見出し画像

同じ穴のむじな(12)愚行

横山尚子と「化学実験」の実験パートナーを組んで三か月以上が過ぎた。
「最初の『アルミの陽極酸化』の実験な、あたしC判定やってん」
「おれ、Bもろたで」
「たしか、一緒に書いたやんなぁ。ほんで、いろいろ書き足して出し直して試問を受けたらAもろた」
「うそ、Aもろたん?おれ、まだいっこもAないで」
昼食の時に、学食でカレーライスを食いながらおれたちはそんな会話をしていた。
「あれって、ブリッジ回路を使ったやろ?」「うん」「未知の抵抗に陽極酸化物をつないで、ブリッジのバランスを取って、酸化被膜の厚さを推定するっていう趣旨を書かなあかんねん」「書いたで、おれ」
たしか、ホイートストンブリッジを改良したコールラウシュブリッジを使う意義とか試問で訊かれたな…
実験レポートを出して、口頭試問を受けてB判定以上を得なければ、この科目の単位はもらえない。
二回生になってまたおなじ実験を取らねばならない羽目になるのだ。
そうなると二回生で課される有機合成化学実験や物理化学実験にさらに取りこぼした化学実験が加わるので、まったく時間が足りなくなるのだ。
今日やっている「定性化学実験」は、教官から与えられた水溶液に含まれる金属元素(イオン)を当てるというクイズのような実験だった。
さまざまな試薬を加えて沈殿させたり、溶液の色を観察したりしてその金属元素を当てるのである。
もちろん正解しないと、レポートを書いても及第しないが、正解したからと言って、レポートや試問がずさんだとやはり及第しないのだった。
これはパートナー次第のところもあり、ふたりして及第すべきテーマである。
「あたしな、酸化銀の沈殿を分けて、その、ろ液のほうを湯本君にまかせるから、沈殿が鉛か銀かを判定するわ」
「ああ、わかった」
塩酸で白沈ができたのはおそらく銀だと思われるが、そこが落とし穴で、鉛でも同じ結果になるのだった。
だから、この白い沈殿に熱水をかけて、濾別し、ろ液に鉛イオンを移動させるのである。
つまり白沈には銀と鉛が含まれる可能性があるから、熱水に溶ける塩化鉛を沈殿から洗い流してやるのだ。
この時、白い沈殿がすべて熱水に溶けたら銀イオンは最初からなかったことになる。
おれが担当する最初のろ液には、銀と鉛が除かれたナトリウム、アルミニウム、カルシウム、鉄、銅、亜鉛が含まれることになるから、それを一つずつつぶして行かねばならない。
こういうことは、おれは好きな方だ。

「キップの装置がいるやろ?」
と尚子が言う。
「ああ、硫化水素を発生させるやつやな。ドラフトでやらなあかん」
「もう、先生が用意してくれてるみたいやし」
先生というか、院生が手伝って実験をしやすいように段取りをしてくれているのだった。
キップの装置で硫化水素ガスを発生させて、銀と鉛を除いたろ液(塩酸で酸性になっている)に通じると、銅が硫化銅になって沈殿するから、ろ液から銅を分離できるのだった。

「実験が終わったら図書館で、レポートのすり合わせをしよか?」と、おれが持ちかけた。
「ええよ。なんやったら晩御飯、また学食で食べていく?」
「そやなぁ。どうせ、どっかで食べるんやし」
「そうしような」
おれたちは、意気投合した。

その夕方、図書館でおれたちは今日の実験の結果を交換し合った。
「えっと、この結果やと、ナトリウムはなかったと」
「ああ、炎色反応がなかった」
「カルシウムイオンはどうやったん?」
「炭酸アンモニウムで沈殿にした。だから、カルシウムもあったんやと結論づけたで」
尚子はナトリウムが本当になかったのか、疑っているようだった。
ナトリウムイオンは沈殿を作れず、最後に残った溶液の炎色反応で判断するしかないからだった。
白金耳(はっきんじ)で何度か、おれは試みたけれど、ナトリウム特有の炎色は見られなかったのだ。

