見出し画像

冗長 [短編小説/SS]

一次創作の完全フィクションのSSです。5000文字くらい。出来は良くないけど納得できるものが書けたので公開しようと思います。


 プールの塩素みたいに湿った独特のにおいは消えずとも、空気の匂いが秋に変わってきて、私に与えられた夏休みも終わりを迎えてきた。
 物悲しさと倦怠感が頭を重くさせ、諦観する。鳥肌と胸騒ぎが止まらない。8月31日の午後4時半、心がざわついて、いても立ってもいられなくなった私は、親が残してくれたこのボロアパートの2階の部屋から飛び出し、風に身を任せたくなった。
 開閉する際いちいちキイキイと音を立てる建付けの悪いドアを勢いよく開けると、猛暑の日々と比べると乾燥していて肌寒く感じる風が吹き、晴れた青空に夕日の気配をかすかに感じた。あまり外に出るのは好きではないが、こうやって塞ぎ込んでいる時に外に少し足を動かしに行くと、さっきまで頭の中にあったすっきりとしないものたちを忘れられるのだ。無骨なコンクリート階段を下り道路に立つと、強い風が右から一時的に吹き、一枚の落ち葉が私の頬を引っぱたいた。
 家の南側の道を当てもなく歩いた。この辺は住宅地と自然が絶妙にマッチしていて、都心でありながらも四季を感じられる私のお気に入りな道でありながら、大嫌いな通学路でもある。明日からまたこの道を通らないといけないのが憂鬱で仕方ないのだが、道自体は自然を感じられて楽しいので好きなのだ。
 それにしても、今年は塩辛蜻蛉がよく飛んでいる。オス蜻蛉がメス蜻蛉を高速で回転しながら追い回し、私の目の前をよぎった。ふと足元を見ると、セミが腹を向けて倒れている。セミの脇で、どすっと足で音を立てても動かない。
 日が落ちるのが段々と早くなると人間こんなにも憂鬱になるものだ。私もセミみたいにこの夏限りの命が良かった、と昔親に話したら、ガキがババアみたいなこと言うな、と一蹴されたんだっけな。ちょうどこの時期の話だった。
 私はこの季節が嫌いだ。この季節は、私からして好ましくないことがよく起きる傾向がある。私の両親が離婚したのもこの時期だったし、母が消えたのもちょうど1年前の今頃だ。ついでに季節の変わり目だからか体調が悪いことが多い、肌寒くなってくることで夏を必死に生きていた虫や生き物が死ぬので身の回りで否応なく死を意識してしまう、そして私の大嫌いな学校が始まりやがる。
 この通り、夏の終わりは私にとって憂鬱になるようなことしか起こらない。こんなにも胸がざわつくのなら、猛暑の中じりじりと日に焼かれながら汗だくで突っ立っていた方が私にとっては幾分かましなものだ。考え出すと、夏の残り香も、秋の初めの空気の渇きも、何もなくなる。私はその瞬間何物でもなくなり、意識が別次元に吸い込まれる。

 親の事は過去の事なのでどうにもできないが、更につらいことと言ったら学校だ。
 私は自分自身に甘い性分なので、学校という人が多くて規律が厳しい場所が肌に合わない。集団行動が苦手であるがゆえにコミュニケーションがうまく取れなくて、友達ができた試しがない。学校に居ても誰も相手にしてくれなくてつまらないので小学生の頃はよくズル休みしては親に怒られていたが、学校に行くぐらいなら親に家でぶつくさと言われる方が私は良かった。
 私の居場所がどこにもない学校で目立たないようにじっとして皆から無視され過ごすよりは、仮病でも心配して仕事を休んで私に付き合ってくれる親と家にいる方が数百倍も幸福な時間だ。しかし、その親も、1年前の今頃消えてしまった。私の心の拠り所がなくなった今、私は本当に学校に通うエネルギーを失い、夏休みが終わってしまうことをセミの最期の叫びに重ねて感じるほどだ。
 親が消えたことで好都合なこともある。それは、学校にずる休みしても誰も私を怒らないことだ。しかしこの事実は時に私を悲しくもさせる。誰も私を咎めないと、私は本気で誰からもいないことにされている気がしてきて怒りが込み上げてきては途端に何かに殴られたかのような衝撃が脳内に起きて動けなくなってしまう。
 私は独りじゃないと言う人はいる。確かにその通りである。私は多くの人々に経済的に支えられながら生きている。学費、生活費を賄ってくれる親戚、法治国家に住む限りは習得せざるを得ない義務教育を最低限分かりやすく教えてくれる学校の先生方、大人たちが税金を納めてくれているおかげで私はこの国での生存権を得て、子供なりに普通に生活できている。
 でも、私は孤独感を感じている。嘘をつくのは良くない事と言われるので、ここでは正直に話してみる。こんなにも助けてもらっている身分で、感じてはいけない感情に揺さぶられているのである。私は自分のことを傲慢で駄目な人間だと思う。助けてもらっているから感謝の気持ちに満ちて生きないといけないのに、内側は不平不満ばかりだから、いつまで経っても恩知らずで幼稚な奴だ。同級生とは直接コミュニケーションを取ったり話を聞いたりする機会がない。私は話下手で、人とうまく関わる方法を知らない。何か話そうと思っても喉元で言葉が引っかかるし、他人に声をかけられたためしもない。
 私はつまらない人間だ。それは他人に言われるよりも数百倍私自身が自覚しているし、そこに踏み込まれるのも癪に障る。
 親からも似たようなことをよく言われた、何を考えているのかわからない、まるで大昔結婚していた旦那の様だ、と言われ、何故か頬をぶたれた。私の処世術の天才的な無さは父親譲りらしい。でも、両親は私が結構小さい頃に離婚しているので、私は父の記憶が皆無だ。離婚すると、母親が私を女手一つで育ててくれた。親は忙しさからか、楽しそうにしていることがあるにはあるが、普通の家庭と比べたらあまり無い方だった。あまり稼ぎが良いとは言えない職業だったが、朝は私よりも早く家を出て夜は遅くならずに帰ってきて、そんなに美味しくないがご飯を作ってくれた。たまに、焦げているけれど、早く帰ってきてクッキーやケーキを焼いてくれた。
 何をするにも不器用で抜けた行動の多い元関西人、そんな母親だったが、彼女はセンスが抜群に優れていたと思うし、私に対して愛情は確かに持っていたと思う。家から出る時に音楽プレーヤーを持ってくればよかった。今すぐ聞きたい曲がある。

