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【創作大賞2024応募作オールカテゴリ部門】松山行きのバスに乗る

【あらすじ】
六浦敏郎は、東京・兜町にある証券会社の投資部門の部長だ。
彼の部署ではある大型の海外投資案件を抱えている。
その案件にとって大事な局面を迎えている晩、彼はどうしてもオフィスを出て、旅をしなければならなかった。
翌日に実母の七回忌の法要があるからだ。
彼は後ろ髪を引かれる思いで、新宿バスターミナルへ向かった。
松山行きのバスに乗るためだ。

【本編】

夜の新宿のバスターミナル。
 
私は、松山行きのバスに乗るために待合室にいる。
桜が散り、春の暖かさを感じられる季節になっているのだが、冬型の低気圧の性で、今晩は冷える。
薄手ながら、コートを羽織ってきて正解だった。
 
松山には私の実家があり、明日お袋の7回忌法要がある。
仕事さえ都合がつけば、もう少し早めに会社を出て飛行機に乗り、今ごろは道後温泉で湯に浸かれた。
しかし、どうしても片を付けなければならない案件のため、会社を出るのが遅くなってしまった。
私は兜町にある証券会社で営業部長をしており、部下を20人ほど抱えている。そして、私の部では、今、ちょっとしたビッグプロジェクトが動いている。しかし、それが、かなり不安定な状況になっているのだ。
それは、中国とミャンマーが関係した投資案件で、政情不安が影響している。
 
法要は、明日の10時に始まり、みんなで一緒に昼の会食をして、終わる予定だ。
明朝10時には松山にいる。そのためには、疲れるが深夜バスに乗るしかない。
 
私は、会社を出た後、真っ直ぐに新宿へ出て、とんかつ屋で夕食を取った。そして、バスタ新宿に直行した。
バスの時間には早すぎるのは分かっていたが、居酒屋で飲むには時間が足りないし、面倒臭いからだ。
そして、早く着いた待合室で、買って来た缶のハイボールを飲み、着々と入ってくる部下からのメールをスマホで見ていた。状況は、刻々と変化しており、予断を許さない。ここで判断ミスをすると、大きな損失が出てしまう。なかなか、ハードな展開だ。
 
バスに乗るまで、後40分ほど。1本目のハイボールは飲んでしまった。
私はくず入れまで歩き、空いた缶を捨てた。
 
自分の席に戻ると、私が座っていた席の隣に、若い女性が座っていた。
若い。ピンクのジャケットが似合うほどに若い。
しかし、大人ぶりたいのか、彼女は多少メイクが濃かった。
 
私は自分の席に座り、もう1本のハイボールを開けようか、どうしようかと、暫し悩んだ。
そこへ、彼女が私に話しかけてきた。
「あの」
初めは、私に話しかけてるとは思わなかった。だから、自然にしかとした。
「あの、おじさん。」
「私ですか?」
「そう、おじさん、松山へ行きますか?」
「ああ、後40分後に来るバスに乗るつもりです。」
「お願いがあるんですけど。」
「いや、ちょっと、無理かな。他をあたってくださいよ。私はこれでも、仕事中なんだ。」そう言って、彼女に自分のスマホを振ってみせた。
「いや、そんな手間のかかるお願いじゃないんです。それにおじさんしかいないし。」
「僕しかいない?ここにはまだ、たくさんバスを待っている人がいるよ。」
「でも、私のお父さんっぽい人はいない。」
確かに、他の客はみんな、若者が多かった。
「でもねえ、僕は本当に忙しいんだ。ごめん、悪いが、勘弁してくれないか?」
話している間にも、どんどんメールが来る。追って読んでいくと、状況が不利な方向へと動いているのが分かる。
「おじさん、ここに座っている時だけ、私をあなたの娘にさせて。」
「何を言ってるのか、よく分からんな。ちょっと、本当に厄介なんだよ、仕事が。もういいかい?」
「ああ、仕事をしていてもいいわ。とにかく、ここで私はあなたの横に座って、娘のようにしてるわ。あなたは仕事をしていてもいい。だから。」
「横に座っているだけなら、お好きにどうぞ。しかし、話しかけないで。忙しいから。」
そう言って、私は、スマホのメールに次々と返信し、対応を指示した。
彼女は私の横で、TikTokを見ていた。
 
