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歴史ラン #私の忠臣蔵note整理箱(刃傷から田村屋敷移送まで)

12月14日は赤穂事件のあった日。
ブイコンディショニングスタジオでは、毎月テーマを決めてランニングセッションを開催しています。
中でも好評なのが『江戸の史跡をめぐる歴史ランニング(江戸忠臣蔵ラン)』です。
スタジオ近くにある門前仲町では、『深川会議』が行われました。
吉良上野介の邸宅があったのは両国。
忠臣蔵にまつわる史跡が身近にあるため、木場スタジオを起点にテーマを決めてグループランニングを行っています。
今日は、忠臣蔵ランでめぐる史跡や事件の全体像を簡単にまとめてみます。

(※以下に記載する内容は、私個人の理解するものであり、事実と異なる場合がございますことご理解ください。)

刃傷事件発生!

1701年3月14日。
時は徳川綱吉の時代。

朝廷からの勅使饗応という大変重要な行事の最中、江戸城内松の廊下にて、刃傷事件が起こります。
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を切りつける事件。
とっても大切な日に、35歳の浅野さんが61歳の吉良さんを、切りつけちゃった事件。
どうやら、吉良さんの「かわいがり」の度が過ぎたのか、どうしても我慢できなかった浅野さんは、己を抑えることができず、切りつけてしまうのです。
時刻はAM11時ころのこと。

(刃傷事件に発展するまでの経緯は、所説あり)

切りつけ事件後、浅野さんは別室へ連行。
事情聴取を受け、PM15:00頃に一ノ関藩田村屋敷へ移送されます。
田村さん家は、今でいうところの新橋四丁目交差点あたり。
ここには「浅野内匠頭終焉の地の石碑」があります。

浅野内匠頭終焉の地

YONA YONA 新虎通り店の近く。
切腹最中の新正堂もこのあたり。
「忠臣蔵歴史ラン」の際に、必ず立ち寄る銘菓。
セッション中に頂く最中が最高においしい!
ランニングバックに入れてお土産する方もいます。

切腹最中 新正堂

移送ルートを見てみよう

浅野さんの移送ルートですが、
江戸城平川門を出て、大手御門前を通過し、八代洲河岸(今の日比谷通り)を日比谷御門に向けて進む。
桜田(今の晴海通り)に入り、愛宕下通から田村邸表門へ入るルートで移送された模様。
平川門は、東京メトロ東西線竹橋駅のあたり。
死者や罪人が通る不浄門でしたが、当時、生きてこの門を出たのは、浅野さんと江島生島事件の江島さんだけらしい。
日比谷御門はザ・ペニンシュラ東京の前。
日比谷公園に沿って進むわけですが、この周辺には大岡忠相(おおおか ただすけ)の屋敷もありました。
大岡忠相が江戸奉行に起用されたのが1717年なので、刃傷事件の16年後ということになりますね。

元禄時代は皇居ランができなかった

ふと気になる事が。
古地図を眺めていると、当時の江戸は皇居ランができなかった?
と言うのも、当時は半蔵堀に橋はなく、和田倉堀も堀だったので、皆さんがランニングを楽しむ皇居ランルートは、当時は走れなかったと想像します。
それよりも、日比谷界隈の大名屋敷を駆け回らなければならないこと、何より竹橋門と桜田門を通って城内に入らないとならないので、極めて困難でしょうし、当時の人たちは、健康のために走るという発想はなかったでしょうね。そもそも皇居という名は、1948年(昭和23年)からの呼ばれるようになりました。余談。

事の流れを時系列にみていきましょう

刃傷事件が起きたのがAM11:00頃
PM14:00頃、田村屋敷へお預かりが決まる。
PM15:00頃、田村屋敷へ移送。
将軍徳川綱吉から切腹の裁定が下り、幕府の検使三名が田村さんの家で将軍の命を伝えたのがPM16:00頃
そしてPM18:00頃に田村屋敷の庭先で切腹。
即日切腹という裁定の早さから、事の複雑さを感じます。

次の記事では、討ち入りまでの流れを超スピードで書きます。
そして、赤穂事件、忠義の報告へと続きます。

<参考文献>
東大教授がおしえる忠臣蔵図鑑 二見書房 ほか


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