伊勢物語と斎宮の話

もう一人のヒロイン、恬子内親王/狩の使/伊勢の斎宮/来る女/君や来しわれや行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか醒めてか/かきくらす心の闇に迷ひにき夢うつつとは今宵定めよ/血の涙/かち人の渡れど濡れぬえにしあれば/また逢の関はこえなむ/惟喬親王の妹/中宮定子、業平の末裔説

【以下文字起こし】

さて、前回は、伊勢物語の中に100個以上あるお話のうち、藤原高子という女性に関連するエピソードだけをピックアップして紹介しました。一番メジャーですし、魅力や面白さも伝わりやすいと思ったので彼女を取り上げたわけなんですが、実はもう一人、すごく有名なヒロインがいるんですよ、伊勢物語って。今回はその話がしたい。

まぁ、高子の話だけで一旦終わりにするのも区切りとしてはよかったんですけど、せっかくたくさん前振りして、歴史の流れも押さえながら解説を進めてきたので、周辺知識の記憶がまだ新しいうちに色々学んだ方が、理解も早いと思います。いつもよりはなるべくライトに、軽めの内容を話すので、どうか気軽に聴いてください。

今回扱うヒロインの名前は、恬子内親王といいます。恬子の恬はちょっと珍しい字で、立心偏に舌で恬と読みます。これに子供の子で恬子。

あれですね、清少納言の主人であり、一条天皇の中宮だった藤原定子が、定めるに子供の子でサダコって呼ばれることもあれば、中宮定子って呼ばれることもあるのと同じような感じです。

で、内親王っていうのは、内側の親に王様の王と書くんですが、これは皇族の女性、特に天皇の姉妹や娘にあたる女性を指します。

この恬子内親王は、藤原高子と同じように、当時実在した女性です。皇族である彼女が在原業平と恋をしたって語られてるだけで既に結構面白いんですが、ことはもっと大事件でして、ここから先は本文を引用しながら説明しましょう。伊勢物語、第69段です。

むかし、男ありけり。その男、伊勢の国に狩の使に行きけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「常の使よりは、この人よくいたはれ」と言ひやれりければ、親の言なりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。かくて、ねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男、「われて、逢はむ」と言ふ。女もはた、いと逢はじとも思へらず。されど、人目しげければ、え逢はず。使ざねとある人なれば、遠くも宿さず、女のねや近くありければ、女、人をしづめて、子一つばかりに、男のもとに来たりけり。

男はた、寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて、人立てり。男、いと嬉しくて、わが寝る所に率て入りて、子一つより丑三つまであるに、まだなにごとも語らはぬに帰りけり。男、いと悲しくて、寝ずなりにけり。

昔、とある男がいたと。在原業平のことですね。で、彼は今回、狩の使いとして伊勢国に来ている。狩の使いって何?って話になりますが、これは貴族のお仕事の一つでして、帝の命令を受けて、地方の査察を行います。

各地域に、県知事みたいな貴族が派遣されてるわけですよ。そこに行ってね、仕事ちゃんとやってるか、任されてるエリアちゃんと治めてるかっていうチェックを、帝の代わりに見定める。これがなんで狩の使いって名前で呼ばれてるかというと、朝廷での儀式や宴に使う鳥とか獣を狩りに来ましたよって名目で地方を回っていたからです。

ちなみに、伊勢っていうのは、あれね、今も伊勢神宮のある、三重県の伊勢ね。ここが舞台だってことが、今回とても重要なんですよ。なぜなら、伊勢には斎宮がいるからです。

これね、完璧に説明しようとすると難しいので、ある程度おおざっぱに話すんですけど、斎宮っていうのは、伊勢神宮の神様にお使えしている巫女みたいな存在なんです。伊勢神宮って日本の天皇家にとってはめちゃくちゃ重要な神様でして、本来なら、帝自らがしょっちゅうお参りに行くべきなんだけど、実際問題としてそれは無理だから、自分の代わりに内親王を派遣した。こうして伊勢で暮らすことなった女性のことを、斎王とか斎宮って呼びます。

斎は、苗字でよく使われてる、斎藤さんの斎です。精進潔斎って言葉が今でもありますけど、斎って字には「心身を清める」って意味があるんですよ。身を清めて神様に仕える神聖な内親王だから斎王。斎宮っていうのは斎の字に宮って書いて、もともとは斎王が暮らす場所のことを指していたんですが、それがそのまま斎王本人を指す言葉になっていきました。斎宮。あるいは、音が濁ってさいぐうとか、訓読みしていつきのみやと読むこともあります。