 
やがて、バスが来るまで後15分となり、松山行きのバスの停留所に係員がやって来た。
チケットの確認と、預ける荷物の受け渡しのためだ。
 
係員は、私のチケットを確認した。
「Aの8列目ですね。お名前はムツウラトシロウさんで、よろしいですか?」
「その通りです。」
係員は、私にチケットを返した。そして、私の隣の女性に声を掛けた。
「チケットを確認したいのですが。」
「パパ、どうしよう?アヤカ、チケット、失くしちゃった。」と、女性が大声を出し、私の腕をつかみながら言った。何だ、この猿芝居は?
「何を言ってるんだ。そんな事を言われても、私は知らない。」
「えー!パパ、酷い!じゃあ、アヤカは、パパと一緒に松山に行けないの?温泉、入れないわけ?」女性は、大声を出すばかりか、泣きわめき始めた。係員はもちろん、周りにいる他の客たちも私たちを見ている。これは、本当に厄介だ。仕方ない。
「すいませんが、どうも、娘がチケットを失くしたようなんです。新しく買う事は出来ますか?」
「並びがいいですよね?」
「いや…」「そう、パパと一緒がいい!」
「じゃあ、あなたの席を移動させてください。12列目のAとBをお取りします。お支払いはどうしますか?」
「電子決済で。」
「じゃあ、スマホの画面を立ち上げてもらい、ここに翳してください。」
私は、彼女の分のチケットを買った。私のチケットを係員が受け取り、新しいものと交換した。
 
係員が去った。
 
「君、財布は?」
「お店に置いてきちゃった。」
「お店って?」
「アキト君のお店。」そう言うと、アヤカと名乗るこの女性はまた、スマホをいじりだした。
 
バスが来た。
私たちは、一緒にバスに乗った。
 
 

最悪だった。
 
このバスは、前9列目までが3列シートで、両方の窓際に1つずつシートがあり、真ん中にも1つ。
しかし、10列目からは、普通の観光バスと同じ、両方の窓に沿って、2つくっついたシートで、真ん中は通路になっている。つまり、これから10時間近く、私はこのアヤカという女性と一緒に座っていなければならないのだ。
 
私は、立ち上がり、もう一度席の変更をお願いするべく、さっきの係員がいる外へ向かおうとした。
立ち上がった私の袖をアヤカが下へと強く引っ張る。私は、その拍子ですとんとまた、椅子に座ってしまった。
「パパ、私を隠して。」私の上半身に張り付くように、アヤカは縮こまった。
窓の外を見ると、ホストなのか、チンピラなのか、よく分からないが、とにかく派手なスーツを着た若い男が3人ほど、このターミナルの中を駆け回っていた。
「早く、早く、バス、動いて。」アヤカは、震えながら、小さい声で、そう言った。
 
バスは動き始めた。
 
アヤカは縮こまったままだ。
 
バスの運転手がアナウンスを始めた。
 
暫くすると、バスは首都高へ入った。
 
高速に乗ったのを確認すると、アヤカは背を伸ばし、普通に腰かけた。
 
どうやら、アヤカは逃げおおせたようだ。
 
 
車内の消灯まで、あと1時間。
 
私は、スマホをやめて、ブリーフケースからタブレットを取り出した。
老眼だ。もうそろそろスマホの小さい文字は読めない。
ノートPCだと、文字を打つ時に、どうしても音が出てしまうので、会社のタブレットを持ってきた。
 
