見出し画像

わたしは他人を見に来たんじゃない、絵を見に来たんだ


昨日、川村記念美術館に行ってきた。

画像1

緑多き場所にある、閑静な佇まい。周囲には田んぼしかないような場所。広大な庭園と池を擁し、青々とした芝生がそこにあった。四季折々の、素朴な植物たちも。
しかし現在はコロナのために、入場に際しては予約が必須。庭園への入場は不可。美術館への入場は入替制。そのためか、開館後すぐの週末であったのに、人手はまばらだった。
おかげでわたしは、数多くの恩恵を受けることとなった。

人の少なさ。一枚の作品に対して、好きなだけ時間をそこに費やしていいほどの。
静寂。絶対的に人が少なかったため、そこに余計な音が加わる可能性も極めて低かったのだ。
集中。周囲に人の気配がないということが、美術鑑賞から受ける感銘を最大限に引き出す条件ではなかろうか。

大きな有名美術館。特に都内のそれにおいて、多額の宣伝費が使われた匂いのする展示に行けば、必ずぶち当たる障壁がある。
作品が見えないことと、多すぎる鑑賞者だ。

こういった展示に幾度か足を運んだことがあるが、その度に疲労して帰ってきた。ゴッホやルノワールやフェルメールどころではなくなるのだ。人の頭や姿で、肝心な作品も断片的にしか見えないのだ。全貌が見たいなら人だかりを掻い潜るか、辛抱強くそこでタイミングを見計らうしかない。

このことに対して、わたしはいつも失望していた。
どうして美術館に来てまで、雑踏の中で作品を鑑賞しなくてはならないのだ?

画像2

わたしのそのかねてからの疑問を、昨日は一切感じることがなかった。
雑踏も雑音も、そこには無かったからだ。どれだけ作品の前にいても、後の人を気にせずに済んだからだ。他人がそこを去るタイミングを見計う必要がなかったからだ。必然的に、観賞後の疲労も皆無だった。心地の良い刺激を手に入れた充足感しかなかった。


これが、美術鑑賞の本当ではないのか?
わたしは強くそう思った。


美術館に行って疲れて帰ってくるのは、そこが広くて見るべきものが沢山あるからというだけではない。そこにいる人が多すぎるのだ。入場の際ですら、列に並ばなくてはならない。見たいものを見るために、他人の動きを気にしなくてはならない。鑑賞のためになされる手間と配慮が多すぎるのだ。

不謹慎かもしれないが、わたしはこう思う。
ずっとこのように、予約制の入れ替え制にすればいいと。入場する人員だって、制限すればいい。
しかしそれを阻むのが算盤だということも分かっている。コストを上回る利益を出さなければ、ビジネスは成り立たないのだ。

その世知辛さの中でも、わたしは願う。
お金を払ってまでもそこに足を運ぶ人たちに、多忙の合間を縫ってまでもそこに行こうとする人たちに、静寂を。本当の意味での、鑑賞の悦を。
作品の知名度より大事なのは、鑑賞に相応しき環境なのだ。






ありがたく生命維持活動に使わせていただきます💋