紫式部の父親の話

藤原為時の話/中納言兼輔の孫/菅原文時/菅原道真の孫の弟子の娘/師貞親王の副侍読/蔵人/受領就任への王手/陣定/巡任/花山天皇の退位/紫式部の少女時代、突然の父無職/散位/位録/一度きりの晩婚/返り咲く為時/今昔物語/古事談/十訓抄/除目/申文もてありく/歌徳説話/淡路守から越前守へ/大江匡衡/出世しすぎず人生全うした道真/赤染衛門の夫/なんとかしてやりたいやつリスト/三蹟が一人にして一条朝の能吏、藤原行成/『権記』/藤原実方/職場の同僚のズボン無理矢理脱がせて捨てる/蔵人頭への抜擢/受領階級の娘、紫式部

【以下文字起こし】

さて、今回は源氏物語解説の番外編として、紫式部のお父さんである藤原為時について話そうと思います。行為の為に時間の時で為時です。

前回、雨夜の品定めとの関連で、受領階級について話しましたね。そして、藤原為時は受領だったから、紫式部は中の品、中流階級ど真ん中の家柄の女性だったんだって話をしたんですが、実のところ、事はそう単純でもない。

大事件だったんですよ、平安貴族社会にとって。何がって、紫式部のお父さんが受領になったことが。意味わかんないでしょ、でもこれすごく面白くて、かつ、当時、受領になるってことがどういう意味を持っていたのかとか、紫式部の人生が若い頃どんな感じだったのかとかがついでにわかってちょうどいいので、少し時間をとって、ゆっくり話してみましょう。

あ、ちなみに、今回は説明の都合上、菅原道真やその周辺人物の名前が頻繁に登場します。もし、まだ聴いたことがない人は、以前公開した「菅原道真と古今和歌集の話」を聴いておくと、今回の話の通りがよくなるかもしれません。

さて、藤原為時は、藤原兼輔というそこそこ立派な貴族の孫にあたります。兼輔は醍醐天皇の治世を生きた人で、和歌が達者な文化人だったから、古今和歌集の選者である紀貫之たちなんかと仲良くつるんでいたらしいです。日本史の授業で習うほどの有名人ではないが、百人一首に「中納言兼輔」って名前で歌を取られているから、知ってる人は意外と多い。

そう。この人、中納言だったんですよ。つまり公卿です。結構ランク高いですよね。最終的な位階は従三位。三位ですよ。大したものですね。

しかし彼の息子はイマイチパッとしなかった。父と同じく和歌はよくできたけれど、位階としては五位止まりでした。そんな男の三男にあたるのが為時です。

当然彼も文化人だった。そして若い頃は、菅原道真なんかと同じように大学寮というところに入って、中国の歴史や文学を学んでいました。彼に学問を授けてくれたのは菅原文時という先生で、これはなんと道真の孫にあたる人物です。

面白いですよね。紫式部の父親って菅原道真の孫の弟子なんですよ。あぁ、時代は違えど、同じ世界で生きてたんだなぁって、思いますよね。

為時はどうやらそこそこ優秀な学者だったらしく、二十代後半に、とある重要な仕事を任されます。侍るに読むって書いて、「じとう」とか「じどく」って呼ぶんですけど、これはね、天皇とか皇太子に勉強を教える先生なんですよ。厳密にいうと為時は副侍読だったのでメインは他にいたんですけど、それにしたって名誉なことです。

彼が学問を享受した相手は、師貞親王という皇太子でした。この人が帝に即位すると、先生役だった為時は一気に出世街道へ乗り出します。

式部丞になったのもこのタイミングでのことです。おまけに彼は蔵人という仕事も兼ねていました。蔵人っていうのは蔵、お地蔵様の蔵の字ですね、に人と書くんですけど、これはね、天皇の秘書みたいな仕事です。秘書ってその人の近くにいないと成立しない役割だから、まだ昇殿が許されていないはずの六位とかでも、特別に許可が降りて、帝に接近することができました。

式部丞かつ六位の蔵人。これはね、もう王手です。何に手が掛かっているかというと、受領への就任がね、もうほとんど確実な未来として内定されている。意味わからないと思うので、少し理屈を説明しましょう。

前回お話ししたように、責任と権力を大きくすることで、各地方の税の徴収を一任されたのが受領って存在でした。彼らは任期である4年間の間に担当地域の人々をうまく掌握して、定められた納入品さえ都に送れば、あとはある程度の自由が利いたので、己の財産を蓄えることができた。