斎宮って、基本的には未婚の、若い内親王から選ばれるんです。だから斎宮は、もっとも神聖で清らかな存在だって言われることもあるし、めちゃくちゃ気の毒で可哀想な生贄だって言われることもある。わかりますか、この感覚。平安貴族社会の上流の方の人たちにとって、世界って平安京かそれ以外かなんですよ。都の外の世界っていうのは、もう自分たちの暮らすところではないと思っている。そういう感覚で育った皇族の女性にとって、遠く離れた伊勢で暮らすなんて嬉しいはずがない。しかも、一度斎宮に選ばれてしまったら、何年も帰って来られなかった。原則、天皇が代替わりするまで斎宮も交代できません。

これは可哀想でしょ。本来なら皇族のプリンセスとして、いろんな人と文化的に交流したり恋をしたりしたかもしれない女性が、10代や20代の貴重な時間を伊勢に閉じ込められて過ごすわけですから。そういう、ある種の悲劇性を帯びた斎宮という存在が、今回のお話のヒロインになっている。

では、そろそろ伊勢物語の本文に戻りましょう。在原業平たち狩の使いを迎えることになった当時の斎宮は、事前に母親から手紙をもらっていたらしい。どういう内容の手紙だったかっていうと、「今回そっちにいく狩の使いは普通の人とは違うから、いつも以上に丁重にもてなしなさい」という旨が書かれていた。お母さんはきっと平安京の中にいるんでしょうね。で、業平のことを知っていて、この人は特別な存在だから、そういうつもりで扱うんですよって娘に注意している。

前回も話しましたが、在原業平という男は、めちゃくちゃ血筋がいいんですよ。父は平城天皇の息子。母は桓武天皇の娘ですからね。血縁的に言えば、斎宮ともそう遠い存在ではない。

彼女は母の言いつけを守って、男のことを大層細やかにお世話しました。朝は支度をして狩に送り出してやり、夕方は帰る途中に自分の暮らす御殿へ招きました。こんなこと、他の男へはしたこともなかったでしょう。結果として、二人は互いのことを深く意識するようになります。

二日目の夜、男は斎宮に、「どうしてもお逢いしたい」と申し出た。これに対して彼女もまた、「いと逢はじとも思へらず」だったと書いてある。ここ、味のある表現でいいですね。

「じ」は打ち消し推量ないし打ち消し意志の助動詞だから、「逢はじ」だけだと、「逢わないでおこう」って意味になるんだけど、これに「思へらず」がついている。この「ら」は完了存続の助動詞「り」の未然形ですから、「思っていない」と訳される。つまり「逢わないでおこうとは思っていない」ってことで、おまけに「いと」が頭にくっついてるから、絶対嫌ってわけではないと。すっごい回りくどい言い回しで、逢っても良いよと書いてある。

この歯切れ悪い感じがね、良いんですよ。斎宮って実は恋愛禁止なんです。神様にお仕えする、清らかな存在ですからね。そのために、わざわざ未婚の内親王を選んでいるわけで。そこらへんの男が近づいていい存在では、本来ない。

つまり何が言いたいかっていうと、ここで男からの誘いに「ノー」と言わないだけでも大冒険なんですよ。古文の世界で「逢う」って言葉は、単に顔を合わせるだけじゃなくて、もう少し深い関係になるニュアンスも持っていますから、あの斎宮が、こんなふうに男のことを受け入れて良いの?!っつってね、もうここで既に、当時の読者はニヤニヤしてるわけです。

けれどまぁ、実際問題として、人目が多すぎて近寄る隙がないんですよね。距離は近いんですよ。男が宿泊してる建物と、斎宮の生活している場所はそう遠く離れていなかった。だから男としては、なんとかしてこっそり彼女のところに行きたいんだけど、そのチャンスが見つけられないまま夜が更けていく。

するとね、みんなが寝静まった23時ごろに、とんでもない事件が起こった。なんと斎宮本人が、お忍びで自分から男の部屋を訪ねてきたんですよ。ここがほんとに、めちゃくちゃ面白い。えー!?ってなるんですね、衝撃的過ぎて。当時の読者もびっくりしたでしょうね。

だって、そもそも根本的な話として、平安時代の姫君って、自分から出歩いて男のところに行ったりしませんからね。普通。おまけに彼女は恋愛禁止の斎宮でしょ。二重にありえない。なんじゃこの大胆な展開はー!?ってなるんですよ。

当時これを考えた人は楽しかっただろうなー。なんかもうね、どうせ平安京の住人たちには、遠い伊勢で起こったことなんて確かめようがないし、あることないこと好き放題やったっていいよね? っていう、突き抜けた勢いを感じます。しかし同時に、幻想的な美しさみたいなものもあって、それがまたいい。