タブレットの中、メールの文面ではすでに戦争状態になっている。状況が混沌としていて、先が見通せない。
予断を許さない状況が、また一歩、悪化した。
 
私は今、対応している5人の部下からのメールに対応している。5人が5人とも、ほぼ同時にメールを送ってくる事もある。それに対して、私は瞬時に決断をして、指示を出さなければならない。
少しの猶予も許されない、緊迫した体勢がずっと続いている。
 
「ねえ」
「…」
私は、イヤフォンをつけている。会社のオフィスの中で話している内容が、全部聞こえるようになっているのだ。オフィスの緊張感も凄い。もう切れそうな程に張られたロープの上で、綱渡りをしているようなものだ。
「ねえって。」アヤカが、私の腕をつかんで振った。
私はイヤフォンを外して、アヤカの方を見る。
「何?」
「どうして、何も聞かないの?」
「何を?」
「おじさん、私のチケット代、払わされたんだよ。いつ、払ってくれるんだ、とか、私がさっき、ターミナルにいた男たちから逃げてるんだって、おじさん、気がついてるでしょう?それとか、何で、聞かないの?」
「チケット代は、いいよ。僕にとっての世間に対する授業料だと思っておくから。それ以外は、僕には関係ない。だから、興味がないんだ。何度も言ってるように、僕は今、凄く忙しい。だから、じゃましないでくれないか?」
「チケット代はいいの?太っ腹あ!さすが、出来るビジネスマンは違うね。でもね、私は、ちょっと、おじさんに聞いて欲しいんだけど。」
新しいメールが入った。ちょっと、情勢が落ち着いたみたいだ。正直、ホッとした。
「聞いて欲しいって、何を?少しなら聞くよ。」余裕が出た勢いで、余計な事を言ってしまった。
「私、ホストに追われてるのよ。ツケを払えって。」
「ホストって、アキト君?」
「ああーー、そうそう。おじさん、覚えがいいじゃん。そうなの、アキト君。」
「大変だねえ。で、四国に逃げるんだ。」
「逃げるんじゃない。お金を借りに行くの。お母さんに。」
「そりゃ、親不孝だねえ。」
「そうなのよ。だから、困ってるの。」
そう言うと、アヤカは黙り込み、目はまたスマホの画面に戻っていった。
 
 
私はタブレットの中のメールの文章に没頭していた。
好転の兆しが見えたように思ったのだが、現実はそんなに甘くなかったからだ。
次々に入ってくる最新情報。入ってくるたびに情報を分析しなければならない。追って、会社のアナリストからも、分析結果の連絡が来るだろうが、それは待ってはいられない。
 
「さっき、一個、嘘ついた。」
「…」アヤカが何かを言ったのは、聞こえたような気がしたが、今はそれよりも社内の動きに耳を傾けていたい。
「ねえ、おじさん。あっ!パパ!」
「何だよ、今、忙しいって、言ってるだろう。」
「さっき、少しなら話を聞くって言った!」
「それは言ったけど、また、忙しくなったんだ。」
「私、さっき、一個、嘘ついた。」
「何?どんな嘘?」
「お母さんにお金、借りに行くって言ったの、あれ、嘘。本当は、お母さんの方のおじいちゃんのところへ行くの。」
「そうなんだ。」生返事。耳の大半はオフィスの音を聞く事に割いている。
「お母さん、1か月前に死んじゃったから。」
「それは、悲しいね。ご愁傷様。」
「だから、おじいちゃんのところに行くの。お金、貸してもらいに。」
「よく考えてみたら、変な話だねえ。君、ほんの1か月前にお母さんが亡くなったんだろう?なのに、君は今日、ホストクラブへ行き、ツケを払わなければならなくなるほどになってると言う。それは、どうなんだい?」
「どうって?」
「いや、人それぞれに考え方があるから、一様には言えないけど、それって、ちょっと、不謹慎じゃないのかい?」
「不謹慎?何で?」
「自分の肉親が亡くなったんだろう?暫くは喪に服すってもんだと思うんだが…」
「私だって、静かにしていたいわよ。だけど、あいつらが、家のマンションまで嗅ぎつけて、取り立てに来るようになっちゃったから、仕方がないじゃない。」
「そんな事にまで、なっているのか?それは、相当だねえ。で、いくら、あるんだい?ツケって。」
「300万。」
「えっ?」
私は黙ってしまった。
オフィスの中で部下たちが、話し合う内容を聞き漏らしたくない、という事がある。
しかし、それ以上に、彼女に予定外に深入りしてしまった後悔の方が大きかった。
凄くヤバそうな話だ。これ以上、立ち入りたくない。
「おじさん、勘違いしないで。300万は、私が作った借金じゃないから。全部、お母さんが、アキト君のために、せっせと店に通って、作ってしまったお金なの。」
「お母さんが?」
「で、お母さん、酔っ払って、交通事故で死んじゃったのよ。」
アヤカはまた黙った。
 

