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【コドモハカセと記者の旅】アヴィニョンのiセンターにトイレはない

【登場人物】
コドモ:長女4歳、次女1歳。渡仏のせいで保育園の運動会に出られず。
ハカセ:40代の建築史家。合理主義者。
私:30代の報道記者。転職しようか悩んでいる。

※このエッセイは昨年9月、家族でフランスを旅した時の記録(記憶)です。当時の状況は、現在は変わっている可能性があります。


アヴィニョンの街並み


9月のアヴィニョン・サントル駅は、酷暑だった。
 
駅舎を出ると、日本とは違う明度を感じた。突き刺すような日差しを避けようと慌てて帽子をかぶるも、ガラスに映った「THE NORTH FACE」のロゴが気に入らない。そんなにブランド名を真正面に打ち出さなくてもいいのにと、どうでもいいことで不機嫌だった。
 
駅前の工事現場は、砂ほこりが容赦なく舞い上がり、しんきろうのように視界を覆う。アスベストとか出てないかな。息を止めるようにして、子どもたちと素早く通り過ぎたいのに、小型のキャリーケースがガタゴトと不安定に踊っていて、歩きにくい。
 
胸元の抱っこひもにぶらさがっている次女が重い。抱っこひもでの移動はつらい月齢になってきた。石畳の道路や、エスカレーターのない階段だらけの旅に、ベビーカーを持ち込むことは敢えて選択しなかった。早々に「つらい」などと口に出すと、そもそも未就学児2人を連れたフランス旅行自体が、やはり無謀だったということになる。打ち寄せる後悔の波を押し戻す。
 
もうすぐ5歳になる長女は、先をぐんぐん歩く父親と手をつないで、絵本やら何やらを詰め込んだリュックを揺らしながら、懸命に小走りしている。
 
ベトナム航空をハノイで乗り継ぎ、朝方に到着したシャルル・ド・ゴール空港から高速鉄道に飛び乗って、昼過ぎにようやくたどり着いたのが、最初の目的地アヴィニョンだった。疲れているのは確かだが、この違和感は疲労からだけではない。陽光降り注ぐ南仏。古都アヴィニョンの古めかしい城壁を前にしても、心のもやは晴れなかった。
 
建築史家であるハカセは、城壁の外にある現代的なチェーン系ホテルよりも、城壁内にある昔ながらのホテルを好んで選んだ。と言っても、クラシカルな高級ホテルではなく、注意してよく見ないと通り過ぎてしまうような小さな宿。レストランの脇に伸びた細長い通路を抜けると、ちんまりしたカウンターに、昼下がりの少し眠そうにしているスタッフのおじさんがもたれていた。
 
チェックインには少し早い時間だったが、部屋に入れてもらい、どさりと荷物を置いて息をつく。すばやく部屋を見まわし、小さいけれど清潔そうなベッド、トイレ、シャワーに安心する。壁は白く、窓は大きい。二つあるシングルベッドの一つに次女を転がして、ずっしりと重くなったオムツを手早く取り替える。ちょっと陰部がかぶれている。
 
「インフォメーションセンターでバスの出発時間を聞いてみよう」
 指示役はたいてい、建築調査で旅慣れているハカセだ。ちょっと休ませてと言いたかったけれど、休んでしまうとそのまま寝てしまいそう。ノースフェースの帽子をベッドに放り投げて、出発する。
 
 ホテルの向かいにあるインフォメーションセンターでは、見込んでいた郊外の観光地へ行くためのバスに、その日は乗れないことが判明した。予定を柔軟に変更して、アヴィニョン最大の観光名所・教皇庁宮殿に向かう―という時に、「お腹が痛い」と訴える長女。さっき食べたケバブがあたったか。気のせいじゃない?うんち?
 
アヴィニョンに限らず、インフォメーションセンターに観光客用のトイレはない。フランスの子連れトイレ環境について先に触れておくと、今回訪れたプロヴァンス地方やリヨン、そしてパリ近郊では、大型の駅構内やホテル、ショッピングセンター内にある有料トイレであれば、清潔なオムツ替えシートもあり安心感があった。しかし、屋外や列車内のトイレは綺麗とは言い難く、できれば避けたい。そういった事情は旅の中盤以降に学習したことで、この時点ではまだ日本の感覚を引きずって「インフォメーションセンターにトイレがないなんて」とショックを受けた。

オムツをとうに卒業した長女は、ハカセとともに小走りでホテルに戻っていった。待っている間、近くの教会でも見ようかと足を踏み出した瞬間、胸元にいる次女のお尻が生温かく、もっこりしていることに気づく。排尿したらしい。これからしばらく、オムツ替えシートに出会うことはないだろう。さきほど見た、赤みを帯びた陰部を思い出す。少しため息を吐き出して、私もホテルに取って返した。


法王在せし頃のアヴィニョンを見ぬ者は、何も見ないと同じこと。陽気で、元気で、にぎやかで、祭りの活気のあること、これに並ぶ町はない。

(ドーデー作、桜田佐訳「風車小屋だより」岩波文庫)


教皇庁宮殿


13世紀末~14世紀初頭、ローマ教皇とフランス国王の間で対立が激化し、1303年には教皇が捕らえられる「アナーニ事件」が起きた。政情不安なローマを避け、教皇庁は1309年に南仏アヴィニョンに遷居。1377年まで約70年の間に7人のフランス人教皇が居住し、1378年にローマに戻されたものの、教会大分裂(大シスマ)は決定的になり教皇の権威は失墜。教会の腐敗がますます進み、各地で教会改革を求める運動につながっていった―
と、山川出版社の「詳説 世界史研究」(2002年第10版)にある。
 
世界史的には古代ユダヤ人の苦難になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれる教皇庁時代。フランス王の傀儡というネガティブなイメージとは裏腹に、ドーデーの「風車小屋だより」が伝えるように、アヴィニョンは大変な富と栄華を誇ったようだ。
 
「アヴィニョン橋で踊ろよ、踊ろ」という有名な民謡は、ローマから教皇庁が移って来たことに浮かれた民衆が、ローヌ川に架かる橋の上やほとりで夜な夜な踊ったことに由来するという。全長4.3キロの城壁内に歴史的建造物がひしめく街は、教皇が去って600年以上が過ぎた今も、中世の面影と賑わいを色濃く残す南仏きっての世界遺産である。

トイレを済ませた私たち家族は、メインストリートを直進し、市庁舎や劇場のある広場に出た。ここで長女の目を釘付けにしたのは、食器の音とざわめきが響く巨大なカフェテラスでも、文豪が泊まった豪奢な高級ホテルでもない。広場の中央で、数人の子どもを乗せてからからと回転するメリーゴーラウンド。そして飾り立てた、見るからに怪しげなミッキーマウス「風」の着ぐるみ。吸い寄せられそうになる長女を引き戻し、着ぐるみとメリーゴーランドの横を足早に通り過ぎて、教皇庁へと続く石畳の坂を上った。
 
そびえる高い壁が深い影を落とし、濡れたように光る石畳。ひざへの加重を感じながら一歩一歩踏みしめて歩くと、中世の教皇庁時代へと吸い込まれていくようだ。ぱっかぱっかと馬の蹄の音さえ聞こえてきそう。残念ながら、自分の荒い息にかき消されてしまったのだけれど。抱っこひもに入った次女は寝てしまったのだろうか。ぐったりと体を預けて、一層重い。


<2>に続きます。
このエッセイを書いた理由について、興味を持ってくださった方は以下をご覧ください。




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