「月のおぼろげなるに、小さき童を先に立てて、人立てり」

って書いてあってね、月の光がおぼろに照らす中、召使いの幼い女の子を先導にして、斎宮が立っていたっていうんですよ。まるで夢の中のような光景ですよね。

男はもうめちゃくちゃ嬉しくて、彼女を自分の寝室に連れていって、丑三つ時だから、午前二時まで、三時間くらい一緒に過ごした。けれど、「まだなにごとも語らわぬ」うちに帰ってしまったといいます。全然物足りない、満足できないままに別れてしまったと。男はそれが悲しくて、その後は一睡もできないまま朝を迎えました。

では、本文続きを読んでみましょう。

つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより、詞はなくて、
「君や来しわれや行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか醒めてか」
男、いといたう泣きて詠める、
「かきくらす心の闇に迷ひにき夢うつつとは今宵定めよ」
と詠みてやりて、狩にいでぬ。野にありけど、心はそらにて、今宵だに人しづめて、いととく逢はむと思ふに、国の守、斎の宮の頭かけたる。狩の使ありと聞きて、夜一夜酒飲みしければ、もはら逢ひごともえせで、明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せど、え逢はず。

翌朝早くのこと。男は彼女のことが気がかりではあったが、自分の方から使いのものをやるわけにもいかないので、非常にじれったい思いで、向こうからの連絡を待っていたと書いてある。普通だったら、男女が夜一緒に過ごした後は、後朝の文って言ってね、次の日の朝に男の方から手紙を出すんですよ。だけど今回はそれができない状況なので、そわそわ向こうの出方を待つしかないわけですね。

するとすっかり夜が明け切ってしまったタイミングで、女の方から手紙が来た。本文にあたるような言葉は何も書いていなくて、ただ和歌だけが認められている。

君や来しわれや行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか醒めてか

あなたが来たのか、私が行ったのか、それさえはっきりしません。あれは夢だったのか、現実だったのか。眠っていたのか、目覚めていたのか。

リズムもいいし、言葉も幻想的で綺麗な歌ですね。当時の常識から大きく逸脱したあの夜の出来事を、あれは夢だったかもしれません、そんな事実はなかったかもしれませんって、ぼかしているとも取れるし、理性とか冷静さを超えたところに二人の恋はたどり着いてしまったんだって、言っているようにも取れる。まぁ歌の解釈は色々諸説あるんですけど、いずれにせよ大胆な女性ですよね。

これに対して男は泣く。もうめっちゃ泣く。そうして詠んだ歌が、

かきくらす心の闇に迷ひにき夢うつつとは今宵定めよ

であったと。真っ暗な心の闇の中に、私は迷い込んでしまいました。もうなにもわかりません。昨夜のことが夢だったのかどうかは、今宵もう一度会うことではっきりさせてください。って感じの歌です。

もう一回チャンスをくれ! っていうんですね。向こうから来た歌の言葉を上手に交えつつ、あれっきりでお別れなんて嫌だ、今夜また会いたい! という意志表示を明確に返した。

そのあと男は、日中の間、狩の使いとしての仕事をこなすんだけど、斎宮のことが気になり過ぎて、心ここに在らずでした。スケジュール的に会えるチャンスはもう今夜しかないから、周りの人たちにはさっさと寝てもらって、なるべく早く彼女に会いに行こう、なんてことを、仕事中もずっと考えていた。

ところが、想定外の事態が男を襲います。国の守、つまり伊勢国の県知事みたいな立場の人で、斎宮をお世話する責任者も兼ねていた人が、狩の使いを接待するための宴を開いたんですよ。で、なんと一晩中これが続いた。一晩中みんなで酒を飲み明かして、本当は斎宮と二人っきりになりたかった男も、これに付き合わないわけにはいかなかった。

明けば尾張の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せど、え逢はず。

と書いてあります。夜が明けたら尾張国へ出発しなければならないから、もう彼女と二人で逢うことはできない。つら過ぎて、男は人知れず血の涙を流したという。この辺りも面白いですね。今でもよくある展開じゃないですか。全然別の避けがたい用事が入ってしまって、大切な相手との待ち合わせにたどり着けないっていう流れ。そういうラブストーリーの王道みたいなものが、当時から既に確立していたわけです。二人は結局どうなってしまったのか、本文続きを引用してみましょう。

夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす盃の皿に、歌を書きて出だしたり。取りて見れば、
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」
と書きて、末はなし。その盃の皿に続松の炭して、歌の末を書きつぐ。
「またあふ坂の関はこえなむ」
とて、明れば尾張の国へ越えにけり。

夜がしだいに明けようとする頃、女の方から差し出す盃の皿に、歌が書いてあったと。これは、どう捉えたらいいんでしょうね。斎宮本人も、夜通しの宴に参加してたってことなのか、あるいは、宴とは別に、個人的な別れの挨拶としてお酒を一献贈ったのか。手持ちの資料どれ見ても明記されていないので、はっきりしないんですが、もし宴に参加していたとしても、空間的に仕切られて、姿形は見えなかったでしょうね。当然、二人きりで話すチャンスなんなかった。そこで最後に、こっそり歌だけ送ってきたと。

「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」っていうのは、徒歩の人でも裾が濡れないくらいの浅瀬だから、って意味なんですけど、そこに「縁」っていう、男女の縁や結びつきを意味する言葉が隠れていて、私たち二人の縁ていうのも、結局は浅いものでしかなかったので、というメッセージを読み取ることができる。

いじらしいのは、歌の下の句を書かずに男へ委ねている点ですね。つまり、男の気持ちが知りたいってことですよ。もはや普通に歌を送り合うチャンスすらなくて、最後の最後に、男がどんなリアクションを返してくれるのか知りたくて、寂しい上の句だけを書いて送った。

これに対して男は、夜の間照明にしていた松明の消し炭を使って、次のような下の句を返しました。

「またあふ坂の関はこえなむ」

末尾の「なむ」は、強意の助動詞「ぬ」の未然形プラス、意志の助動詞「む」で、きっと~しよう、と訳します。逢坂の関っていうのは地名で、平安京の東側の出口に当たる関所なんですよ。京と伊勢を往来するためには必ず通らなければなりません。そして、逢坂の「逢」の字は、男女が深い仲になるっていう意味の「逢う」と同じですから、それをまた越えようっていうのは、私たちの恋はこれで終わりじゃないですよってことですね。いつかまた、きっと再び逢いましょう。二人の縁は、決してこれっきりじゃないですよと、返している。

そしてその後は、女の反応も、二人のその後も一切描かれることなく、男が伊勢から旅立ったことだけ記されて終わります。これが、伊勢物語の中でも有名な、「狩の使い」のエピソードです。

いやー、これはこれで、二条の后、藤原高子の話とはまた違った魅力があって、面白いですよね。あちらはね、時の流れや状況の変化の中での悲哀、みたいなものが味わい深くて、ヒロインである二条后もね、草の上の露を見て「あれは真珠かしら」って尋ねちゃうような、可憐な女性像だったわけですけど。

今回メインだった斎宮は、立場の割にとても大胆で、終始男との関係を自分手動で動かしていましたよね。そこに魅力と面白さがあります。

ちなみに、私は冒頭で、今回扱うヒロインは恬子内親王だといいました。つまり、あの斎宮は、実在した恬子内親王のことを描いてるんだよって話なんですが、これが何に由来する情報かというと、伊勢物語本文に明記されているんですね。

斎宮は、水の尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬の親王の妹。

っていうふうに、第69段末尾に書かれている。水の尾の帝っていうのは、清和天皇のことを指していて、これは彼が世を治めていた時代のことですよと言っている。文徳天皇は清和天皇の父親で、男と恋をした斎宮は、この文徳天皇の娘であると同時に、惟喬親王の妹にあたる女性だっていうふうに紹介されている。この惟喬親王の妹っていうのが、恬子内親王なんですよ。

ここまで聞いて、首を傾げる人もいるはずですね。なんだこの、必要以上に複雑な言い回しは?って、疑問に思いませんか。だって、今話した情報を整理すると結局、清和天皇も斎宮も惟喬親王も、全員文徳天皇の子供ってことでしょう? だったら、斎宮は清和天皇の妹だ、とだけ書いておけばよくないですか? しかし実際は、そう単純な話ではなくて、その複雑さの中に面白さがあるんです。

頑張って事情を説明してみましょう。まず前提として、惟喬親王や恬子内親王と清和天皇は、母親が違います。異母兄弟なんですよ。だから区別をされている。

惟喬天皇と恬子内親王は、文徳天皇が紀静子という女性との間にもうけた子供です。紀貫之の紀に、静かな子と書いて紀静子です。彼女が産んだ惟喬親王は、なんと文徳天皇の第一皇子でした。

だから文徳天皇も、俺の次は惟喬親王が帝になればいいと考えていた。しかしその案は、周囲からの反対によって闇に消えます。なぜか。のちに清和天皇となるもう一人の皇子が藤原良房の孫だったからです。