ちょっと、彼女の声が聞こえるようになってきた。
オフィスの緊張感は、私の中でトーンダウンした。
 
「じゃあ君は、お母さんが作ってしまった借金のために、ホストの連中に追われているというのか?」
「そうよ。」
「それなら、心配しなくてもいいよ、多分。弁護士に相談すれば、そんなツケは消えてしまうから。」
「そうなの?あっ、でも、ダメ。それじゃあ、アキト君がいじめられちゃう。」
「アキト君?お母さんに300万ものツケを払わそうとしているヤツだろう?どうして、そんなヤツの事を心配するんだい?」
「だって、アキト君は、私たちの家族だから。」
「家族?」
「そう、家族。血は繋がってないけどね。」
「アキト君は血が繋がってないけど、家族なのかい?そして、そのアキト君のために、お母さんは300万もの借金をする事になった。これは、どういう事だい?まるきり、僕には理解できないんだが?」
「私とお母さんはね、これまで、ずっと、二人きりで生きてきたの。色んな事があった。ヤバい事もたくさん。でもね、一番ヤバい事が起きたら、これまで、ヤベっと思って来た事が、どうって事ないんだなって、思えるぐらいだった。その一番ヤバい事が起きた時、助けてくれたのが、アキト君だったの。」
「そうか…君、お父さんは?」
「いない。私が4歳だった頃に、離婚したの。」
 
離婚。
今時、離婚なんて、何も珍しくない。
当の私も離婚経験者だ。そして、長い長い独身時代を継続中だ。
 
「ヤバい事って、話せない事?」
「うん。」
「で、アキト君を、君は助けないといけないんだ?」
「そう。」
「お母さんの実家は、松山?」
「そう、道後温泉の近く。」
「そうか…」
 
「お母さんの名前はなんて言うの?」私は平静を装って、訊いてみた。
 
「尾崎珠美」
 
やはりそうか…
 
尾崎珠美は、私と15年前に離婚した元妻だ。
 
私と珠美は、高校時代の同級生だったが、その当時はそんなに仲が良いという訳ではなかった。
むしろ、殆ど知らない間柄だ。
別々に、東京の大学へ進学した。
 
大学の4年間も交流する事はなく、次に珠美と会うのは、会社に入って2年が過ぎた頃だった。
彼女は、会社の先輩に連れられて行った銀座のクラブで、ホステスをやっていた。
 
