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出雲口伝と秘密結社(1)

国際金融資本家(アシュケナージ系ユダヤ人)たちが世界を牛耳っていて、お札=日本銀行券の肖像画は、フリーメーソンの関係者だと、ささやかれています。
ずっと、聖徳太子が、日本銀行券になんども登場するのは、なぜなんだろう、武内宿祢が登場するのは、なぜなんだろう、と疑問に思っていました。
今回の話は、『上宮太子と法隆寺』(斎木雲州著、大元出版)を読んで、思ったことを書いてみます。斎木雲州氏は、古代出雲王朝の東王家「富家」(向家)の伝承者「富當雄」(とみまさお)氏の息子です。

日本銀行券(武内宿祢、菅原道真、聖徳太子)

武内宿祢

日本銀行券(1889年発行)

一円のお札に登場しているのは、武内宿祢ですが、武内大臣とか書かれています。

武内宿祢はその地で、富家の姫を迎え奥方とした。子どもは出雲で育ち、富家の親族となった。
旧出雲王国では、出雲王家の姫を奥方に迎えた豪族が、王族と認められ、勾玉の首飾りを付けることが許された。
王族は苗字に、「」の尊称を付けることができた。だから出雲国風土記には、「」の付いた豪族名が多く書かれている。
以後は「宿祢」は使わないとの交換条件で、首飾りが与えられ、武内大田根は臣家を名のることになった。

『上宮太子と法隆寺』(斎木雲州著、大元出版)

そして、『日本神話とミトラス教』で記載したように、この一円札の武内宿祢も聖徳太子と同様に、フリジア帽をかぶっています。

菅原道真

日本銀行券(1888年発行)

『出雲と蘇我王国』(斎木雲州著、大元出版)に、出雲主王(大名持)の系図という資料が載っています。その中で、最後の出雲主王に二人の人物が記されているのですが、その一人が「菅原道真」となっています。
フリジア帽をかぶっています。
系図で気になったのは、初代の出雲主王の名が「菅(すが)之八耳[八箇(やつ)耳]と記載され、「菅原」という「菅(すが)」の付く姓が使われている点です。
また、系図の最後のもう一人の人物ですが、こちらは「毛利元就」となっています。
毛利元就と言えば、長州藩であり、明治維新で倒幕にかかわった薩長の片方の藩であるわけです。長州は、古代出雲王朝の東王家がかかわっていた、ということになるわけです。

聖徳太子

日本銀行券(1930年発行)

見出しの図の左端は、中宮寺の「弥勒半跏思惟像」です。
見出しの図の右端は、広隆寺の「弥勒半跏思惟像」です。

666OKサイン

どちらも、イルミナティの「666OKサイン」といわれるハンドサインをしているようにも見えます。また、ミロクというのは、3つの6=「666」ともみなせます。(これは、誰も指摘しないので、ただ言ってみただけです)

問題は、真ん中の図の、金の馬具を着けた馬に乗り、額に十字の冠をつけた人物です。『上宮太子と法隆寺』では、日置王(上塩冶築山古墳)と記されています。日置王は、上宮法王(聖徳太子)と推古女帝の娘(貝鮹皇女)の間にできた子で、兄に財王がいるとしています。

そして、以下のように記しています。

出雲王国が亡びたあと、出雲国造の権力横暴を防ぐ目的で、富家と郷戸家(注)両家の親族が秘密結社を作った。
財王と弟・日置王がその結社に加盟したので、その結社は「財筋(たからすじ)」と呼ばれた。
財王の子孫と日置氏も、後世まで財筋に所属していた

『上宮太子と法隆寺』(斎木雲州著、大元出版)
(注)郷戸家は、古代出雲王朝の西王家です。

鹿児島には「日置市」という市があります。島津家が、分家の日置島津家を置いて治めた地です。
この薩摩の「日置」の地が、聖徳太子の御子「日置王」とかかわりがある地で、古代出雲王朝の西王家がかかわっていたとしたら、明治維新は、秘密結社「財筋」によって引き起こされた、ということになるのでしょうか?

つづく、かも・・・


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