けれど別に、朝廷も受領のことをほったらかしにしていたわけではなくて、むしろかなり厳密な査定と任命システムによって、受領人事は管理されていました。つまり、地方のことは受領にまかすけど、その受領のことは国がきっちり管理するから、結果的にそれは国が地方をきっちり管理してるようなもんだよねって仕組みです。

受領がちゃんと役目を果たしたか審査する話し合いは、「陣定」と呼ばれる会議の中で行われました。平安時代の会議って、時代によって結構形が変遷していて、中には段々形骸化していったものもあったんだけれど、この「陣定」は滅茶苦茶ちゃんとしていたらしい。何が違うかっていうと、参加者全員に発言権があるんですよ。他の会議だと、なんかもう、偉い人たちが裏で色々決めちゃってて、他の参加者はただ黙って座ってるだけ、みないなのも多かったらしいんだけど、陣定ではちゃんとみんなに発言を求めたそうです。

面白いのは、逆にそのせいで、陣定を欠席する貴族がいたってことですね。なんとなく、気持ちわかりますか? 今でも、苦手な人いますよね。授業中とか、職場の会議とかで、全員一回は何か発言してくださいねーっていわれて、凄まじくプレッシャーを感じる、みたいなね。下手なこと言って、周りの人に笑われたらどうしよう、とか、誰かと利害対立したらどうしようって、緊張感を抱く人、いると思うんですけど、おんなじような感覚で陣定への出席を避ける貴族もいたと。

ただ、そんな陣定も、受領の審査を行うときだけはめちゃくちゃ出席率が良かったらしい。これも面白いね。みんな気になるんですよ、受領人事が。当時の人々にとって、それだけ重要な問題だったってことです。

いろんなデータをもとに議論して、全会一致で合格って判定されると、勤め上げた受領は出世することができました。逆にここでアウトを宣告されてしまうとキャリアが行き詰まるわけで、貴族やその一族にとっては人生かかってるんですよね。

こんな感じで、受領の査定はかなりきっちり行われていたようなんですけど、もっと手前の段階として、誰を受領に任命するかってことについても、しっかり規定が設けられていた。これを受領巡任といいました。巡るに任せると書いて巡任です。

これどういうことかっていうと、受領予備軍のポストっていうのが決まってたってことなんですよ。そのポストについてる人たちは、次ランクアップしたら受領だからね。もう少しだけ待っててね、って仕組みになっていた。

具体的にいうと、蔵人、式部丞、民部丞、検非違使、外記、史、あたりのポストが受領予備軍でした。だからさっき、藤原為時は王手だって言ったんです。彼は式部丞であり蔵人でもあったから、次は絶対どこかの受領だって、周囲も本人もおそらく思っていた。

しかし、こんな順当な流れで受領になったならば、為時の人生が大事件として歴史に刻まれることもなかった。違うんですよ、彼は。なれなかったんです。受領に。

どういうことか説明しましょう。

為時の人生は、皇太子の副侍読になったことによって花開きました。しかしそれは、彼にとって不幸の原因でもあった。結びついた相手が良くなかったということです。

彼が学問を授けた師貞親王は、即位して花山天皇と呼ばれる帝になりました。憶えていますか? 花山天皇。一条天皇より一つ前の代の帝で、非常に複雑な人生を歩んだ人のため今回詳細は省きますが、結論だけ言うと、彼は即位後、わずか二年で退位しています。そしてそれは、退位させられたと表現した方が、おそらく事実に近い。つまり、政治的な争いに巻き込まれて、敗れて、表舞台から排除されてしまったんですね、花山天皇は。

当然の流れとして、天皇の側近だった貴族たちは、彼が退位した後、官職を剥奪されていきました。寛和2年、西暦にして986年のことでした。

紫式部、当時華の17歳。突如として父無職。

まぁ、紫式部が生まれた年については諸説あるようなので、17歳と言うのは一説に過ぎませんし、為時の状況を無職と表現するのは言い過ぎだと思いますが、それに近しい悲惨さではあったと想像されます。

散位って概念が存在するんですよね。散る位って書くんですけど、位階だけもらってて、具体的な官職が割り振られていない状況のことを指します。位禄っていう、位階に合わせた給料みたいなものは貰えたから、完全無収入になるわけではないんだけど、官職がもらえないっていうのは、やっぱりきつい。そしてなんとここから約十年、彼は散位のまま政治的に不遇の時代を過ごします。