聞けば、彼女は弁護士になる事を目指しており、国家試験を受けるそうだ。
学費を稼ぐために、ホステスをやっているらしい。
 
彼女は、野心家だった。
企業弁護士になり、ジャンジャン稼ぐのが夢と、おおっぴらに言ってのけるほどに。
 
私は、そんな彼女に惚れた。
野心なら、私も負けていないからだ。
 
知り合って一年で、私たちは結婚した。
彼女が国家試験に落ちたからだ。来年また、試験を受けるとなれば、勉強に専念した方がいい。
だから、私が養う事にした。
 
しかし、物事はそうは上手くいかない。
結婚してすぐに、珠美は妊娠した。
出産予定日は、試験の2週間後だ。
 
珠美は、試験を諦めた。
 
そして、私たちの間に女の子が生まれた。
珠美は、この子の名前を愛美にしたいと、私に言った。
 
珠美が生んだ愛美。
 
いいじゃないか。
 
愛美が生まれて、私たちは幸せだった。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。
 
 
2年間は幸せだった。
私は、毎晩できるだけ早く帰ったし、土日もできるだけ休んで、家族で色んなところへ行った。
ディズニーランドなんて、2年連続で愛美の誕生日に行ったし、羊がいる高原牧場や、きれいな湖畔のコテージにも行った。
 
しかし、愛美が3歳になる頃、私の社内の立場が変わった。出世したのだ。
そのため、業務は急激に増え、毎日夜中にしか帰らなくなった。
接待などで、すすんでいく酒の量。休日はゴルフの予定が、月に2回は必ず入り、それ以外は練習場通い。
寝不足と、深酒で、体調はボロボロだったが、今のポジションから落ちる訳にはいかない。
私は、血を吐く思いで頑張った。
 
しかし、その頑張りは同時に、珠美の中で消えかかっていた野心にも火をつけてしまった。
 
弁護士になる夢は捨てた。しかし、実業家になり、儲ける事はできるはず、彼女はそう考えた。
そして、私に断る事無く、住んでいた街の駅前の歓楽街で、スナックを開業した。
愛美は夜間保育に預けて。
 
私は激怒した。彼女が働くのは一向に構わない。彼女の夢の実現を私が妨げる理由はないからだ。
しかし、愛美を夜、怪しげな保育所で預かってもらう事、これにはどうにも我慢ができなかった。
だから、珠美に、スナックを止めるように言った。
今度は、珠美が怒った。「私は止めない。もし、愛美が可哀そうだと言うのなら、毎日、あなたが早く帰ってきてくれればいいのよ。」と言った。
 
それはできない相談だった。
 
私は悩んだ。
 
そして、私たちは離婚する事にした。
 
離婚の条件は一つだけだった。
愛美の親権は、珠美が持ち、慰謝料も養育費も請求しない代わりに、今後一切、私に愛美を会わせないという、私にとっては地獄のような条件だ。
私たちは裁判所で争ったが、結局は珠美の主張を受け入れる事にした。
仕事が忙しくなり、裁判に手を取られている場合ではなくなったからだ。
 
だから、離婚してから15年、私は一度も愛美と会っていなかった。
 
その愛美が、今は私の横で座っている。
 
もっと、興奮するのかと思っていた。
もっと、感激するのかと思っていた。
 
しかし、実際は思歯がゆく、心臓が痒くなるような気持ちだ。
どうすればいいのだ?
 
そうだ、仕事に集中しよう。
 
アナウンスがあった。消灯の時間だ。
 
車内の明かりが消え、それぞれのシートのカーテンが閉められた。
横にいる愛美は、相変わらずスマホをいじっており、時折、窓の外に目を向けている。
 
私は、通路側のカーテンを閉めて、タブレットの中の戦争に戻った。
 
 
暫く推移を見守っていると、何とか最悪は避けられそうな感じになってきていた。
私はメールで、部員のうち、1つのユニットだけにリモートでフォローしてもらうように伝えて、みんなを退社させた。これで1時間ぐらいは、静寂の時が来る。
私はイヤフォンを外し、前の網ポケットに突っ込んである温くなったハイボールの缶を取ろうとした。
そこへ、愛美、いやアヤカが、私の手を取ってきた。
「どうしたんだ?」
「眠れないの。」
「だろうね。狭いし、こんなに背もたれが倒れないとね、達人でもない限りは眠れないよね。」
「手、握ってていい?」
「ああ、これから1時間ぐらいは、仕事をしないから、大丈夫だよ。」
「おじさんの肩に、頭、もたれてもいい?」
「ああ、いいよ。でも、これからハイボールを飲むから、酒臭いかもよ。」
「お酒の匂いなら大丈夫。ママだって、夜はいつも酒臭かったから。」
「そうか…」
 
