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アクティブ・ラーニングの消極性

小学校では2020年、中学では2021年、高校では2022年度から新しい学習指導要領が適用されています。今話題のセンターテストの模様替え(共通テスト)なども、この流れの一環ですね。

その新学習指導要領の中ではSociety5.0とかICT教育とか新しい(あるいは新しげな)題目がいくつか並べられているわけですが、そのうちの一つが「対話的・主体的で深い学び」、すなわちアクティブ・ラーニング(以下ALとしときましょう)です。

〇アクティブ・ラーニングとは?

文部省のホームページでALがどのように意義づけられているか見てみましょう。

思考力・判断力・表現力等は、学習の中で、(2)1.2)に示したような思考・判断・表現が発揮される主体的・協働的な問題発見・解決の場面を経験することによって磨かれていく。身に付けた個別の知識や技能も、そうした学習経験の中で活用することにより定着し、既存の知識や技能と関連付けられ体系化されながら身に付いていき、ひいては生涯にわたり活用できるような物事の深い理解や方法の熟達に至ることが期待される。
また、こうした学びを推進するエンジンとなるのは、子供の学びに向かう力であり、これを引き出すためには、実社会や実生活に関連した課題などを通じて動機付けを行い、子供たちの学びへの興味と努力し続ける意志を喚起する必要がある。
このように、次期改訂が目指す育成すべき資質・能力を育むためには、学びの量とともに、質や深まりが重要であり、子供たちが「どのように学ぶか」についても光を当てる必要があるとの認識のもと、「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)」について、これまでの議論等も踏まえつつ検討を重ねてきた。
(文部科学省「2.新しい学習指導要領等が目指す姿」、https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364316.htm。参照は2021/02/20)

ポイントとしては、①学んだ知識を実生活に活用することによって身につけること、②生徒が主体的に学習に向かうよう導くこと、でしょうか。

②に関しては、わりとどこでも言われていることですね。僕も塾講時代に、生徒のやる気をどのように引き出せばよいかという研修を何回か受けたことがあります。

文科省としては、その解決策を生徒自身の生活と授業を関わらせることに求めているっぽいですね。自分と関わりのあることなら積極的に学ぶだろうと。

特に小学生などには身近な内容から入った方が伝わりやすいですから、その考えも分かります。ただ、〈いま〉の実生活と関わるような知恵は賞味期限が短いのだということも押さえておきたいところです。

たとえば、WordやExcelの使い方を学ぶことは〈いま〉とても役に立ちますが、生徒たちが社会に出るころにはそれらが全く違うソフトに取って代わられている可能性があります。

英語教育もビジネスや国際交流に役立つスピーキング能力が重視されていますが、英語が現在ほどの力を失ってしまうと、むしろ他言語の学習にも応用可能な文法教育の重要性が高まってくるでしょう。

逆に、抽象度が高い学びは〈いま〉役に立たない分、価値が減退しにくいです。国語的な読解の能力はどのような社会でも必要ですし、数式の計算は公式と実践の関係を根源的な形で教えてくれます。

ALの基本的な理念には賛同しますが、〈いま・ここ・わたし〉を相対化できるような視線を養えるような教育も考えていきたいところです。

〇対話的な学習のメリット

グループワーク(「対話的な学習」の一つだと言えます)の利点は何でしょう。何点か挙げられそうです。

・グループで話し合う必要があるので、自分の考えをしっかりとまとめる必要ある。言い換えると、授業に全員が参加する形式になる。
・アイデアを他人に伝えることで、プレゼンテーションの能力が磨かれる。
・他人のアイデアに触れることで、自分とは異なる目線があることを学ぶ。
・講義ばかりの授業よりも、メリハリをつけやすい
……などなど

以上のメリットを考えると、今ALがはやりだから、という理由は抜きにして、授業のどこかで話し合いの機会を設けるというのは必要だと思います。たとえそれが大した意味のないディスカッションでも、眠気覚ましになります。

