見出し画像

69歳になりました。ちょっと長いかもしれませんが、今の気分を。

50年前。大学1年生の思い出。イスパニア語購読担当で、厳しいとの定評があったManuel Díez先生。木曜の1時間目だったと思うが、当時学内の学生寮に住んでいた僕にも雷が落ちる。多分徹夜マージャンなんかで2週続けて授業をさぼって寝ていたら、突然Díez先生が寮の僕の部屋に乱入してきて「今度休んだら、単位出さない」と厳しいお言葉!その後は、とにかく休まないようにして、無事単位は取れた。そのDíez先生が「Feliz Cumpleaños(誕生日おめでとう)」とか言いながら、僕にプレゼントを渡すではないか?本当に驚いた。その後、そのことについて少し話すと、Díez先生「今日はコロンブスデイ(スペインや中南米諸国では別の様々な呼び方がある)で、おまけに私が日本にイエズス会の神父として初めて来日した日。その日が誕生日の君には親しみを感じる」と言うではないか!実は、歴史が超苦手の僕は、スペインと中南米の歴史の入門科目は履修していたのだが、今日がその日ということは全く理解していなくて、それ以来(1492年)10月12日がコロンブスがアメリカ大陸を発見した日だということを忘れないでいる。(発見という言い方はスペイン側の都合で、化学物質のような言い方をされるのを嫌う中南米側では「出会い」とか「到着」とか、いろんな言い方で呼ばれる)

まあ、イスパニア語(普通はスペイン語と言う)を専門にする大学に入学した時は、その言語が世界中の21か国とアメリカ合衆国のヒスパニックも含め5億人を超える(当時は3億くらいと言われていた)ネイティブを抱える言葉だなんて、全然知らなかった!専攻にした動機は、高校時代にアメリカ留学の試験に不合格になり「英語は止めたぁ~」の気分で、他の外国語なら何でもいいやという感じで、受験したのも様々!たまたま授業料を払うのが早い(慶応とは早稲田は2月下旬だった)上智とICUの両方に合格し、その時点で上智に払ってしまい、おまけに本命と勝手に思っていた高嶺の花の西のほうの都にある旧帝大には受かるはずもなく、成り行きで上智に入学することになった。

この間の事情については、過去のnoteの次の記事に書いたので、お時間のある方は、読んでいただきたい。

あの日から50年過ぎたのかと思うと、来年の70歳の区切りより(そこまで行けそうな気がしてきたが)この69歳の日に感慨深いものがある。

実は、まだ大学教授として現役である(定年は70歳で、約1年半後)。勤務している大学には「選択定年制」というのがあり、本来の定年より5年早く辞めると退職金が5割増し、4年早くなら4割増しというような、まあ団塊とその後の多くのロートルは早く去って、若い先生を採用するための制度であるが、僕も真剣に検討していて、66歳で選択する予定であったが、人事の都合(欠員の補充その他)で結局70歳まで勤めることになってしまった!

何故選択定年制で早期退職を真剣に考えていたのか?もちろん、経済的に何とかなる(ローンなどがなく、持ち家があり、退職金、年金など条件)ことも条件だけど(それを満たせないで一生懸命働いている方には申し訳ないが)、自由な時間が欲しいというのが本当の理由である。

僕は小学生の時に、ひょっとしたら死ぬかもしれないという事故とその後遺症に苦しめられたおかげで、とにかくいつ死ぬかわからないので、やりたいように生きようと子供心に思っていた。この時のことは次の雑文に書いたので、これもお時間があれば読んでいただきたい。

本当に運よく大学教員としての人生を歩み、結婚もして、子供にも恵まれ、1戸建ての持ち家に(レクサスにも乗っている:笑!)なんてのは、小学校~大学までの悪友には「ひょっとしたらお前は塀の内側にいるかもしれないと思っていたのにまさか大学教授なんて」と言われそうな僕がこの年(60歳くらいからかな?)になって思うようになったのは、本当に自由な時間が欲しいということであった。教えること、勉強することが嫌いになったのではなく(まあ気力は衰えたが)、仕事と言う縛りのない、本当に起きてから寝るまで自由に過ごす(もちろん休日にはそうしているが)日々が続くと言うのはどういう感じなんだろうかと経験してみたいと思うようになったからである。そこには、スペインの西海岸(カディスあたりがいいなあ)に小さなマンション(ちょっと良いので10万ユーロくらいだが円安が痛い)を買って1年の半分くらい過ごす、これは今となってはかなり不可能だが、スペインの南部の都市で意のある若者に出資して「焼き鳥屋」をやって、その店の端っこのほうでちびちび飲みながら暮らす(今でも宝くじでも当たったら実行に移したい:結構どうやればよいか研究した!)、これも今となっては体力的にちょっと無理だが、多くのおばさんたちがやっているように毎日朝から晩までスポーツクラブで過ごすなんてのをやりたいなど、多くのやりたいことがあって、その期間もなんとか2年は欲しいな(上に書いたように多分60歳過ぎあたりから)と思うようになっていた。

