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はじまりは一日の終わりに~モーツァルト弦楽四重奏曲第15番

こんにちはおはようございますこんばんは。

笠木颯太です。

先日、Iris Quartetの最初の演奏会が終了いたしました。ありがとうございました!

また事後録になってしまい申し訳無いのですが、今回演奏した曲についての話をまたしていきます。

第一弾はモーツァルトの弦楽四重奏曲第15番です。 



少年なりに感じた「哀しみ」

 僕がまだ小学生で、クラシック音楽をよく聴くようになってきたぐらいだった頃の話です。我が家にモーツァルトの生誕250年記念のベスト集みたいなCDがありまして、 それにハマっていた時代がありました。モーツァルトの音楽を聴くと心身に良いとはよく言われたものですが、少年時代の僕にもその現象が適用されていたようです。彼の作品はたくさんあるためそのベスト集もジャンル別に分かれてありました。その中の室内楽作品ベスト集のディスクの最後の曲として入っていたのが、この弦楽四重奏曲第15番の第1楽章でした。

 この曲を初めて聴いた時には「なんて哀しい音楽なんだ…」とまずは思いました。そのディスクにはアイネクライネナハトムジークやクラ5など、明るい曲やロマンチックな曲が並んでいただけに、このディスクの最後の曲となるのを惜しんでいるかのように感じていました。それだけではなく、モーツァルトのような古典時代の作曲家によくありがちな、アレグロ楽章の冒頭での明確なアーティキュレーションがこの曲の冒頭では行われず、むしろ足を引きずるような伴奏形で始まるため、余計このディスクが終わる哀しさを際立たせているように感じたのかもしれません。そのため、この音楽が流れると勝手に「あー今日も一日終わりそうだ」という気分になるのもきっと気のせいではなかったはずです。


モーツァルトらしくない?

 そんな風に出会った作品を9/3の演奏会ではオープニングとして演奏しました。この作品の他の楽章はこの演奏会でやることになった事をきっかけに詳しく知ることになるのですが、研究すればするほど、この作品が「いつものモーツァルトと違う」という事を感じるようになりました。
 
 モーツァルトの場合、短調である時点でいつものモーツァルトとは違うのですが、いつもだったら例えば交響曲第40番のように、短調であっても彼らしいキレのあるリズムが存在します。しかしこの作品は前述の通り、足を引きずるような伴奏形で幕を開けます。その他にも、この時代ではあまりやらないであろう3小節フレーズや唐突なリズムのズレなどが見受けられます。何より一番謎に感じたのは第4楽章のテンポです。この時代の終楽章といえば、第1楽章以上の快活さをもったテンポで行われるのが一般的かと思われます。しかしこの作品ではなんとシシリエンヌというなんとも中途半端な速さの踊りを用いた終楽章となっています。(まだその事実を知らなかった頃に、間違えて死と乙女の第4楽章と同じぐらいのテンポで個人譜読みをしてしまった(!)事も今では良い思い出です)モーツァルトの時代は、音楽のスタイルについて様々な実験が行われていたと言われています。このように他のモーツァルトの作品にはあまり見受けられない要素がたくさんある弦楽四重奏曲第15番も、そんな時代の中で行われたある種の実験的作品なのかもしれません。

 あ、ちなみに、今まで勝手にエンディング認識していたこの作品を9/3の演奏会ではオープニングで演奏したと前述しましたが、少年時代の認識はやはりどこかにこびりついていて、最初は少し違和感を感じました。しかし、例えば第1楽章を一日の終わりの時、第2楽章以降をその翌日のストーリーとするとこれはこれでまた面白い物語ができそうだと思うようになりました。なかなか他ではない場面がIrisを待ち受けていそうな、そんな気がしました。
「今までのは序章の序章、まだ僕らの物語は始まったばかりだ!」と言わんばかりの第4楽章のアーメン終止をもって、Irisシリーズは次回の投稿へ続けさせていただきます。

 

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