バスは、中央道から名神高速に乗り入れたばかりだ。
 
私は、片手でプルトップを開け、ゆっくりとハイボールを啜った。
 
アヤカは私の左手をきつく握っている。
そして、私の頬の下で小さな寝息を立て始めた。
 
 
夜明け前。
 
兵庫県の加西サービスエリアで、トイレ休憩のため、バスが停まった。
15分の休憩だ。
 
私も寝ていたらしい。アナウンスの声に多少驚く事となった。
アヤカは、寝ぼけ眼で私を見た。
「ここ、どこ?」
「兵庫県の加西というところだよ。まだ、松山までは遠い。トイレ休憩だそうだ。私はアイコスを吸いに出るが、一緒に外へ行くかい?」
「うん、私、お腹空いてるんだけど。」
「多分、売店が開いてるよ。何か、買ってくればいい。」
 
私とアヤカは一緒に外に出た。
 
私はアヤカに、数枚の千円札を渡した。
そして、私は、喫煙ボックスへと入っていった。
 
アイコスを2本、立て続けに吸った。
どうしても、煙草と酒は止められない。
悪癖だとは分かっている。
煙草を吸える場所が、どんどん減っている事も実感している。
しかし、止められない。
 
ボックスを出ると、アヤカが外で待っていた。
手には白いビニール袋を持っていた。
 
「何を買ったの?」
「メロンパンと、クリームチーズが入ったパン、それと、ホットのココア。」
「ああ、そうか。僕もコーヒーが飲みたいな。自販機へ行ってくるよ。」
「私も行っていい?」
「ああ。」
 
私たちは、一緒に自販機に行った。
私は、カップのコーヒーを買った。
アヤカは、ペットボトルの麦茶を買っていた。
 
麦茶!
 
愛美は、4歳まで、一番好きな飲み物が麦茶だった。
甘いジュースも、ミルクもあまり飲まないのに、麦茶だけはよく飲んだ。
 
やはり、この子は愛美だ。そう思った。
 
コーヒーが出来た。
 
私たちはまた、あの狭い座席へと戻った。
 
 
バスはしまなみ海道を渡ろうとしていた。
 
いかん!私はうかつにも寝てしまっていた。
 
目が覚めた私は、タブレットを立ち上げようと思った。
しかし、左手は、アヤカがしっかりと握っている。
どうしようかと、悩んだが、向こうの状況は緊迫している。
私は、どうにか彼女を起こす事なく、手を離す事にして、ゆっくりと彼女の指を引き離した。
上手くいった。
彼女の右手を彼女の身体の上に置き、私はタブレットを立ち上げた。そして、イヤフォンをつけると、ユニットの緊張感がいきなり伝わってきた。
 
メールはこの2時間ぐらいの間で、もう30件近く来ている。
メールを時系列で追っていった。
事態は、かなり深刻だった。
 
最後の方のメールに次々の返信し、対応について指示を出した。
途端に返信があり、やり取りが始まった。
私はタブレットに釘付けになった。
 
そして、バスは松山に着いた。
 
 
バスを降りる頃には私の戦争は、あらかた終わりに近づいていた。
完全なる敗北。もう、手の施しようもない。
人権を無視し、暴走するミャンマーの国軍と、それを後押ししているようにしか見えない中国政府。
これはもう、私たち一民間企業では手に負えない。
 
最初から分かっていた。
しかし、このビッグプロジェクトが成功すれば、私の社内での前途は、明るいはずだった。
次の定例人事では、執行役員?そして、数年後には、晴れて取締役?
 
