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歴史ラン #私の忠臣蔵note整理箱(切腹から討ち入り前夜)

先日は、刃傷事件から田村屋敷移送までをまとめました。
このルートを歴史ランすると、約4㎞の道のり。
当時の情景を妄想しながらランニングを楽しむのも悪くはありません。

大手門から一ノ関藩田村屋敷までのルート

平川門から日比谷御門ルート(青線)
日比谷御門から田村屋敷まで(青線)

さて、
今日は、浅野内匠頭の切腹から吉良邸討ち入りまでの流れを、切り取ってみたいと思います。
超スピードでまとめます。

討ち入りまでの経緯を超スピードまとめ(備忘録)

一ノ関藩田村屋敷にて、浅野内匠頭の切腹が執り行われたのは、
1701年3月14日のPM18:00ころのこと。
その後、亡骸が泉岳寺に移されたのがPM22:00頃。
翌日の3月15日には、赤穂城は受け取りになります。
そして、浅野さんが幕府から預かっていた江戸屋敷もすべて引き渡されることに。
大石内蔵助が主君の起こした刃傷事件を知ったのが、3月19日。
その後、切腹の命を原惣右衛門が知らせるわけですが、原さんは、江戸から赤穂までを、4日半で走ったそうですね。
620㎞の険しい道のりを、昼夜問わず走り続けた原さんたち。
彼らの健脚ぶりにはあっぱれだ。

私が武士にコンディショニングするなら妄想

健脚と聞くとコンディショニングトレーナーの血が騒ぐ。
私たちが映画などで観る武士の姿は、すらっとした細身の姿が多い気がしますね。それに対して戦国大名となると腹がどっしり座った姿が多い。
身分階級によって、生活様式や栄養状態が大きく変わるためでしょうか。
原惣右衛門は、相当な健脚だったことを考えると、身の捌きがよくて、こなしが上手かったと想像します。
悪路を走るうえで、踏み込みが強すぎるとエネルギーロスが増します。
捌きを早くし、荷重を軽くすることでエネルギーロスを防ぎます。
摺り足に近い動きであれば、足関節・膝関節は太く強かったのではないかと想像します。
そうなると、股関節の可動域は、現代のランナーほど重要ではないのか。
動きの中で獲得していく身体操作能力の獲得ですね。
ちなみに、原惣右衛門といえば、討ち入り当日、屋根を超える際に落下して足を負傷した人物。
恐怖と気の高ぶりで、横隔膜が縮こまって動きが鈍ったか?
鋭い動きを実践するには、横隔膜の状態は良好にしておかないとダメ。
当日は雪が降っていたようなので、足を滑らせたのでしょうね。
横隔膜コンディショニングの重要性に関しては、今も昔も変わらないということですね。

事の流れに話を戻しましょう。

いよいよ討ち入りの決意へ

1701年 
  3月17日 鉄砲洲上屋敷引き渡し
  3月18日 赤坂中屋敷引き渡し
  3月22日 本所下屋敷引き渡し
  4月18日 赤穂城引き渡し
  8月19日 吉良邸が鍛冶橋から本所へ移転
この辺りから話の展開は広がりますね。城下にあった邸宅が、まだまだ発展途上の地に移転ということは。。。
12月25日 江戸強硬派からの派遣で)大高源吾・原惣右衛門が京都山科へ

1702年
  2月15日 山科会議
3月討ち入りを説得するも、内蔵助は大学の処遇決定まで待てとの結論に。
  7月18日 浅野大学のお預け決まる「閉門を赦免し、松平安芸守へお預け」
大石内蔵助は、その決定を7月24日に知ります。
  7月28日 円山会議
ここで討ち入りを決断します。
10月  7日 大石内蔵助が京都を出発
10月21日 箱根到着
箱根神社で祈願したあと、曽我兄弟の墓石を削って持ち帰ったらしい。
10月22日 鎌倉到着
10月26日 川崎宿到着
11月  5日 大石内蔵助らが江戸に入る
いよいよ決行の時が近づきます。

大石内蔵助は、日本橋石町(今の新日本橋駅界隈)に身を寄せていたそうです。赤穂浪士もそれぞれ、日本橋、麴町、芝、本所あたりに潜伏していたようですね。
12月  2日 深川会議
12月14日 本所の三ヵ所に集合して武装して討ち入り。
AM04:00ころ討ち入り、AM05:30ころ引き揚げ、AM09:00ころ泉岳寺に到着して墓前に報告に報告したそうですね。

超特急で流れをまとめてみました。
ここまでを歴史ランしてしまうと、東京から赤穂、京都へ走らないとならなくなるので、このパートは歴史のお勉強程度にとどめます。

明日は深川会議の地、門前仲町から吉良邸討ち入りまでのルートをまとめてみましょう。
歴史を勉強しながらのランニングは楽しい!

ご清聴ありがとうございました。

<参考資料>
東大教授がおしえる忠臣蔵図鑑 (二見書房) ほか

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