この「眠気覚まし」というのは冗談や皮肉ではなくて、切実なことです。中高生は眠いんです。学生時代、授業中に居眠りしなかった人がいるでしょうか。

大抵の学校は8:00~8:30くらいには授業が始まるので、7:00には起きないと間に合わないでしょう。それだけでも眠いのに、前日には2時間とか3時間部活で体を動かしています。そうでなくても、夜遅くまで塾に行ったり宿題をしたりしてるわけです。そのうえ体育やら音楽やらで、日中にも体力を使っています。これが眠くなかろうはずがない。

ということを考えると、話し合って眠気がとれるというだけでもその後の授業に資するところは大であって、内容がゼロでもディスカッションには意味があります。
(逆に先生の側は、生徒の居眠りにもう少し寛大でもいいはずです。高校のとき寝ている生徒の机を蹴り上げた先生がいたのですが、そういうことをしていてはチンピラと呼ばれても文句は言えません。)

〇意義ある対話に向けて

僕が中学校高校で授業を受けていたときには、このALの理念は今ほど浸透していませんでした。したがって、生徒の立場からALがどう見えるのかイマイチ判断がつかないところがありますが、大学の教職の授業ではよくALを意識したグループワークをやりました。

たとえば、育てた豚を殺して食べる「命の授業」についてあなたはどう思うか。グループで話し合って、各班の代表者が話し合いの結果を発表してください、とか。

先ほどから僕がディスカッションについて、「内容がなくても」みたいな微妙な言い方をしているのはこの経験があるからです。端的に言えば、僕は教職のディスカッションで学びを得たと思った経験はほとんどありません。

単純に考えて、その場でお題を与えられてその場で吐き出すアイデアなんていうものは、大体似たり寄ったりにならざるを得ません。自分と意見が違う人がいても、その差異は予想の範囲内に収まります。

そういうグループワークの仕方だと、一人で考えているのとあまり変わりまえせん。ということは、その時間内に得られた学びはゼロです(厳密には、先ほど挙げたようにプレゼン能力や思考力を磨いたということにはなりますが)。

というかインプットがゼロなのは当たり前です。ディスカッションの時間とはアウトプットの時間ですから。でも対話的な授業を賛美する言説では、ディスカッションやグループワークがそのまま何か「深い学び」につながっているかのような論調のものも少なくありません。

たとえば、マイケル・サンデルの授業が一時期話題になっていました。生徒に問いを投げかけ、サンデル教授がそれに答えつつ授業を展開します。生徒―教師間での「対話」がある授業です。

サンデル教授の授業自体は功利主義とかリバリタリアニズム、そして彼自身が主張するコミュニズムの思想を知るのに有効な方法でしょうが、あの授業をALのお手本のように考えるのはどうかと思います。有名な「トロッコ問題」なんかは功利主義の立場を知る上では有効でも、あの思考実験をあんまり「深く」解釈しても仕方ないでしょう。あれは、考えても考えても、同じところを行ったり来たりするタイプの命題です。トロッコみたいに。生徒の側はどのように答えても、サンデル教授の誘導したい方向に行くしかありません。

ディスカッションをすればそれが学びにつながるわけではない、十分なインプットがあってこそ、アウトプットが生きます。

大学のゼミや演習を思い出してください。それらが重要な学びの場になるのは、発表者が十分に準備して発表し、聴衆もある程度の専門知識を有しているからです。突然「トルコの経済政策について話し合ってください」とか言われても、どうしようもありません。

中学校高校の授業で言えば、まず前の授業の段階で次の授業で何について話し合うか予告し、ある程度知識を与え(あるいは予習させ)、自分の意見を固めてもらったうえで話し合うのでなければ、ALは十分な効果を発揮しないでしょう。

アクティブ・ラーニングに生徒が消極的に参加しているような状態では、「アクティブ」と言っても虚しいだけです。意義ある対話に向けて、意味ある準備が必要です。

〇パッケージとしての教育改革

こうなってくると、今話題の「反転授業」がなぜ重要なのか見えてきます。反転授業とは、生徒が事前に授業内容を動画などで予習し、授業時間を質問やディスカッションに充てるというものです。