 7歳のある雨の日の朝、雨でびしゃびしゃの道路とナメクジの轢死体に嫌気がさし、学校に行きたくなくて、初めて親に、おなかが痛いから親に学校休みたい、と嘘を伝えた。親は、しばらく黙ってしかめっ面をしたあと、仕事を休む旨を電話で会社に伝えた。
 伝え終わると、親は私の方をにっこりと振り返り、お前、ホンマは腹なんかちいっとも痛くないんやろ。お母さんわかっとるよ?まあええわ。今日は一緒に郊外の映画館にでも行こか。お母さんもな、ちょうどおなか痛うて会社行きたなかったんや。と言った。
 私はその時、親の雰囲気がぱっと明るくなるのが分かった。幼心から、大人も仕事が嫌なこともあるんだな、私から休むことを提案してよかった、と思って、自分で自分が誇らしくなった。郊外のショッピングモールに入っている映画館で、私が見たい映画を見ていい、と言われたので、早速私たちは支度をした。私は学校に普段着ていかないお洒落なワンピースを着てもいいか親に聞くと、喜んで出してくれた。親も張り切ってメイクをした。私は口紅を塗ってもいいか聞いた。それは大人になってからや、と一蹴された。
 軽に乗って、片道55分の贅沢旅行に行った。親は、道中は私は知らない曲ばかり流す。昔のアイドル曲や流行曲ばかりで、最近の曲はあまり流さない。だから私はいつも最近の曲かけて、とわがままを言っては、親に、うるさいこれ聞いとけ、と言われてまた親のチョイス曲を聞かされるというループを繰り返していた。
 しかしこの日は、毛色の違う曲が流れた。いつもは言葉が聞き取れる曲だが、今日は聞き取れない。私は不思議に思って、今日はいつもみたいな曲じゃないのか、と聞いた。親は、雨の日はヨウガク聞きとうなるんや、と静かに言った。
 ヨウガクは、私にはピンときた。言葉は全く分からないけど、この国の曲よりも雰囲気が違って、音の表現も様々だった。静かな曲もあれば、激しい曲もあって、ゆっくりな曲もあれば、テンポが一曲のうちにたくさん変わる曲もあって、聞いてて飽きないし、何より楽しい。私は、もっとヨウガク聞きたい、と親に頼んだ。親はこぞっておすすめの曲を流した。親はかけている曲のCDアルバムを私に寄越した。外国語で書いてあるので全く読めないが、これはグリーン・デイってパンクバンドだ、お母さんが大好きなアーティストの一人だよ、と教えてくれた。この人たちは何を歌っているのか聞いたが、母は頭がそんなに良くなかったので、今聞かれてもわからん、と言われた。
 私はその日ずっとヨウガクの衝撃と楽しさが頭から離れなくて、正直映画館についても何を観たのか全く思い出せないぐらいだった。
 親はそんな私を見て呆れていたが、そんなにヨウガク聞きたいならCD屋さん行こうか、と言ってモール内のCDショップに連れて行ってくれた。片っ端からヨウガクコーナーのヘッドホンを耳にかけて色んな曲を聞いた。音量がバグッているヘッドホンで耳をやられたが、むしろヨウガクは大音量で聴くと気持ちいいな、と親に言うと、あぁあんた変な所お父さんに似たのねー、と笑った。
 ショッピングモールを出ると雨は上がって夕暮を迎えていた。親は行きとは違うグリーン・デイのアルバムを流した。私にとっては群を抜いて衝撃の曲だった。アルバムに書いてある曲番から曲を特定し、運転で忙しい親にこれはなんて読むんだとせがんだ。親はちらっと曲名欄を見ると、「リダンダント」、と答えた。梅雨なのに、夏の終わりを感じる不思議な曲だった。
 それからすっかり私はヨウガク少女だった。相変わらず学校がつまらなかったものの、家に帰ったら母の持っているアルバムをたくさん聞けると思うと、学校に行ってやってもいいかな、と思えた。
 親が、歌詞の意味はネットで調べられると教えてくれたので、気になった曲は片っ端から検索をかけて意味を調べた。中には子供にはまだ理解しがたい内容の物もあったが、そういう時は親が帰ってきてから意味を聞いた。たまに、聞くと親が赤面することもあったが、今となっては私も悪いことしたな、と思えるようになった。
 いろんなジャンルのアーティストにハマった。MJ、The Beatles、Jassi J、Radiohead、レッチリ、ツェッペリン、Kraftwerkみたいなメジャーなものからメタル、パンク、オルタナティブ、ポップスから、ジャスティンビーバーみたいな洋楽の流行曲(ネットでジャスティン好きは音楽好きの端くれと言われていたが正直そこまで言わなくてもいいのではないかと思う、洋楽を聞き始めた人にとっては窓口みたいなものなわけだから。)まで、母が持っていたアルバムは全て聞いたし、アルバムが主流じゃなくなってくると10歳の誕生日プレゼントに母からもらった音楽プレーヤーを使い、ネットにつないで海外のラジオから洋楽を聞き通した。
 つまらない私の日常を、洋楽が刺激的にしてくれた。忙しくて平日にあまりゆっくりと話す事のなかった母とも、今日はこの曲を聞いたという話をすると、母の曲に対する思い出話や、アーティストのやらかし話などを教えてくれた。それを話している時の母の目はとても輝いていた。
 私は、洋楽の話をするのもそうだが、母が楽しそうな顔をしているのが一番うれしかった気がする。