私は、賭けに出た。裏目に出た。そして今、負けを認めなくてはいけない状況になりつつある。
 
私とアヤカはバスを降りた。
「あの、ちょっと、付き合ってくれないか?」
「何?」
「あそこのカフェで、朝食でも一緒に取らないかと、思ってさ。」
「いいね、行こう。」
 
私たちは、ターミナルの側のカフェに入った。
 
アヤカはトーストとヨーグルトのセットに、アイスミルクティ、私は、オーソドックスにトーストとゆで卵のセットに、熱いコーヒーを注文した。
 
私たちは、4人掛けの席で向かい合って座った。
そう言えば、この旅で、私は初めて正面からアヤカの顔を見た。
濃いメイクに騙されてよく分かっていなかったが、よく見ると、アヤカ、いや愛美の顔には、幼い頃の面影が色濃く出ていた。
 
店に入ってからも、イヤフォンは外さない。タブレットも立ち上げたままだ。
向こうでは、既に敗戦処理の相談を始めている。誰も責任は取りたくない。みんなが私からの指示を待っており、イヤフォンでは、私が聞いている事を前提に、早く電話をくれないかな?と言い出す始末だった。何人かは、私の名前を呼び捨てで呼んでいた。
 
もう遅い。慌てたって仕方ない。私は、彼らが騒ぎ立てているのを一時、受け流す事にした。
 
今は、もっと重要な事がある。
 
「一つ、提案をしてもいいかな?」
「何の事?」
「さっき、君がいってた300万だけど、良ければ僕に出させてくれないか?」
「えっ?私がおじさんからお金を借りるって事?」
「借りるんじゃない。進呈するんだ。」
「えっ?見も知らずの私に?300万も、あなたはくれると言うの?」
「ああ、そうだね。」
「何で?」
「この世の全てのものへの罪滅ぼしかな。いいかい、受け取ってくれるかい?」
「それは、ありがたいけど…本当にいいの?」
「ああ、いいさ。但し、一つだけお願いがある。」
「何?」
「ここを出たら、銀行へ行く。ATMで何回かに分けてお金を下ろす。で、300万を渡したら、一緒に一枚だけ写真を撮ってくれないか?」
「それだけ?」
「それだけ。」
「分かった。OKよ。」
 
私たちは、それぞれの朝食を取った。
イヤフォンの中では、部下がわめいていたし、メールの量は、秒単位で増えていってた。
 
 
レジで支払いを済ますと、私たちはカフェを出た。
 
駅のビルの片隅に銀行のATMがあった。
私はそこで、金を下ろし始めた。
一回に下ろせる金額があるため、何回にも分けなければならなかった。
最初は私だけが、連続して下ろしていたが、徐々に他の利用者が並び始めたので、一回下ろすたびに、列に並び直す、というような、面倒臭さがあった。
 
金を下ろしている間中、私のスマホは鳴りっ放しだった。
さっきの電話で、私からの伝言を聞いた他のユニット長からだった。
金を下ろしている間は、その事に専念した。アヤカを早く、解放してあげたかったからだ。
 
金が全部下ろせた。300万と言ったが、350万、用意した。
 
ATMに備え付けてある紙袋を沢山取ってきた。
そして、金をそれに入れた。11通の紙袋ができた。
 
それをアヤカに渡そうと、思ったが、そこで気がついた。アヤカは、手ぶらなのだ。
それでは、あまりに無防備すぎる。
カバンを買わなくては…しかし、まだ、朝早い。開いてる店などないのではないか?
どうしようか?
 