これ娘も辛いんですよね。だって、自分が10代後半とか20代の間、親父ずっと無職なんですよ。どんな気持ちで、何を話して、日々暮らしていたんでしょうか。

紫式部の人生についてはいろんな研究者がいろんなことを言っていて、彼女の結婚生活についても、諸説あるんですが、今回は、生涯に一度だけ、大変年をとってから結婚したようだ、という説を採用して話します。長徳4年、西暦にして998年頃に、彼女は結婚したと考えられていて、986年に17歳だったとするなら、30歳手前ギリギリでの結婚です。当時としてはかなり遅い。

晩婚の原因にも諸説あるわけですが、普通に考えてまぁ、親父の不遇も原因の一部ではあったでしょうね。だから逆に言うと、父親である為時が貴族としてようやく返り咲いたからこそ、紫式部は結婚できたとも言える。そしてその、返り咲き方こそが、大事件として、数多の古典作品に書き残されているんです。

『今昔物語』とか、『古事談』とか、『十訓抄』とか、平安後期から鎌倉時代にかけて多くの説話集に似たようなエピソードが収録されています。今回はそのなかでも古事談の記述を引用してみましょう。

一条院の御宇(ぎょう)、源国盛、越前守に任ぜらる。其の時藤原為時、女房に付けて書を献(たてまつ)る。其の状に云はく、苦学寒夜紅涙霑袖、除目春朝蒼天在眼、云々。
(苦学の寒き夜、紅の涙袖を濡らす。除目の春の朝、蒼天に眼在らん)
 天皇之れを覧(みそなは)して敢へて御膳を羞(すす)めずして、夜の御帳(みちやう)に入りて涕泣(ていきふ)して臥し給ふ。左相府(さしょうふ)参入して、其の此(か)くの如くなるを知りて、忽(たちま)ちに国盛を召して辞書を進(たてまつ)らしめ、為時を以て越前守に任ぜしむ。国盛の家中は上下啼泣(ていきふ)す。国盛此れより病を受け、秋に及びて播磨守に任ぜらると雖(いへど)も、猶ほ此の病に依りて遂に以て逝去す、と云々。

これ何言ってるかって言いますと、一条天皇の時代に、源国盛って人が、越前守に任命されましたと。要は受領になったってことですね。そのとき藤原為時は、女房を通じて、帝に手紙を献上したという。そこには次のような内容の詩が書かれていた。

貧しい中で懸命に学問へ励む寒い夜、紅色した血の涙が私の袖を濡らします。除目が残念な結果に終わった春の朝、真っ青な空が目に染みるのです。

これをご覧になった帝は食事も喉を通らなくなり、布団の中で泣き伏すようになってしまわれた。感動して、憐れんで、胸が苦しくなったってことですね。

そこに左相府、これは当時左大臣だった藤原道長を指します。が現れて、事情を知ると、即座に国盛を呼び出して、越前守を辞退する文書を提出させ、代わりに為時を越前守に就任させた。

国盛の一族は上から下まで皆声をあげて泣いた。これがきっかけで国盛は病となり、秋には改めて播磨守へ任命されたけれど、そのまま病気で死んでしまった、という話です。

これめちゃくちゃ面白くないですか。おいおい人死んどるやんけって、思いますよね。

途中出てきた除目って言葉は、目を取り除くって書いて除目と読むんですけど、これがね、人事異動の発表会なんですよ。人生かかってますから、除目のシーズンになると、平安貴族とか役人たちはみんなソワソワする。

『枕草子』にも、「除目の頃など、内裏わたりいとをかし。雪降り、いみじうこほりたるに、申文もてありく」って文章がありますね。申文っていうのは、次の除目で私のことをいい感じに出世させてくださいってお願いする手紙のことですね。だからさっき紹介した古事談のエピソードで、為時が帝に送ったやつも、ある種の申文なんですよ。

ちょっと変わっているのは、詩を書いて送ったことですね。以前、伊勢物語の話の時だったかな、当時の人々の間には「歌徳」って考え方があって、優れた歌には人の心や物事を動かす力があると信じられていたんだって話をしましたけど、まさにこれも歌徳説話ですね。和歌ではなく漢詩ですけど、その力によって一条天皇の心を動かし、人事を捻じ曲げ、結果的に国盛を殺したというエピソードになっております。

まぁ、これはあくまで説話なので、事実とは異なる部分も多々あると思いますが、為時の越前守就任という事件が、いかに人々の心を動かし、興味を集めたかっていう、そのインパクトの大きさだけは、なんとなく窺い知ることができます。

ちなみにいうと、為時って実際は、一旦淡路の守に任じられたようですね。だけど淡路って小さい国で、嬉しくなかったから、大国である越前守にしてくれって申文を出したら、それが望み通り採用されたらしい。

