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仕事が教えてくれる「現在地」

最近の僕の仕事のやり方は、「自分以外の誰かにとっての正解を出すこと」になっていると気づいた。僕は教師で公務員なので、そもそもが自分を二の次にしなくてはならない仕事なのだが、それにしても周囲の人のことを考えすぎている。

例えば、ここ一か月は、2学期に控える「林間学校」に向けた下準備に追われた。旅行会社や行き先の施設と打ち合わせ、度重なる連絡調整、下見、実施計画の作成。多くの資料や文書を作り、保護者に向けた説明会を開く。個別に配慮が必要な児童への対応策を一件一件考え、それを保護者と確認する。

さらに、当日をシミュレーションし、一緒に引率する先生たちの役割と動きを考え、時間をかけて細かく確認した。子どもたちへの指導計画も考え、他の担任とも足並みをそろえて実施していけるようにしておくことも大切だった。

これらは全て、他の先生、保護者、子どもなど、自分以外の人が林間学校に向けて準備を進めるために必要なことだった。

しかし、お盆明けの出勤日では、研修や会議などで一日一日のスケジュールが埋められており、勤務時間内では、林間学校の仕事に充てられる時間はほとんどなかった。

さらにさらに、林間学校以外にも行事はあり、また当然、日々の活動や授業の準備もしなくてはならない。時間を捻出することですら他人のため。毎度のことながら、骨が折れた。

そんな中、一つだけやってみたいことがあった。
音楽の授業で、新しいやり方を試したかった。
しかし、その準備はどんどん後回しになり、やっととりかかったのは始業式前日の夜。それも自宅でであった。結局それも中途半端になった上に、心身共にくたくたになって、2学期の始まりを迎えてしまった。

教員のブラック労働という、僕の外部の大問題もあるが、ここでは僕の内部に目を向ける。よくも悪くも、僕は、自分以外の人を優先して仕事をしてしまっている。周りの人が納得してくれるような「正解」さがしに追われている。これは、思えば昔からそうだった。

そして、そのまま齢を取り、重い立場になると、輪をかけて自分のために働けなくなった。多くの人が見えるようになり、その人たちのために仕事ができるようになるほど、「正解」のレベルは上がっていった。限られた時間で仕事の質をさらに上げようともがき、疲弊し、自分が押しつぶされて小さくなっていった。

僕はこのままで良いのだろうか。

昔から、自分のためだけに仕事をする先輩や同僚が嫌いだった。
「子どものため」だと口では言いながら、どう考えても自分が納得したいがための授業をしている人。退職の送別会で、自分の教師人生を長々と語っちゃう人。教え子には尊敬されて当たり前、同窓会に呼ばれたり「囲む会」を開いてもらって当たり前だと思っている人。自分のやり方を後輩に教えたくて仕方がない人。

そうはなりたくなくて、今がある。
しかし、今は今で、限界を迎えている。

仕事の悩みは、自分の「現在地」を教えてくれる。すると、今まで歩いてきた道も見えてくる。ならば、これから行くべき道も見えてくるはずだ。
そう思えば、希望を失うにはまだ早い。
まだ、自分を変えることをあきらめる時ではない。

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