また、電話が鳴った。
 
私は、放っておいた。
 
アヤカが言った。「さっきから、電話がスゴイね、お父さん。取ってあげたら?」
 
お父さん?
金の入った袋を取り敢えず、私のブリーフケースに入れている手が止まった。
 
「気がついていたのか?」
「うん」
「いつから?」
「バスに乗る前、私のチケットを買って、お父さんの席を買い直す時、係員の人が、お父さんの名前を確認したでしょう、ムツウラトシロウって、それで。」
「私の苗字を知っていたのか?」
「うん、だって、私、六浦愛美だもん。」
「えっ!」
「ずっと、六浦愛美。お母さんもずっと、六浦珠美だったし。」
 
別れた妻は、私の苗字を名乗っていた…
 
「お母さんの墓は、どこにあるんだい?ここか?それとも、東京の方?」
「うちのマンションの隣のお寺の墓地よ。」
「えっ、あの、横浜青葉台の古いマンションか?鶯色のコンクリートの壁の。」
「うん、でも、今は、壁は塗り直してクリーム色だけどね。」
 
青葉台のマンション。
私たちが結婚した時、お互いの貯金を合わせて買った中古のマンションだ。
駅からは遠く、バスで10分、自転車では20分もかかる距離。
買った時点でもう、築15年を過ぎていた2LDKの部屋は、どこも傷んでいた。
それを私と妻は、喜んで毎週末に修繕した。
愛美が生まれた時、リビングのフローリングが気になった。
剥き出しのコンクリートに、直接木の床材を貼り付けただけの床。
冷たくて硬い床は、赤ん坊が這い回る床ではない。
私は、全部の床材をはぎ取り、断熱材と、緩衝材を敷き詰め、そこに新しくアイボリーホワイトのフローリングの板を敷き詰めた。途端に部屋は明るくなり、暖かくなった。
 
あの部屋、あの部屋に、今も住んでると言うのか?
 
懐かしい部屋。帰りたいと、何度も願った部屋。
 
「お母さんねえ、いつもお父さんの事、褒めてたよ、私に。「あなたのお父さんは、仕事ができる偉い人なんだ」って。」
「そうか。」
「テレビでね、お父さんの会社のCMが流れると、いつも私に「あれ、お父さんの会社」って、言うの。何度も聞いてるのに、絶対に言うの。おかしくない?」
 
不意に涙が零れた。
 
電話が鳴った。
 
「お父さん、電話、出た方がいいよ。忙しいんでしょう?」
「ああ、分かった。」
私は電話を取った。
佐々木君だった。
「良かった!六浦部長、どういう事ですか?諦めるなんて、全面撤退なんて、決めるのは、まだ早いんじゃないですか?週明けには、風が変わるかもしれないじゃないですか!とにかく私は、諦めるなんて、承服しがたいのですが…」
「ああ、でも、客観的に見て、これ以上掘っていっても、現状より良くなる見込みはないんじゃないかと思ってね。まあ、週明けには私が出社して、後始末するから、君たちはこの週末はゆっくりしてくれ。」
「ゆっくり!ゆっくりなんてしてられませんよ!全く!僕は、あなたが率いる案件だから、あなたがやるビッグプロジェクトだから、今日までついて来たんです!そのあなたが弱気な事を言う!そしたら僕は、いやうちの部、全員は、どうしたらいいんですか?こんな大型案件を失敗したとあっちゃあ、僕らの出世に響きます!どうしてくれるんですか!」
「いや、いや、そうはさせんよ。週明けに私が直接、佐藤常務のところへ報告に行く。責任は全部、私が取る。君たちには迷惑をかけないようにする。約束するから、収めてくれないか。」
「約束?そんな約束、あてになるんですか?」
 
「うるさいなあ。ちょっと、静かにしてくれんか?今、娘と一緒なんだよ。」
 
「娘?娘って、部長、部長は独身…」
 
私は電話を切った。
 
そして、愛美に「行こうか。」と言った。
 
愛美はうなずいた。 

私たちは、週末の午前中が始まりだした松山の街を歩き始めた。
二人の写真を撮るのに、最も相応しい場所を求めて。


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