逆に言うと、「在職中に死にたくない」ということである。葬式だけはちょっと大きくなるかもだけど、そんなのは死んだ本人には関係ない!酒が好きで、循環器系の持病もあり、ちょっと(かなりか?)肥満なので、いつ倒れてもおかしくないのに、齢を重ね間もなく70歳。いくつまで生きられるかは、まさしく「神のみぞ知る」であるが、過去の行状・病歴などから考えても80歳までは無理そうで、場合によっては生きていても体に不自由が生じる可能性もあるので、健康で動ける自由な時間が2年くらいは欲しいということでの選択定年制の検討であったのだが、それも今となっては無駄になってしまい、ついに間もなく仕事を辞める最終年度に入ることになってしまった。なので、せめて72歳くらいまでは健康でいたいなあと言うのが切実な願望である。

これは、別のところでも書いたが、宗教は「どうやって死を迎えるか」の心の整理をするためのものだと思っている。なので、死後の世界なんてことは、いくら説かれようが、僕には意味のないことで、死ぬまでの日常の生活をそれぞれの宗教的立場で導いていくものだと思っている。だから、これからも真面目に頑張るので(笑!)、上に書いたお願いだけは叶えて欲しいと思うこの頃である。

18歳で大学入学のため実家のある名古屋を出て、東京で暮らすようになってから、オーバードクター期間を含め東京で14年、最初の専任講師としての任地の佐世保で3年、福岡に移ってもうすでに人生最長の33年半(一瞬分からなくなるなあ:平成元年から福岡)で、人生の半分近くを福岡で過ごしてきたが、名古屋の実家マンションには母が92歳で一人暮らし(嫁いで近くにいる妹がずっと面倒を見てくれている)だが、その妹も64歳。おかげで母は認知症の気配なく、腰が少し弱くなって少しだけ支えが必要だが、まだ自力で歩けるなどは幸いなことなのだが、ここに来ての問題は、妹からも厳命されているように、逆縁を絶対にしないようにとのこと!和田秀樹先生が述べておられるように90歳はエリートなので(いくつまで生きられるかはわからないが、人生を全うしている)、まだまだ長生きする可能性があり、そのエリートを悲しませることはしないようにということである。父は61歳で亡くなり、そのとき母は55歳!母は父と結婚した21歳から先は一度も働いたことがない「永遠の専業主婦」なので、母が貰っている遺族年金(結構多いぞ)も、僕が毎月支払っている年金の掛け金(結構高いぞ)は母のために払っていると思えば高くないのだが、そっちのほう(逆縁の件)には段々自信がなくなってきたなあと。(先ほど母からもショートメッセ(なんとかスマホも使える)で「何歳になった」と尋ねられた!)

あと、一つだけ。これは別のところに書いたことだけど、僕は遺留分放棄している。母には多少なりとも財産があるが、これを今更欲しいなんてのは、人間じゃないと思う。妹とその旦那も良い方で(対馬の出身)、普段は妹がクルマで買い物や病院に連れて行ってくれて、妹が仕事で忙しい週末などは、自分の子供(母からは孫:その孫の女の子のほうに最近子供が生まれ、今は曾孫がいる)といっしょにドライブに連れて行ってくれたり、本当にあれこれしてくれていて、それは父が亡くなってから35年以上に亘るわけで、その間何もしていない僕は、遺産云々には関われないことは明白である。この件は、数年前に僕から提案して、母と妹夫婦も納得してくれて、司法書士に書類を作成してもらい、正式に裁判所(家裁かな)に申し立てして、受理されている。

などと、69歳を迎え、朝から3時間もかけて、この雑文を書いていたのである。今後ともよろしくお願いします。

続く




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?