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短編小説 すみれさん

   すみれさん


                           森本 和子



 一人暮らしのすみれさんは、毎朝6時に起きる。定年を迎え、何もする当てなどないのだから、もうちょっとゆっくり寝ていればいいものを、生まれつきの働き者なので、それもできない。

「どれどれ、今日もいい天気ですこと」

 毎朝、起きるとすぐに公園に行くのが、このごろのすみれさんの日課になっている。

早朝の公園には、いろいろな人々が集まってくる。

小学4年生くらいの男の子は、毎日サッカーボールで一人もくもくと練習している。左右の脚や体全体を器用に動かしては、ボールを地面に落とさずにバウンドさせている。

すみれさんは器用な少年の脚の動きに見とれてしまい、ボールをバウンドさせる数をつい数えてしまう。少年が今までの最高記録である七十五回できた時、すみれさんは、思わず拍手してしまった。

毎日見ていたので、自分のことのようにうれしかったのだ。少年はびっくりして、すみれさんのほうを見たが、満足そうににっこりした。

「僕、勉っていうんだ。次の目標は八十回だよ」

「そう、それはすごいわね。頑張ってね。そうそう、私はすみれっていうのよ」

「ずいぶんかわいらしい名前なんだね」

「そうね。でも、生まれた時からおばあさんだったわけじゃないのよ」

「そりゃ、そうだね。おばあさんで生まれたらホラーだよ」

 すみれさんと勉君は、顔を見合わせて笑った。

 もう一角では、すみれさんと似たような年の人たちが、ゆったりと太極拳を舞っている。そこだけ空気がしんとしているような気がした。犬を連れて散歩に来るおしゃれな老紳士やマラソンをしている人たちもいる。早朝の公園では、それぞれが思い思いの時を過ごしている。毎日、毎日、すみれさんはベンチに座り、公園に来るみんなを眺めて、朝のひと時を過ごしていた。


 すみれさんの夫は、生まれつき体が弱く、あまり働けなかった。だから、すみれさんは、、夫に代わって働き、生計を担ってきた。毎日、会社の仕事、二人の子どもたちと夫の世話で、目の回るような忙しさだった。会社が終わると、夕飯の材料を買いにスーパーにより、家に着くと、エプロンをしめて、すぐに夕飯の支度に取りかかった。

 すみれさんの得意料理は、ロールキャベツとコロッケだった。どんなに忙しくても、手作りの食事を用意した。家族がおいしいと言ってくれるだけで、疲れがふっとんでしまった。

 やがて、二人の子どもは大きくなり、家を離れていった。定年になったら、夫の療養をかねて、「あちらこちらの温泉地をまわろうね」と、話をしていた。

 ところが、定年になる一年前に、長年連れ添った夫を病気で亡くした。すみれさんは、一人ぼっちになってしまった。それでも会社に行っているうちはまだよかった。こうして、定年になると、趣味など持つ余裕もなく働きづめだったすみれさんは、何をしていいかさっぱりわからなかった。楽しみにしていた温泉旅行だけれど、、夫のいない今、一人ぼっちで行く気にはなれなかった。何をする当てもなく、すみれさんは、ただ抜け殻のようになってい

た。


 ひょんなことから勉君とことばをかわすようになってから、すみれさんの心に明るい日が差したような気持になった。季節は春から夏に変わろうとしていた。太陽の日差しがだんだん強くなってきた。公園の木が、新緑色に輝いていた。

「みんな生きているんだ。私も生きたい。もう一度生き直してみたい」

 いつの間にか、すみれさんは、そう思うようになっていった。

「それにはまず足腰を鍛えなければ。そうだ。ジョギングを始めよう」

 すみれさんは早速スポーツ用品店に行った。そこでおしゃれなすみれ色のジョギングウエアを買った。シューズも同じすみれ色。思い立って美容院にも行き、髪を素敵にカットしてもらった。久しぶりに口紅をつけてみた。鏡をのぞくと、今までの自分と別の自分がいる。

「そうだ。バラの花束を買おう。自分のために。今日は私の二番目の誕生日だわ。今日から生き直す決心をした日ですもの」

 美容院の帰り花屋により、自分のために薔薇の花束を買った。薔薇の花束を持って歩いているだけで、心が弾んだ。


翌朝、いつものように朝6時に起きたすみれさんは、さっそくすみれ色の真新しいジョギングウエアに身を包んだ。公園までゆっくりジョギングしてみた。

「あら、私だって走れるじゃない」

 すると、いつも見慣れている景色なのに、全く別に見えた。木々の緑がいつもより青々として見えた。朝の空気もいつもより数倍おいしい。今日と昨日の違いに、すみれさんは、とても驚いた。

