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【小説】ひとりぼっち記念日

こんな時間にコーヒーなんて飲んだら眠れなくなるかもしれない。そう思いながらも動かしはじめた手は止まらなかった。しばらくすると部屋中に香ばしい匂いが立ち込める。私はこの匂いがたまらなく好きだ。
コポコポと音を立てながら少しずつコーヒーができていくのを何をするでもなく眺める。ゆっくりと、しかし確実に水だった液体がコーヒーになっていく。まるで錬金術みたいだなどと思っている間にマグカップ一杯分のコーヒーが出来上がっていた。

今夜くらい眠らなくてもいいや。どうせ明日も休日だ。予定もないので寝坊する心配もない。こぼさないよう、慎重にそっと注ぐ。戸棚の中からお茶請け用のお菓子も出してきた。小さくて素朴な優しい味のするお気に入りのビスケット。食べるのは特別な時だけと決めている。そして今日は特別と呼ぶのにふさわしい日だ。
土曜日の夜、1人きりのティーパーティーはこうして始まった。

半年前、ありふれた理由で恋人と別れて以来、この部屋でずっと1人で暮らしている。1人で過ごすには少々広すぎるこの部屋での生活も、今ではすっかり慣れた。期限のない同棲生活は周囲の結婚ラッシュという現実から目を逸らすには十分だったが、見たくないものまで見えてしまう弊害も孕んでいた。結局のところ、私たちはお互いの見たいところだけ見ようとして、何一つ向き合おうとしなかったのだ。別れ話の時でさえ、本音を隠して笑顔を作ってしまうような、そんな関係性だった。遅かれ早かれ同じ結果になっていただろうから、別れて正解。慰めてくれた友人らが口を揃えてそう言うので、それほど引きずることなく淡々と日々を過ごしている。時々夢に出てくることがあるが、その程度だ。

元々結婚願望が強かったわけでもない。このまま1人で過ごすのも悪くないなと考えていた。しかし20代後半ともなると、結婚をしないことにもっともらしい理由が必要になる。理由がなければ結婚願望があるとみなされ、結婚できない人とされてしまうのだ。しないとできないでは雲泥の差だ。自立して生きていくだけの力を持っていても、そこには大した価値もなく、人間的に難ありと烙印を押されたような扱いを受けることも少なくない。挙げ句の果てには服装や立ち振る舞いのダメ出しを事細かにされ、だから結婚できないんだとありがた(迷惑)すぎるお言葉をいただくこともあるのだから生きづらい世の中になったものだ。結婚したらしたで子どもは?と聞かれ、1人産んだら2人目は?と延々と続いていくのだからきりがない。もううんざりという気持ちでいながらも、笑顔でそれらしい言葉を返すのが上手くなっていく自分が恐ろしくもあった。

半分やけになっていたんだと思う。
普通のルートに乗れない自分と、乗せようとする周囲に嫌気がさしていた。もう放っておいてほしい。そんな気持ちで電話帳の連絡先を全て消した。SNSもアカウントを消してログアウトし、これまでの繋がりを完全に絶ったのがつい数時間前の出来事。そう、今日は私にとってひとりぼっち記念日なのだ。重要なのは、決して孤独なのではないということ。自ら希望してひとりぼっちになったのだから、晴れて自由の身というわけだ。もう誰からも余計な詮索されないし、笑顔をはりつけて受け答えする必要もない。もっと他にやりようがあったのかもしれないが、そんなことを考える余裕はなかった。

カップのコーヒーを半分ほど飲んだところで、着信に気づいた。知らない番号からだ。いや、知っていたのかもしれないが、誰なのかもう分からない。履歴を消そうとして間違えて発信ボタンを押してしまった。慌てて切ったが相手にはもう届いていたのだろう。再び同じ番号からの着信を知らせる画面が表示された。
出るか出らざるべきか。数秒迷ったのち、応答のボタンを押した。
「…はい」
「あ、よかった。通じた。急にアカウント消えてるから何かあったのかと思って」

声の主は幼なじみだった。彼女は高校卒業後、地元で働きながら20歳という若さで結婚し、今は二児の母だ。生活スタイルが異なることもあって、最近は連絡を取り合うこともほとんどなかったが、SNSだけは繋がっていた。どうやら突然アカウントを消した私を心配して連絡をくれたらしい。
「あ…、えっと…ごめん」
「え、なんで謝るの?何かあったんでしょ」
「いや、そうなんだけどでも…」
「そういうとこ、あるよね。何かあったらすぐいなくなろうとするでしょ。人に言わずに。小さい時から変わらないからすぐわかった」
「え…?そんなことあったっけ?」
「覚えてないの?ほら、小学生の頃。同じクラスの子の筆箱がなくなって濡れ衣着せられたことあったじゃん」
「あ、あった」
「あの時、絶対やってないのに疑われて。言い返せばいいのに逃げ出したでしょ。まぁ小学生だしすぐ見つかったんだけどさ。あの時なんで言い返さなかったの?」
「信じてくれないと思ったの。皆の目が怖くて。私じゃないって言っても信じてくれないと思った。だからもういいやと思って…」
言いかけて気づいた。本当だ、私あの時と同じことをしようとしていた。あの時も彼女は私のことを最初に見つけだして、最後まで信じてくれたんだった。それなのにまた誰も分かってくれないと決めつけて、こうして本気で気にかけてくれる人の存在を忘れていた。

「あの時と今とは状況も理由も違うんだろうけどさ、もう何も言わずにいなくなるのは嫌だからね」
「うん…ごめんね」
「だから、謝らなくていいってば。何かあったのはわかるし。それを言いたくないのも知ってるから」
「ごめ…いや、ありがとう…」
それから二言三言交わして電話をきった。
やっちゃったなぁ。空っぽになった電話帳を見つめる。今から復元するのはもう難しいかもしれない。バックアップもどこまで取っていたか忘れてしまった。まさか20年以上前と同じことをしようとしてるとは、我ながら情けない。でも、本当に連絡を取りたい人の番号はもう手元にあるし。まぁ、いいか。あとは少しずつ取り戻していけばいい。驚くほど気持ちはさっぱりしていた。

すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、立ち上がる。数時間だけのひとりぼっちとティーパーティーもこれにて終了。今ならカフェインに負けず気持ちよく眠れそうな気がする。私はきっともう、大丈夫だから。

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