 空はいつの間にか濃い青と淡いオレンジ色のグラデーションに変色していた。家々のダクトから夕食の匂いがしてくる。私も家に帰ったらご飯を炊かないと。
 「リダンダント」は、日本語訳すると冗長(ジョウチョウ)という。冗長とは、むだなことやだらだらとしたことを指す熟語だ。グリーン・デイのリダンダントは、いつも一緒にいる人と関係が上手くいかなくてどうにか話し合いをしたいが何を言えばいいのかわからない者の心の内を歌っている、と母は教えてくれた。母は、旦那と別れる時も頭の中でこれがずうっと流れてたんや、と言っていた。
 そんなこと言うてた母も、1年前の今頃、私に何も言わずにあのボロアパートから消えた。今でもなぜいなくなったのか誰もわからないし、時間が経った今となっては、母がいなくなってひどく寂しいという感情もないわけではないが、その大部分がどこかへ消えてしまったと思う。私は母から見て上手くいかない対象であったのだろうか。私は全くそうは思っていなかったのだが、なってしまったものは仕方がない、の一言で自身をいなしてみるも、やはり音楽がないと、上手くいかないものだ。孤独な人間には音楽がお似合いや、記憶の中の母はそう言って微笑んでいたのを思い出した。歩き出して1時間半は経っていて、すっかり環状線の2駅分は歩いていた。早く帰ってリダンダントが聞きたくなったので、私は走って家まで向かった。通学路まで戻ってくるとすっかり安心した。嫌いなのに。

明日からまた学校。夏の終わりが嫌いだ。信じていた親がいなくなった1年前からは特に嫌いになった。それでも、親が残してくれた洋楽の曲のことは嫌いになれなかった。むしろ心の拠り所がそれぐらいしかない。
 音楽プレーヤーで久しぶりにRedundantを流した。ぶっちゃけ、英語を習っていなかったあの頃はポップでもの悲しさのあるメロディーに合わせて何やら呪文を唱えているようにしか聞こえなかったが、中学生になり英語の成績トップの私にはこの曲の歌詞の意味がすんなりと聞き取れる。この曲の主人公は、実は私なんじゃないだろうか。つまらない話ばかりして何を言えばわからないが、本当はただ母に私に対する気持ちを引き留めていたかっただけなのかもしれない。大切なことだから、ありきたりな言葉で話せないし、だからと言ってなんていえばいいのかわからなくて黙り込んでばかり。だから私は親から拒絶されたんじゃないか。何一つ言わずに消えていった私の母。今頃何しているんだろうか。今更私は悲嘆に沈むことはありませんが、去年と変わらず明日学校をサボる理由をこねくり回しています。あなたは今何をこねくり回していますか。



 ご精読ありがとうございました。また良いのが作れたら投稿しようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?