「心の持ち方ひとつでこんなに違って見えるなんて」

 いつもの公園についた。

「おばあちゃん、おはよう。今日は上から下まですみれ色だね」 

 サッカー少年の勉君が言った。

「今日から走ることにしたの。ゆっくりだけどね。もう、ぼんやりおばあちゃんは、やめることにしたの。これからは、勉君も、私のことをおばあちゃんって呼んではだめよ」

「じゃあ、なんて呼べばいいの?」

「そうねえ、すみれさんって呼んでちょうだい」

「うん、わかった。すみれさん」

「はい、よくできました」

 二人は、顔を見合わせて笑った。

 すみれさんは、公園の中をゆっくりジョギングした。ジョギングというより、散歩に毛が生えた程度だった。それでも新しい一歩を踏み出したのだ。

 すみれさんは、公園を一周すると、いつものベンチに腰をおろした。息は少し苦しかったが、周りの景色がまるで違って見えた。夏の光の中で輝いていた。そこに犬を連れた老紳士が通りかかった。

「おや、失礼ですが、いつもここに腰かけていらした方ですか?」

「はい、今日からジョギングを始めましたの」

「ほおう、そうですか。そのすみれ色のウエアがとてもよく似合っていますよ。そう、まるですみれの花のようですな」

「まあ、すみれの花のようだなんて。私の名前はすみれというのです。佐々木すみれと申します」

 すみれさんは、立ち上がって丁寧にお辞儀した。

「これは、これは。私は大槻源次郎と申します。ところで、すみれさん、私たち、年寄りは、いきなり走ってはいけませんよ。ゆっくり、ゆっくり始めませんとね。心臓に悪い。私は、医者ですから。運動を始める時は、ちゃんと血圧を測ってやらないといけませんよ。よかったら、いつでも私の医院に来てください。四丁目の大槻医院です。診て差し上げますよ」

「まあ、それは、それは。ご丁寧にありがとうございます」

 二人は、何度も何度も頭を下げあっていた。


 それから、すみれさんは、毎日、走った。少しずつ少しずつ、距離を伸ばしていった。走る距離が増えるにつれて、言葉を交わす人が増えていった。走っている者同士、「おはよう」とあいさつを交わすようになった。

「私は一人ぼっちじゃないんだ」

 そう思うと、体の中にふつふつと生きる力がみなぎってくる。

 走ることに慣れてくると、すみれさんは、急に何かしいと思うようになった。年金で自分一人くらい生きていけるけど、一日何もしないで過ごすのは、すみれさんにとって苦痛だった。

私にいったい何ができるだろうか。

 すみれさんは、今までの人生を振り返ってみた。

そうだ。コロッケやロールキャベツを作って売るのはどうだろうか。それなら、私にもできる。自分が作ったものを誰かがおいしいといって食べてくれたら、どんなにうれしいだろう。

 すみれさんは、さっそくお店を始める準備をした。走る距離も少しずつ伸びてきていた。すでに五キロは走れるようになっていた。その年の秋には、町の小さな健康マラソン大会に出場した。あくまで完走を目指して頑張った。走っていると時は、頭が真っ白になる。過去も未来もない。ただこの時を、命を輝かせて走るだけだ。

 大槻さんと勉君が、すみれさんの応援に来てくれた。

「すみれさん、やったじゃん。完走おめでとう」

「やあ、すみれさん。すごかったですね。でも、無理は禁物ですよ。マラソンもいいですけど、今度はダンスを始めてみませんか? こう見えても、私は長年やっているんですよ。よかったら、ぜひ、一緒にいかがですか?」

「まあ、私にダンスなんてできるかしら?」

「できますとも。私でよかったら、いつでも教えますよ」

「そうですか。じゃあ、やってみようかしら」

「帰りにみんなでお寿司でも食べていきませんか? 私にごちそうさせてください。勉君もいいだろう?」

「やったあ! 応援に来て得しちゃった」


 翌日、すみれさんは早速、ダンス教室に行く準備をした。すみれさんは、おしゃれしてデパートにお買い物に行った。ダンスウエアの売り場を見て驚いた。黒に金や銀の飾りをあしらったドレスや赤やピンクやイエローなどの派手なドレスが飾ってある。