夜は学食で、おれも彼女も定食を頼んで、しっかり食った。
「食後、コーヒーでも飲む?おれ、おごるわ」
「いやぁ、ありがとぉ」
食券を買いに立つ。
コーヒーカップを盆にのせて、おれは戻ってきた。
「どう、独り暮らしは?」
尚子の方から、訊いてきた。
「ああ、もう慣れたわ」
「ごはんとか、自炊はしてんの?」「してへん」「外食かぁ」
ここや生協の食堂で夕飯を片付けることが多かった。
「横山さんは、いっつもまっすぐ家に帰るんか?」
「商店街をぶらぶらして、京阪に乗って帰るってとこかなぁ」
「彼氏とは待合せたりしぃひんの?」
「実はな、浪人してはんねん」「へぇ、どこ目指して?」「大阪大学…か、大阪府立大学らしいけど」
「ふぅん。やっぱり理系か?」
「そうみたい」
そう言って、尚子はコーヒーに口をつけた。
「あんまり会えへんね」
おれも、コーヒーをすすりながら、言った。
「じゃましたら悪いし、あたしは大学生やから、そんな話、聞かされるもの嫌やろし」
「むつかしねぇ」

おれたちは、一息つくと、家路につくことにした。
帰りは、彼女が京阪電車なので、おれの下宿と同じ方向だから、一緒に帰った。
「こうやって、湯本君と帰るのは初めてやねぇ」
「そうやなぁ。いっつも実験の日は一緒にいるのにな」
「湯本君は、彼女はいないの?」
「おるかいな」
「建築科の小西さんやったけ?つき合ってるんとちゃうの?」
「ううん…」「そっかぁ」
悪いことを尋ねたと思ったのか、尚子は黙ってしまった。
千林商店街の喧騒を抜けて、京阪電車の駅前に来た。
「おれんとこ、寄ってく?すぐそこなんやけど」
なんでそんなことを言ったんだろう?下心があったのか?
尚子は、
「まだ、八時になってへんもんな、ちょっとおじゃましよかしら?」
と言ってくれたのだった。
「汚いとこやけど」
「男の子の下宿って、興味あるやん」
と、いたずらっぽく笑う尚子だった。
五分も歩かないところに「玉藻荘」があった。
「うわ、すごいたたずまいやねぇ」
小西由紀もそうだったが、尚子も驚いている様子だった。
「昭和初期って感じやろ?」
「なんかね」
玄関に招じ入れて、スリッパを勧めた。
「ここやねん」
柏木氏の部屋は真っ暗で、岡本姉妹の部屋も夜の仕事なんで明かりは消えていた。
向かいのエロ作家の部屋はいつも真っ暗である。
「どうぞ」
暗い部屋に尚子を導くと、電灯を点けた。
とたんに、京阪電車がゴォーッと通り過ぎて行った。
「うわ、裏が京阪なんや。うるさない?」
「やかましいよぉ。蒲団、片付けてないけど」
「万年床やな。男くさぁ」
「そうか?匂うか?」
「座るとこあらへんがな」
「蒲団の上に座ってくれていいよ」
「そうお?」
ジーンズの膝を折って、尚子は座った。
「暑いな、窓開けるわ」
カーテンを引いて、窓だけ開けた。
心地よい、夜の風が入ってきて、クリーム色のカーテンをなびかせた。
「ええ風、あるやん」
「今日はな。いっつもむっとしてんねんで」
おれは冷蔵庫から、缶コーヒーを出して尚子に渡す。
「コーヒーばっかしで、すまんけど」「ありがと」
尚子が部屋を見回し、
「本棚も机もあるし、ちゃんと学生らしくしてるやん」
「まぁな」
おれも缶コーヒーを一口飲んで、うなずく。
「横山さんは、彼氏とは長いの?」
しばらく沈黙があって、
「高校三年になってから、むこうから告白されて…」
「ふぅん」
「あたしもうれしかったから、ひらかたパークとかにデートに行ったりして、遊んでばっかりやった」
「そんで、彼氏さんは浪人に?」
「まぁ、うちの高校から国立大学なんて夢のまた夢やもん、あたしらのせいやないよ…と、あいつは言うんやけど」
そう言って笑った。
「会えへんかったら、さみしいやろ?」
「そやねぇ。電話もこっちからは掛けへんことにしてるし」
「じゃ、かかってくる?」
「ううん。五月の連休にいっぺんかかってきたけど、模試があんまりでけんかったとか、元気なかったな」
「そんな話ばっかりやったら、おもろないよなぁ」
「湯本君と、こうやって話してたら、楽しいわ」
「そう?」
おれは、なんかうれしかった。
「あたしも、大学生活に慣れてきて、もうあんまりあいつのこと考えなくなってんねん」
そう、ぽつりと言うのだった。
その横顔は、どこか寂しげだった。
おれは、その頬に触れてしまった。
「え?」という顔をして、尚子が固まった。
おれはそのまま、明恵にしたように尚子のあごを手で支えて唇をゆっくり重ねた。
