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rockin’on 2024/5

「カートコバーン 没後30年」
表題に目を奪われた。モノクロの表紙と、鮮烈な赤で縁取られた文字。手に取るとずっしりと重たい。今月の、ロッキンオン。

捲って捲って、ひたすら読んだ。知っていた話も知らなかった話もあった。あのころの写真、あのころのインタビュー、歌、レコーディング、ドラッグ、アルバム。文字を追いかけているうちに何もかもがなだれ込んできて、もうだめだった。読み終わったあと、顔を上げて書店を見回すが、思考が完全に紙面に取り残されてしまっている。歩き出してエスカレーターに乗る、目の前の女子高生が楽しそうに話している、でも声が聞こえなくて、ただ口が動いて肩が揺れるのを見ている。そんな、現実味のないようなかんじに支配された。

だってもうカートコバーンはいない。1994年の春から、彼のいない世界が回り続けている。

私がカートコバーンを、というかニルヴァーナを知ったのは中学生のときくらいで、それもなんで知ったのか良く覚えていない。気づいたらアルバムを揃えていて(まあたった二冊だけど)、夜な夜なCDレコーダーに入れてヘッドホンを繋いで聴きながら眠った。ときどき、ラジオでニルヴァーナの曲が流れたりするとうれしかった。たいてい米軍基地に電波を合わせると、オアシスとかビートルズとかそれこそニルヴァーナとかの、私が好きなバンドが聴けることがあるのだ。

曲が好きで、音が好きで、声が好きで、ファッションが好きで。ニルヴァーナの、そのボーカルであるカートの、あらゆる部分を敬愛していた。でも、カートコバーンその人となると、どうも好きとは言い難い。だって、ハンサムだけどイカれてるし、ドラッグ中毒だし、死に方もすっごく怖いから。なんかの雑誌で見たカートの写真で、目がガン決まっててピースしているのがあるんだけど、それがもう怖かった。可愛らしくポーズを取っているのに、完全にラリってるだろ!っていう表情だから。どこかこの世のひとじゃない、死んだ人間がまだ生きたふりをしているみたいで、ぞっとした。なにか見てはいけないものを見ている気分だった。

でも、カートコバーンとは変な人なのだ。怖くて怖くて底知れなくて危険な香りがするのに、どうしても惹かれてしまう。声が聞きたくなる、顔を見たくなる、歌いたくなる、会いたくなる。
カートの歌を聴いていて、どんな瞬間であっても思うことがある。帰り道電車に揺られているときや、寝る前のしずけさの中や、カラオケボックスで友達の後に歌い出すとき。ニルヴァーナの曲が始まると、とたんにさみしくなる。さみしくて、目を閉じる。まぶたの裏でカートの声がふるえる。音も不安定に揺れる。彼がうたっている、とはっきり感じる。彼が全てを込めて歌っている。

今回のロッキングオンを読んで、悔しくて悔しくてたまらなかった。彼は小さなライブハウスで歌っているニルヴァーナでいたときが、一番楽しかったという。ネヴァーマインドのヒットが皮肉にも、少しずつ彼らを崩し始めた。ロックスターになることの弊害。いろんなしがらみに縛り付けられ、印を押され、世間からグランジという枠に縁取られ、苦しんでいた。やめられないドラッグに、入院して克服しようとしたこと、それでもやめられなかったこと。子どもが生まれて父になったこと、子どもが愛おしかったこと。
カートコバーンが、作って歌った曲に明確な意味はないだろう。でも彼の心の中の苦痛ややるせなさや孤独や、そういった生きていく中で耐え難いものたちが、聴いているうちに胸に迫る。さみしくなる。かなしくなる。だから響く。30年経っても、私たちの気持ちは同じだからだ。

カートの苦悩を全て知ったつもりにはならない。ロッキンオンだって、彼を汲み取れているのはほんのちょっとの欠片だけで、私たちはそれをもしかすると誇張されて突きつけられているのかもしれない。全てが正しいかと言われれば、わからないのだ。
苦しかったね、つらかったね、素晴らしかったね、と同調して肯定して、彼を手の届かない崇高なものにしてしまうのもいやだ。苦しいもつらいも私には何もわからない。彼の気持ちは、彼のもので、私のものじゃない。

ただ、私はあなたが死んだ未来に生きています。
あなたが死んだ10年後に産まれました。あなたの歌を聴いて泣いたりします。あなたの命日が誕生日です。
あなたに死んでほしくなかった。死んでほしくなかった。本当にわがままだけど、そう思う。
私が生まれてから死ぬまで、あなたのいない世界が回っていく。

カートの曲は今日もさみしい。


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