この授業形態なら、生徒は十分に知識を身につけたうえでディスカッションに参加することになり、授業は「対話的・主体的な学び」として有意義なものになるでしょう。

ところが、この反転授業、多くの人がこう思うはずです。
「生徒はちゃんと予習してくるか?」

これはなかなか難しいところで、究極的にはどうしようもないと思うのですが、次善の策は存在します。放課後にある程度まとまった時間があれば、その一部くらいは予習に充ててくれるのではないか。

では、まとまった時間をどう作ればよいでしょうか。ここで提唱したいのは、パッケージ単位での考え方です。

たとえば、国語科でALを意識したディスカッションを行うとします。ここで、国語科の中だけでなんやかんや考えてもうまくいきません。先に言ったように、ALのためには生徒に十分な準備時間をとってもらわねばならず、それは他教科や行事も巻き込んだ問題になってくるからです。

ALのために準備させたい。とすると、「数学ですごいたくさん宿題が出てて……」とか、「日本史でも同じような予習が求められてて……」とかだと困ります。逆に、生徒が文化祭の準備で忙しいような時期には「予習してね」と言っても厳しいでしょう。

学校教育というのはたくさんの異なる分野の集合でできています。だから、「一つだけ動かそう」というわけにはいきません。学校全体の流れ、パッケージごと動かすことでこそ、ALが有効に機能するようになると思います。。

さて、生徒に十分な予習をしてもらいたいと思うと、教育というパッケージの中でボトルネックになっているものがあります。部活動です。

部活動があると、生徒も教員も授業準備のための時間が削られます。のみならず、生徒は体力をもっていかれるので(文化部でも、集中して活動したあとはどっと疲れがくるでしょう)、帰宅したあとの時間にも部活が影響します。先生方も、部活に関する書類仕事が増えるので、奪われるのは単純に部活動をしている時間だけではありません。

部活動と言うと、先生のタダ働きが問題となりますが、たとえ給料が支払われても部活動は廃止すべきだというのが僕の意見です。教育をパッケージとして考えていく上で、生徒や教員が授業のために使える時間を致命的に削いでいるのが部活だからです。

部活動廃止は以前から言われていますし、にもかかわらず実行がなかなか難しい議題であることは承知しています。ここではひとまず、その部活動の問題が「働き方改革」的な文脈だけでなく、ALの文脈ともつながっていることを示唆しておきたいと思います。

どうやって部活動廃止までもっていくか?スポーツや音楽、絵画をやりたい学生は多いでしょうから、地域で代わりになるような活動の場を作ることが必要でしょう。

比較的安価で代替的な場所があれば、必ずしも学校で部活動を担う必要はなくなってきます。

ちょっと市場主義的ですが、スポーツメーカーに入ってきてもらうのもいいかもしません。学校の体育館を貸してコーチに安く指導してもらう、その代わりに道具はそのメーカーでそろえる、とか。

学校が部活動を手放すことで生まれる新たな市場の存在をアピールできれば、部活動を「民営化」することに一歩近づくのではないでしょうか。

〇おわりに

以上、ALについてつらつら述べてきました。要するに、意義のあるALのためには十分な準備が必要ですが、そのためには準備の時間を取れるようなシステム設計がないとダメで、一番変えなきゃいけないのは部活動だろう、という話でした。

教育関係に縁のない方用に補足しておけば、学校の先生というは本当に大変な職業です。生徒だけでなく保護者とか地域住民の人にも対応しなくてはなりませんし、残業代が支払われず、部活で土日出勤、しかもその分の給料はスズメの涙しか出ないという、「やりがい搾取の見本です」みたいな職業と化しています。

けっこう危機的な状況です。しかし、まだまだ根本的な改革みたいなものは行われそうにもありません。GIGAスクールとか言って各学校にデバイスを供給する前に、そのお金で先生にちゃんとお給料を払った方がいいと思うんですが……。

まずは部活動、なくなるといいですね。







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