは、なんとも暴力的なものだ。生徒もひとりの主体性を持った人間である。そうした人物にある行動を強制するのは、一種の暴力でなくてなんだろうか。

「アカデミックハラスメントがうるさくなったから」という外圧的な理由からだけでなく、いまの教育には積極的に暴力性を避けようとする傾向があるように思われる。暴力は許されないというリベラルな感性を各員が内面化した結果、教育に潜む暴力性を無視することができなくなった。そんな感じだ。

環境管理型の権力や暴力なんて言われ尽くしているし、近代的な学校が軍隊の組織と相似形なのも周知の事実ではないか、と言われるかもしれない。ただ僕がここで言いたい「暴力」とは、それとはちょっと違うものだ。

僕が思うに教育とは、相手に「お前はまだ未熟だ」と宣言することである。なぜ因数分解を教えられなければならないのか。それは、君たちがまだ因数分解を理解できていないからだ。相手が学ぶべきことをまだ学んでいないから教えるのである。だから、教育することは相手に「成長しろ!」と迫ることに他ならない。もちろん、迫り方にはいろいろある。しかし根っこの部分は変わらない。

したがって、単に道を教えることと「教育」は異なる。「教育」には「育てる」という文字が入っている。それは明らかに、教えられる側の成長を期待した言葉なのだ。

ときどき出来のよくない生徒に対しても、つい無理やり褒めるところを探して指導することの暴力性を緩和しようとする教員がいる。僕のことだ。教育の暴力性を扱いかねているから、どうしても甘い衣でそれを包もうとしてしまう。それが生徒の成長にとってよくないとわかっていても、出来ていない生徒に「出来ていないですよ」と言うのはなかなか難しい。

生徒受けがいい先生でも、生徒を叱ることは苦手だったりする。逆に生徒によく怒る先生は、単にハラスメント的だったりもする。教育の暴力性をうまく飼いならしつつ使いこなせる教員は稀だ。

中学校や高校のとき、「大人になったら注意してもらえなくなりますよ」とよく言われたものだ。中学校や高校では、良くも悪くも生徒を抑圧するシステムがまだ残っている。わかりやすい暴力性がそこにはある。なめるとかなめられないとかいう世界がそこには存在していて、しかもそれは端的に事実であり、教員の態度によって対応を変える生徒は珍しくない。

それに比べて大学はぬるま湯である。多少のおいたをしたところで誰も叱らないし怒らない。特に人文系の教員はリベラルな人が多いから、叱るときの言葉遣いも慎重である。院生の指導にだって気を遣う。ところが実際には大学院は死ぬほどネオリベラルな競争社会なので、下手に気を遣われるとあとで痛い目を見る。

話がそれた。要するに、教育は原理的に暴力性を孕むものなのだ。痛みなしの成長はありえない。しかしこれは、暴力や痛みを避けるいまの社会とうまく相容れない。だから4 studentというごまかしも言いたくなるのだろう。アクティブラーニングとは、暴力の回避装置でもあるのだ。繰り返すように、実際には全く回避できていないのだけれども。

教員は、この暴力性と向き合うしかないだろう。それは程度の問題であって、1か0かの問題ではないのだ。

僕が勝手に、「家父長制批判のパラドクス」と呼んでいる現象がある。家父長制批判自体が、家父長的に教えられざるをえないというパラドクスだ。

たとえば遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』では上野ゼミの様子が描かれているが、それは恐ろしく家父長制的なものである。生徒に大量の文献を読ませ、厳しいスケジュールで鍛え上げる。フェミニズムが、家父長制的な管理によって学ばれていく。上野ゼミは厳しさにおいて格別だろうが、質的に異なるわけではない。だって学ばせなければ、家父長制に対する批評理論は身につかないのだ。

「だから家父長制批判なんて欺瞞なんだ」などという枝葉末節の話をしたいのではない。僕が言いたいのは、教室において教員はどうしようもなく「父」なのだということである。

○おわりに

教育において教える側と教えられる側は主体性を分有していて、いくら生徒の自主性を重んじても、どこかで自主性を発揮させる場面がなくてはならない。

そして学ばせることは、単に管理という意味を超えて暴力的である。成長を促すことは暴力性を帯びている。教育は、相手に「お前には欠けているものがある」というメッセージを発し続ける。それは極端に言えば、一種の罵倒だ。しかしこれを避けての教育はありえない。

僕はやはり、人は成長すべきだと思っている。そして、成長において暴力やそれに伴う傷は不可避だ。だから僕は、あらゆる暴力性は排除されるべきだ、とは言わない。あえて言い切るなら、必要な暴力性というものは存在すると思っている。

いまの社会は、暴力や痛みを避けることで成長から降りようとしているように見える。でも、成長を不必要とする思想は成り立ちうるだろうか。成長が不要だとしたら、そうした思想を学ぶ必要すらないのだ。他者に届けることを放棄した思想が批評性を持ちうるか。いまからそのことについて議論する気力はないが、「思想を学ばなくてもいいとする思想」というは、僕には単に思想の自殺にしか見えない。

しかし逆に、単に人を学ばせることを重視する思想は啓蒙的な発想から抜けられない。自殺と啓蒙のあいだ。僕の次の課題はそれである。


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