おやまあ、こんな派手なドレスじゃあ、私に着られるわけないわ。やはり、私にはダンスは無理ね。

「いらっしゃいませ」

 すみれさんは諦めて帰ろうとしているところに年若い店員さんが現れた。自分が場違いなところにいるような気がして、恥ずかしかった。

「何かお探しですか?」

「いえね、ダンスを進められたものですからね」

「今はやっていますよね。特に中高年の方の間で」

「まあ、そうなんですか? 皆さん、こんな派手なものを着られるのですか?」

「ええ、そうです。それに派手なくらいな方が気持ちも若返ってかえっていいっておっしゃるんですよ」

「へえー、そうですか? でも、私にはとても……」

「お客様にお似合いのものがあります。ちょっと待っていてください」

 若い店員はお店の奥からすみれ色のドレスを持ってきた。

「これなんか、いかがですか?」

「まあ、とてもきれい。すみれ色って私の大好きな色なんです。私の名前はすみれっていうのよ」

 すみれさんは、にっこり微笑んだ。

「そうですか。それではこれは、お客様のためのドレスですよ。ご試着ください。きっとぴったりですよ」

 すみれさんは、その店で、すみれ色のドレスとシルバーのダンスシューズを買った。ダンスのレッスンンに行く日のことを考えただけでも、うきうきした。

 帰りにデパートのお総菜コーナーのチェックもしていった。ちょっとお行儀が悪いけど、試食品を食べ歩いた。それでお昼ごはんがいらないくらいお腹がいっぱいになってしまった。

 すみれさんは家に戻ってすぐに、すみれ色のドレスをもう一度着てみた。鏡に映る自分の姿を見て、自分ではないような気がした。こんなお姫様が着るようなドレスを着るなんて、まるで夢のようだ。

 すみれさんが結婚したのは、戦争が終わって間もなくのころのことだった。結婚式もお料理屋さんの二階を借りて、一番いい着物を着て、親族が集まって食事をして終わりだった。一番いい着物といっても、高価な着物はほとんど食べ物に変わっていた。

 それでも、二人寄り添って生きていこう、幸福になろうとの希望だけはあった。そこまで思い出すと、すみれさんの目から涙がぽたりと落ちた。

「あなた、私だけ楽しんでいいのかしら?」

 すみれさんは、涙でぬれた目で仏壇の写真を見た。そして、しばらく手を合わせて祈った。

「きっと、あなたも喜んでくれているわよね。私、まだまだ生きるからね。自分のためにきちんと生きます。私がぼんやりしていたのでは、あなたは成仏できないものね」

 すみれさんは、ドレスをしまうと、台所でコロッケとロールキャベツを作った。きちんとした食事を作るのも久しぶりだった。一人では食べきれいないくらい作ってしまった。なかなか一人分だけ作るのは難しい。

「そうだわ。大槻さんを食事に呼ぼうかしら」

 すみれさんは、どきどきしながら大槻病院に電話した。

「もしもし、佐々木ですが」

「ああ、すみれさんですか?」

「あの、よろしければ、夕食をご一緒にいかがですか? 一人暮らしなのに、ちょっと作りすぎてしまって、困っていますの」

「ええ、喜んで」

 大槻さんは医院を閉めると、花束を持って、いそいそとすみれさんの家にやってきた。すみれさんは、大槻さんが持ってきてくれた花束をテーブルに飾った。

 すみれさんの作ったコロッケは、衣がサクサクしておいしかった。中にはすみれさんが作ったおからが入っていた。ロールキャベツは、キャベツにうまみがしみ込んでいて、口の中に広がった。

「やあ、おいしいです。こんなにうまいものは、めったに食べられませんよ。これ、おからですね」

「はい。お嫌いでしたか?」

「いえ、おからは大好物ですよ。近頃の若い者は、おからなんて作らないですから。健康食品なのに。体にもいいし、おいしいし、いうことなしですよ」

「ほんとうですか? 私、お総菜屋さんを開こうかと思っているのですけど、どうかしら?」

「やあ、いいいですね。そしたら、私は毎日にでも買いに来ますよ」

 二人の話は弾んだ。一人で食べるより二人で食べる方が数倍おいしかった。

「そうそう、今日、さっそくダンス用の靴とドレスを買ってしまいましたの。ドレスがあまりにもきれいなので、はじめは気をくれしていたのですけど、いざ買ったら、うきうきしてきましたの。早くダンスのレッスンに行きたいです」

