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#171 ブラックであったとしても、塾講師ではなく学校教員を続ける理由

「自主」と「放任」の取り違えが起こっている

勤務校は進学校であり、
生活面は生徒の自主性に任せ、
教員は学習指導に力を入れれば良い
という風潮があります。

本来は、生活面でも学習面でも、
生徒の自主性を高める支援ができなければ、
学校教員である資格はないのです。

先日、校長と面談を行いました。

本校が自主・自立を掲げながらも、
内実は生徒が単に気ままに生活し、
結局は易きに流れる結果となっていることを
嘆いていました。

シンプルに言えば、
「支援」せずに「放任」しているだけなのです。

解決策はシンプルです。

一つひとつの指導に明確な理由を持ち、
それを生徒に説明することです。

多くの学校(社会も同様ですが)は、
目的を達成するために、
様々な規則を設けます。

教員は、学校に存在する様々な規則について、
本当にその規則が必要なのか、
どのような目的を持って設定されているのか、
その理由付けが、
自分の言葉で説明できるかどうか、
考え抜かなければなりません。

考え抜いた上で、必要だと判断したのであれば、
ようやくそこで生徒に指導することができる。

僕たちは、学校生活における一挙手一投足において、
生徒にその意味をきちんと語れなければなりません。

考え抜いた結果を、
真摯に生徒に説明するからこそ、
響く指導が可能なのです。

だから、生徒にも、
その規則や行動の意味をよく考えて、
必要か不必要かを判断してほしい、
と求めることができるのです。

そして、ある規則が不必要であれば、
廃止するに足る根拠を、もしくは改善策を、
きちんとした具体例や理由を持って説明してほしい。
そして、自分たちの考えに沿って行動してほしい、
と求めることができるのです。

もちろん、そのやり方を生徒任せにはしない。
必要な手順や考え方を手ほどきする。支援する。

ここまでの一連の流れが、
本当の意味で、
生徒の「自主・自立」を支援する指導なのです。

「自主」を育てる指導の具体例

生徒とのやりとりを具体例としてあげましょう。

人によってはくだらないやり取りに思えるかもしれませんが、
思考力を育て、自主・自立を促すやりとりだと考えます。

本校では清掃の際に、
体操服やジャージに着替えて活動に臨むよう、
規則を定めています。

月が改まり、私の清掃担当箇所へ来た生徒が、
制服のまま清掃に取り組むことが続きました。

そこで僕は、
「なぜ着替えないのでしょうか?」
と質問をしました。

するとその生徒は、
「体操服を忘れてしまったから」
と答えました。

「ジャージを持っていないのですか?」と聞くと、
「ジャージは持っている」と答えました。

「では、なぜジャージを着ないのですか?」
と質問をすると、
「肌着の上からジャージを着なければならないのですか?」
と聞き返されました。

「体操服がないのであれば、
ブラウスの上からジャージを着るのではいけないのでしょうか?」
と、僕は聞き返しました。

すると彼女はこう答えました。
「ジャージはブラウスの上に来てはいけない規則ですよね」と。

そこで、僕はこう聞きました。
「では、清掃の際に着替える必要性は何でしょうか?」と。

彼女は答えます。
「汚れないようにするためです」と。

「であれば、
ブラウスの上にジャージを着る説明がつくと考えませんか?」
と話したところ、
彼女は「考えが至らなかった」と答えました。

長々とやりとりを書きましたが、
お伝えしたかったのは、
生徒が、規則の存在する意味を考えようとしていないので、
規則にとらわれて生活してしまっている実態です。

これでは思考力も、
自主・自立の姿勢も育たないのです。

「清掃の際に着替える」という規則に対して、
その「目的」をきちんと考えることができれば、
規則に縛られる行動は不要なのです。

時間を惜しまず「対話」することの大切さ

良い機会なので、
僕はこの規則がある理由を、
僕なりの考え方をもとに説明しました。

「もしも制服が汚れたら、
制服を洗ったり、
クリーニングに出したりする費用や手間は、
誰が持つのだろうか。

万が一制服が切れてしまったとしたら、
誰が買い換えるのだろうか。

あなたが責任を持てるのであれば、
この規則はいらないのです。

しかし、責任を持てない立場であるならば、
親御さんの負担を考慮し、
この規則を維持する必要性があると考えています」と。

これが指導の前提となる説明です。

そしてこのように時間をかけて、
きちんと対話しない限り、
生徒の自主性の根っこは育ちません。

学校や教員の求める目的を理解した上で、
よりよい在り方を考え、実行する。

これが、思考力であり、
自主・自立の姿勢なのです。

僕が学校教員を続ける理由

繰り返しますが、
「放任」では、自主・自立の精神は育ちません。

教員が、自分自身の行動一つひとつに理由を持つからこそ、
責任のある行動がとれる。

その姿を率先して生徒に見せ、説明し、
その上で、生徒にも考えさせる。

その思考の結果がどんなに幼稚なものであっても、
きちんと対話を続け、
教員自身の考えをさらに伝える。

そしてまた生徒にも考えさせる。
その結果、規則や活動が変わっていく。

この一連のサイクルを、
教員の支援なく、
生徒たち同士が行えるようになること。

これが本当の意味での、
「自主・自立」なのです。

そしてこれらのかかわりは、
学習指導の場面だけでは不十分です。
学校での様々な生活場面全体を通して、
支援する必要がある。

だから僕は、
例え世間からブラックだと言われたとしても、
塾講師ではなく、
学校教員でありたいのです。

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