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#10 言葉が遅かった息子のことと、じぶんの気持ち

最近、ふと。息子が年少だった頃の動画を見つけた。微笑ましい気持ちというより、ごめんね、という気持ちで見ていた。

動画に映っている息子は、お話がほとんどできていない。息子は、言葉が遅かった。入園した時に、我が子と他の子の違いを突きつけられた。

義母は「〇〇(夫)も言葉が遅かったから、心配いらないよ」と励ましてくれていた。(後で聞けば、本当はとても心配だったらしい)そして母は「あんたがもっと集まりに出かけていったらいいんじゃない」こんな言葉だったか忘れたけれど、母親の私がもっと頑張らないと、と言われているようで、地味に傷ついた記憶がある。助けてもらいたい人に助けてもらえない感覚。

よく電車の中で、3歳くらいの子が、お母さんとそれなりの会話を交わしている姿を見かける。お母さんはこどもの気持ちがわかっていいな、こどもは自分の気持ちが伝わっていいだろうなあ。

今でも息子が年少だった時期を思い出すと、胸がキューっとなる。布団でも被ってどこかに隠れてしまいたくなる。仕事も子育ても追い詰めてしまった苦しい時だった。

言葉が出ない息子は、自分の気持ちをうまく伝えられず、ただただ私を引っ張ったり、知っている表現で伝えるしかなかった。そして、その表現が理解されない。これは本当に辛かっただろうなと思う。

”あと数年もすれば、お話しできるようになるから。お母さん心配しないで過ごしてごらん”

未来がわかる神様からの言葉でもあれば、それを信じて、のびのびとこどもと向き合えたのかもしれないけれど。


小学1年生になっても、自分が伝えたいこと、相手が言っていることの理解に時間がかかり、一斉指示に戸惑い、よく泣いてしまうこともあったようだった。それが、団体生活のなかで多くの言葉を浴び、徐々に言葉を獲得していった。

いま、9歳になった息子。たわいもない会話ができるようになっている。「あのお店のたい焼きお母さん好きなんだよね」と言えば、言葉の意味を理解して「ぼくも好き、今度また行こうね、いつ行く?」と返してくれる。

言葉が遅かった時期があったからこそ、あたりまえすぎるやりとりにいちいち感激してしまう。なんて幸せな時間なのだろう。その気持ちをじんわりと感じながら、隣どうし、前を向いて歩いている。

こどもを信じる、親側の練習は、これからもつづく。


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