尚子は拒否しなかった。
おれは、蒲団の上に尚子を倒してさらに口を吸う。
あむ…
口を離し、おれたちは至近で見つめ合っている。
「湯本君…」
「なおこ…」
「なんで、こんなこと…」
「あかんか?おれでは」
「そんなこと…あたし…」
「もう彼氏のことなんか、忘れろや」
おれは、強気だった。
「そんな無茶苦茶な…湯本君って、強引なんやね」
「だんだん、尚子のことが、頭ん中でいっぱいになって…」
「うれしいけど、やっぱし…」
そういう尚子の豊かな胸をもみしだき、汗の浮いた額に唇を寄せる。
「や…めて…おねがい」
「あかんか?やっぱり」
「湯本君のこと、あたしも好きやよ。好きになろうと思ってる。そやから、今は、かんべんして」
「わかった…」
おれは嫌われることを恐れて、離れた。
「ごめんな。乱暴して」
「ううん。あたしこそ、雰囲気、壊してごめん」
「で、デートしてくれへん?」
おれは、ちゃんと順番を踏もうと申し込んだ。乱れた着衣を尚子が直しながら、
「ええよ。こんどの日曜日にどっか連れてって」
「わかった。予定しとく」
おれも答えた。
「このままやと、そこがかわいそうやね」
「え?」
尚子がおれのズボンの前を指さした。
「出していい?」
「あ、ああ」
尚子は慣れた手つきでジッパーを下ろし、すでに立ち上がっているペニスをまさぐった。
「彼氏にもしてたのかい?」
「みんなしてることやん」
と、悪びれずに、さも当然のようにトランクスの前開きから聳(そび)えさせた。
「しっかり立ってるやん。痛(いた)ないのん?」
「痛いことはない。でもめっちゃ敏感になってる」
「カッチカチやん。男の子はみんなこんななるなぁ」
「なおこちゃんは、男としたことあるんか?」
尚子はおれのペニスを軽く握って、手首を使ってしごきながら「そやったら、どうなん?」と潤んだ目で訊いてくる。
そして「あんたは、したことないのん?」と続けてくる。
「な、ない」
おれは嘘をついた。
「そやろなぁ」
尚子が、「ペッ」と唾を手のひらに吐いて、それをおれの亀頭に塗り広げてさらにしごいてくる。
なんなんや…この余裕は?
おれは、訝(いぶか)しんだ。
「こうしたら気持ちええって、彼が教えてくれたんや」
「おまえら、どこまでいってんね…」
「Cまで…」
Aがキッスで、Bがペッティング、Cがセックスだとは知っていた。
「ほ、ほんなら、今、しようや」
おれは、頭に血が上って、口走ってしまった。
「あかんよ。あ・か・ん」
そう言いながら、尚子がおれの鼻先をはじく。
まるで駄々っ子をなだめる母親のように。
「わるいけど、湯本君とは、まだ、そんな関係とちゃうやろ?今日の今日やで」
「ああ」
「あたし、そんなはしたない女とちゃうし。今日はこれだけで堪忍して。な」
尚子が手に力を込めて上下に激しくさすってきた。
「硬いし、おっきいなぁ」
そんなことまで言うのだった。
「もう、出てまう」
「ティッシュ…これか」
枕元のクリネックスの箱に手を伸ばし、右手はおれのをしごきながら用意する。
おれは尚子の汗ばんだ首筋に抱き着いて、射精に耐えた。
その汗の香りを嗅いでいると、もうだめだった。
「なおこっ!」
「うひゃっ」
びゅびゅっと。尚子が頭をよけた方向に白い塊が放物線を描いて飛んでいった。
「あ、あはぁ、なおこぉ」
尚子は、おれのしぼみつつあるペニスを乳を絞るように尿道をしごいて、最後の一滴を絞り出している。
それがくすぐったくて仕方がなかった。
「ぎょうさん(たくさん)でたやん。台所まで飛んでるわ」
「も、もうええから、離して」
「自分で、あとは拭き」
「ああ、ありがと」
おれはティッシュを取って隠すように拭き取りズボンの中に仕舞った。
「ちょっと手を洗わしてぇな」「ああ」

ハンカチで手を拭きながら尚子が台所から戻ってきた。
「ほな、デート楽しみにしてるし。あたし、そろそろ帰るわ」
「ああ、あしたにでも、また話しよ」
おれは立ち上がって、尚子を送り出そうとした。
ドアを開ける前に、またおれは尚子の唇を奪った。
「もう…」
「好きやから」
「わかったって。おやすみ」
そう言ってドアを自分で開けて出て行った。
「送るよ」
「送らんでええって」
尚子はスリッパを靴に履き替えて、そのまま振り返りもせずに出て行ってしまった。
おれは唇を舐めつつ見送っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?