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新自由主義と子供たち

私が手伝っている塾でも、最近「新自由主義」とか「新しい資本主義」という言葉が中学生たちの口に上ることが多くなった。
どうやら、岸田首相の所信表明演説を拾い読みしたらしい。なかなか意識の高いことで好ましいことだ。
「なおぼんセンセ、自由主義と資本主義って違うの?」A子が訊いてきた。
「まあ、同じとみてええやろね。資本は、お金やから、自由な仕事で、どんだけお金を稼いでもええというのが資本主義で、そやから自由主義なんや」と、一応は私も答えておく。
「ふぅん。あたしもそうやないかなぁと思っててん」とA子。
すると、B雄が、「でもな、そんなこと言うから、おいらビンボ人は暮らし向きがようならへんね」と、おっさんみたいな口を利くではないか。
私は、おかしくって笑ってしまう。
「B雄のとこも、お父さんがいはれへんから、お母さん大変やもんね」
「ほうよ。かというて、中国みたいなんは、いややな」
共産主義のことを言っているのか?
「中国のどこがいやなん?」「自由にものが言えへん」
なるほど、ちゃんとわかっているらしい。
「共産主義はあかんけど、社会主義は間違うてへんのやと、あたし思うようになってん」A子は、かなり詳しいらしい。そういう本を読み漁るお年頃なのかもしれない。
「おもしろいね。A子はどうしてそう思うんや」私は、水を向けてみた。
「社会主義はね、みんなが使うものを平等に負担して、いつでもだれでも使えるようにしてんねん」
「はぁ、なるほど、公共のものを応分負担でってわけやな」
「セーフティネットとかベーシックインカムも、だれでもそういう身分になる可能性があるわけやんか」「ふんふん。そやな」
「平等って、みんな立場が違うわけやし、おなじルールでゲームすると不利になる人もいるわけやんか」
訥々(とつとつ)と、A子が語り始めた。彼女なりにいろいろ考えたようだ。
「それは、あれか?運動会で勝ち負けにこだわらんように、同時にゴールさせるとか」B雄が口を挟む。
「うん、それも考えた。けどそうすると、おもしろないやん」「そやろ。ある程度は自己責任やで」
出た。自己責任論。
私は、内心、彼らの議論をおもしろがっていた。
「あのさ、今、リトルリーグの世界で、盗塁を禁止しようっていう議論が高まっているの知ってる?」
「ううん」B雄もA子もかぶりを振る。
「盗塁ってね、走者に有利でさ、一方的な試合運びになりがちなんよ。特に、力の差のあるチームでは、盗塁を決めると、弱いチームは悪送球やら、投手が慌てるやらで、大量点を奪われてね、戦意喪失っていうのか、もうやる気なくなるもんね。そこで最初から盗塁をできんようにしてしまおうっていう考えが浮上して、一方で、盗塁は野球のだいご味であり、盗塁命の脚自慢の選手もいるわけで、一概に禁止できないと反論も出てんのよ」
「ははぁ。自由主義と社会主義の折り合いやね」B雄がするどいところを突いてきた。
まさにそのことを私は言いたかったのだ。
弱いチームにやる気を無くさせないよう、野球のおもしろさを知らしめるために「盗塁禁止」を言い始めたのが「社会主義的発想」であり、盗塁したい選手にはさせるべきだと反論しているのが「自由主義的発想」なのである。
ではこの両者の発想の折り合いをどうつけたらよいのだろうか?
私は小学生の高学年の少しの間、リトルリーグに籍を置いていたことがあった。盗塁は、やはり一方的な試合運びになりやすかったことを記憶しているし、私たちのチームは10点以上の差をつけられて敗れたこともあった。
そうなると、私たちのチームメイトも「はよ試合をやめたい」とか言って、最後まで戦う気を失っている子も数人いたことも事実だった。
相手チームは調子に乗って、ホームスチールまで決める始末。うちのキャッチャーがサードに送球したのがサードが後逸してしまったからだ。

その思い出をB雄たちに語ると、おもしろがってくれた。
「で、どうしたらええと思う?」
「野球のルールとしては、盗塁はアリなんやから、禁止はでけんと思う。さっきの話、脚自慢の子はそれでしかチームに貢献でけんわけやから」
「あたしは、盗塁なしでも野球ってできるやんと思うんやけど。ハンデってゴルフでもあるやん」
「わかる。わかるけど、そうやなぁ…そや、こうしたらどうやろ。1,2塁間の盗塁だけ許して、2,3塁の盗塁を禁止するねん。ダブルスチールとかホームスチールはこれで禁じられるけど、キャチャーの2塁送球の技術は磨けるし、ランナーも俊足を見せれるやん」
私は、はたとひざを打った。
「じつは、あたしもB雄と同じことを考えてたんよ」「へぇ」
折衷案とは、着地点をみつけることなのだ。

自由主義で野球は成り立っている。
強いチームがいくら点を重ねようと、それは自由だ。
敗けた方は、力が及ばなかったからであり、ある意味、自己責任である。
しかし、プロではない少年野球の場合、教育的観点も必要であり、野球のおもしろさを、盗塁ということで失意させることは残念である。
とはいえ、盗塁をするスリリングな体験もまた、野球のおもしろさであり、それをまったく奪い去っても、野球を教える立場ではしたくないのだった。
攻守のはっきりした野球というスポーツは、盗塁もまたゲームなのである。
一方的に「禁止」と片付けられてしまうのは残念である。

それよりも今の中学生もなかなか世の中のことを見ているなと感心した。

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