「いや、誰でもそんなもんですよ。新しいことを始めるには勇気がいります。でも、始めの一歩を踏み出したら、ウキウキしてきますよね。それじゃあ、ほんとうにダンスを始める気になったんですね。うれしいな」

「はい、よろしくお願いします。楽しみにしています」

「おまかせください」


 すみれさんは、大槻さんに誘われるままシルバー世代が主流のダンスクラブに入会した。練習日は週一回の木曜日。昼の時間帯だ。初めて会場に行って驚いた。すみれさんよりみるからに年上の人たちが、赤やピンクのドレスを着こなし、ダンスを踊っている。

 すみれさんはすみれ色のドレスに、シルバーのしシューズを履いて現れた。

「やあ、素敵ですね。とてもお似合いですね。可憐で、まるですみれの花のようだ」

「まあ、可憐だなんて」

 すみれさんは、頬を赤く染めた。

「さあ、お手をどうぞ」

 すみれさんは、大槻さんにリードされて、ステップを踏み出した。こうしてダンスもすみれさんの趣味の一つに加わった。


 すみれさんは朝6時に起きて、マラソンをする。すみれさんの生きる活力源は、走ることだ。お総菜屋さんの準備も着々と進んでいた。

 この前の町の健康マラソンに出場したのに味をしめて、また、レースに出てみたくなった。タイムは早くないけど、走り通した後の満足感がたまらなく好きだった。すみれさんは、河口湖マラソン大会の五キロの部に出場することにした。それで朝だけでなく、夕方の4時ころにも走ることにした。

 ある日、勉君がいるサッカーグランドのほうまで足を延ばしてみた。そこでは小学生の男の子たちがサッカーをやっていた。一つのボールを追いかけ、走り、蹴り、大きな声で声をかけ合っていた。

 すみれさんは、しばし足を止めて、勉君の姿を探した。みんな同じユニホームを着て、同じように走っているので、なかなか勉君を見つけることができないでいた。目を皿のようにしてグランド中を探した。しばらくして、ようやくボールを蹴りながら走っている勉君を見つけた。

息子もあんな日があったんだわ。今は一人で大きくなったような顔をしているけど。

「勉君、頑張れ」

すみれさんは、そっと小さな声で応援してみた。

不思議なものね。勉君を応援していたら、なんだか自分が元気になってきたみたい。

「勉君、頑張れ」

 すみれさんは、今度は大きな声で叫んだ。グランドの中の勉君は、すみれさんに気がつき、手を振った。

さあ、私ももうひと踏ん張りがんばりますか?

 すみれさんは、ゆっくり走り始めた。


 すみれさんが走り始めて一年たった。念願だったお総菜屋さんは、自宅の一部を改造して店開きした。店の名前は『すみれ屋』。コロッケとロールキャベツの店だ。

開店祝いに、公園仲間、走る仲間がやってきた。勉君も大槻さんもその一人だ。

「ありがとう。これからも、お店も、私もよろしくお願いします」

すみれさんは、万感の思いを込めてあいさつした。たった一人ぼっちで生きる張り合いをなくしていた一年前を考えると、まるで夢のようだ。新しいことを始めるのは、とても勇気のいることだ。でも、始めの一歩を踏み出してよかったと心底思えた。

すみれさんは、一人で切り盛りできる量しか作らない。品物が売切れたら、もう店じまいだ。週一回の大槻さんとのダンスのレッスンも楽しみの一つだ。


それから数年たち、七十歳になったすみれさんは、ハワイのフルマラソンに挑戦することにした。

ハワイでは、沿道の人たちが、最後尾で走る小さく年老いたすみれさんに温かい声援を送った。叫んでいる言葉はちっともわからないが、気持ちは伝わってくる。

すみれさんは、初めてのフルマラソンを見事に完走することができた。走ることが楽しい。

これを皮切りに、グアム、バリ、ドイツなどのフルマラソン大会に出場するようになった。走ることは万国共通だから、あらゆる大会に参加して、身振り手振りで走る人たちと交流を深めた。すみれさんにとって言葉の壁なんて、なんのそのだ。


 すみれさんが八十歳になって参加したベルギーでのベテランランナーズの十キロレースでも、元気にゴールインした。女性競技者の中では、最高齢だ。すみれさんは、思う。人生のゴールのテープを切るその日まで、もっともっと輝いて生きていこうと。

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