憶えてますか、藤原良房。承和の変の勝ち組で、藤原摂関政治の土台を作った人物です。政治闘争で彼に勝てる人間なんて当時いなかったんですよ。惟喬親王の後ろ盾は、お母さんである紀静子の実家になるわけですけど、紀氏なんて、藤原北家に比べればほとんど無力に等しい存在でした。

だから惟喬親王は結局、長男なのに帝位を継ぐことができなかった。可哀想な人なんです。そして彼は、同じく可哀想な皇族として世に名高い在原業平と、大層親しかった。一緒に和歌を読み合ったりしてね、仲良く交流していたことが知られています。伊勢物語の中にもそういうお話が載っていたりする。

ちなみにね、二人は血縁的にも繋がりがあるんですよ。在原業平は紀有常って人の娘を妻にしてたんですけど、この有常は惟喬親王の母である紀静子の兄に当たる人物です。つまり業平からすると、惟喬親王は妻の従兄弟にあたりますね。

ここで、我々はハッとしなければならない。伊勢物語に出てきた斎宮、恬子内親王は、惟喬親王の妹だって話でしたよね。つまりあれって、在原業平が、妻の従兄弟にあたる斎宮と恋をしていたって構図になるわけですよ。そしたらなんか、急に色々リアルになってくるでしょ。冒頭で、お母さんから手紙が来て、「今回狩の使いでそっちに行く人は特別だから丁重に扱うんですよ」とか言われてたのも、あーそっかーそういうことかーってなりますよね。

当時の読者たちも、多分そう思った。もともと繋がりのあった女性なら、たとえ斎宮でも、なんかあった可能性はゼロじゃないかも。あの業平なら。って思った人たちが一定数いて、だからね、恬子内親王と業平の間には隠し子がいたっていう俗説が、まことしやかに語り継がれてたりするんですよ。

これちゃんと実在した貴族で、高階師尚っていうんですけど、なぜ二人の間の子供が高階って家の子になってるかっていると、当時斎宮のお世話を担当していた責任者の一人が高階氏の人間だったんですよね。つまり、この世に存在しちゃいけない子供を斎宮が産んでしまったから、彼女のそばにいた人間が引き取って自分の子供と偽った、っていう理屈です。

この俗説は結構のちの時代まで影響力を持っていて、皆さんは、高階の一族について、何か思い出すことがありませんか? 私も以前、一度だけ話したことがあると思うんですけど、高階貴子って女性が、結構重要人なんですよ。彼女はあの、中宮定子の母親に当たる人物です。清少納言の主人であり、一条天皇の妻だった人ですね。

だからこれ、あの有名な中宮定子が、実は業平と斎宮の隠し子の末裔だったって話なわけで、結構なスケールのゴシップなんですよね。無茶苦茶なこと言ってるんですよ。この件については他にも色々関連するエピソードがあって面白いので、興味が湧いた人は自分で調べてみてください。

こういうことを本気で語り継がせてしまう不思議なパワーが、伊勢物語にはありますね。そしてそれが、藤原高子とか、恬子内親王みたいな、時代の犠牲者とも言えるような人たちを題材にしているところが、私は好きです。

恬子内親王って、おそらく当時の人々にとっても憐れむべき女性で、だって彼女は、兄である惟喬親王を蹴落として即位した清和天皇のために伊勢へ降ったんですよ。あんまりじゃないですか、それって。

当時のしきたりだと、斎宮が平安京を出発するときには、天皇と対面して、最後の別れの儀式を行います。しかし清和天皇は、物忌みを理由にしてこの儀式に出席しませんでした。これもひどい話ですよ。

彼女の人生の一ページに、理性も常識も越えた、あの夢幻のような恋があったのだとしたら、それもある種の救いかなっていうふうに感じます。事実ではなく、ただの虚構だとしても。藤原高子のときと同じような締めくくりになってしまうんですが、やっぱりここに、伊勢物語の魅力が、ひとつ確かにあると思うんですよね。

以上が、恬子内親王をモデルにした斎宮に関するお話の解説です。最後に、少しだけ補足しておきます。この狩の使いの章段って謎が多くて、本気でちゃんと解釈しようと思ったら、複雑なことを丁寧にたくさん検討しなきゃいけないんですよ。けれど今回はそこを避けて、なるべく軽やかに、悪く言えば大雑把に話をしています。詳しいことに興味がある人は、ぜひこの解説を第一歩にして、専門の書籍や論文に目を通してみてください。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


この記事が参加している募集

#古典がすき

4,015件