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潮磯魚ノスタルジィ


わたしは日本海を眼前にした漁村の育ちである。
そこは完全なる田舎であり、遊園地や映画館はおろか、スーパーですら車を30分も走らせなければ目にすることはできない。
家の周辺には文字通り何もなかった。
それでもいつもそこに空気の如く、わたしからの一抹の感謝も享受することなく存在していたのは、ただただ海だった。

その海の匂いは、全くもって洒落てなかった。
港町にあるそれとは全く違うし、人が集まるようなビーチの香りでもない。
潮と磯と魚の匂い。あの匂いの構成物は、どうやってもそれらだった。
簡潔に漁港特有の匂いというやつなのだが、つまりわたしは、あれを空気として肺に入れて育ってきた。自分では気づかなかったけど、きっと髪や肌や服にもあの匂いがずっとまとわりついていたのだろう。




つい先日のお盆のこと。相模湾を横目にドライブをした。
この景色が故郷にある海浜道路と似かしかったこともあり、そのことに懐かしさを覚えた。まっすぐな道路と水平線が長く長く平行に続き、灼熱の陽射しに水面がとてもよく映えて。

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ちょうど小田原に差し掛かったところで、大きな道を外れた。
海の眼前まで行ってみたいと思ったから、わざと。
しばらく海に向かって進んでいくと、懐かしい気配に気がついた。

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漁港だ、と思った。この風景はああ、と。
防波堤の近くで釣りをする男たちの姿以外、そこには人っ気などまるでなかった。
市場は閉まっていたし、荒く響く声もない。車を降りて、ふと歩を進めた。開放的な外気に漂う磯の匂い。魚を狙った鴎が今にもひゅっと目の前を掠めていきそうな。小洒落た港町には決して存在し得ないこの匂い。間違いない。


視界の隅にふと、網が無造作に積み上げられているのが映った。こういう雑多で荒々しい感じこそが漁港。思わずその網を踏みしめに行った。
もちろん物珍しさなどではない。ただのノスタルジィ。

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網はぐちゃぐちゃに絡まって、そこにはゴミも加担していたから、お世辞にも何の美しさもなかった。そんなことは百も承知。わたしは漁港育ち。

されどこの網から醸し出されていた匂いこそ、郷愁そのものだった。
嗅覚の怖ろしいところは、時空を超えて瞬く間に記憶を連れてくること。
それは有無を言わせず直接的であり、仲介するものを何も持たない。嗅覚が連行してくる記憶というのはいつもこのように動物的で、手の施しようがないのだ。

まさか太平洋側の漁港で、こんなノスタルジィに遭遇するとは。
そうか、お盆だなと思ったのである。


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実家に着いて、車から降りた時と同じ匂い。
あそこで両親に育てられていた時には何とも思わなかった匂い。そもそもそんな匂いがあるとすら、あの時のわたしはロクに気がついてもいなかった。それが日常であり、空気そのものだったのだもの。

当たり前にいつもそこにあった、磯臭い海。あの海がある種の人々にとっての羨望であったと気づいたのは、郷里を遠く離れてからのことだった。
新鮮な魚、貝、海藻。当たり前に有り付けていたあの食材たちは全て、磯臭いあの海が生んでくれたものに他ならなかった。全部が当たり前で片付けられていたということに。




目の前にある当然に、人はこのようにして気づかない。
それでも帰省できなかった今年のお盆にあの匂いが嗅げたことを。
少なからず懐かしく、ありがたく思ったのだ。





ありがたく生命維持活動に使わせていただきます💋