あと古事談の中では、泣き伏せっている一条天皇を見た藤原道長が、即断即決で為時を越前守にしたってことになってますけど、これもおかしな話ですよね。泣いてる天皇なんとかするために人事ねじ曲げるなんて実際はありえないはずだから、本当はもっと現実的な事情や理由が、道長の側にもあったはずです。

ここでね、とある重要人物を二人紹介しなければなりません。

一人は大江匡衡。大きい小さいの大に江戸幕府の江で大江。匡衡は、ちょっと口で説明するの難しいから自分で調べてください。

大江氏っていうのは学者の家系でして、菅原氏が道真の代で没落してからは、その道のトップオブトップになったと言っていい。

大江匡衡はそのなかでも比較的立派な人でして、おおざっぱにわかりやすく説明するならあれです。菅原道真が、右大臣ほど出世し過ぎずに、程よいところで人生全うしたら匡衡みたいになります。文章博士やってるし、地方の政治家としても有能だったと評判だし、式部省の長官もやってるし、道長みたいな有力貴族に頼まれて文章の代作もたくさんこなしてる。似てるでしょう? いろいろ、道真と。

匡衡本人はもっと出世して公卿になりたかったみたいですが、四位の位階で終わったことも、ちょうど良かったんじゃないかと思われますね。

百人一首が好きな人に向けて情報を細くしておくと、この人は赤染衛門という女性歌人の夫としても有名です。匡衡本人も、和歌と漢詩、両方良くできたらしい。

これがね、非常に大事なんですよ。成功した文化人なんです、大江匡衡って男は。和歌できて、漢詩できて、学者としても一流で、上流貴族たちとも繋がりがある。そんな匡衡は、自分と同じような文化人なんだけど、自分と違って政治的には全然成功していない奴らのことを、もったいないな、なんとかしてやりたいなって思っていた。

その「なんとかしてやりたいやつリスト」の中に、実は藤原為時も入っていました。交流あったんですよ。為時自身、文化的な素養の豊かな人だったから。

ちょっと素敵でしょ、これ。ここでね、為時のおじいちゃんが中納言兼輔だったってことが効いてくる。祖父は勅撰和歌集に50首以上歌をとられる大歌人で、一方のお父さんは大して出世しなかったけど、それでも和歌の素養だけはちゃんと受け継いでくれていて、そのおかげで為時は、和歌と漢詩の力を頼りにして、上流貴族へのコネクションを手に入れるんです。

さっきも言ったように、大江匡衡は藤原道長とも直接繋がりがあったようなんですが、為時たちのことは、一旦道長とは別の人に相談したらしい。その相手というのが、もう一人の重要人物である藤原行成でした。

知ってますか? 藤原行成。行動力の行に成長期の成と書くので、藤原「ゆきなり」と呼ぶこともあります。彼は大変な能書家、書道の達人だったので、日本史の授業では三蹟の一人として習いますね。

でも行成はそれだけじゃなくて、政治家としても大変有能な人でした。めちゃくちゃ几帳面でね、冷静で、落ち着いていて、一条天皇や藤原道長の時代に政治の中枢で大活躍した人物です。

彼は何が偉いって、日記を丁寧に書いてくれていたことが偉いんですよね。『権記』っていう史料なんですけど、これのおかげで我々は、平安中期って時代がどんなものだったかを詳細に知ることができています。中宮定子とか清少納言とも関わりが深くて、ほんともう、行成を追っ掛ければこの時代は大体わかるってくらい面白い人物です。

ちなみに、多分実話ではないだろうと言われていて、実際私もそう思うんですけど、行成に関するエピソードでめちゃくちゃ好きなやつが一つありまして、完全な余談になってしまうんですが、少しだけ時間をとって紹介させてください。

ある日ね、藤原実方っていう貴族が、宮中で行成とすれ違ったんですよ。このとき実方は、何らかの経緯で行成に個人的な恨みがあったらしくて、すれ違いざまに突然、無言で行成の冠を打ち落として、そのまま庭に投げ捨てました。

これとんでもなくやばいことなんですよ。わからないでしょ、今の感覚だと。

当時、男性の貴族にとって冠とか烏帽子っていうのは非常に大事なもので、なぜかっていうと、人前で頭部をさらすことが、極めて無礼で恥ずかしいことだと思われていたからなんですね。恥部だったんですよ、頭が。

なので現代に置き換えると、職場ですれ違った同僚のズボン無理やり脱がせて窓の外に捨てる、みたいなことを、実方はやってしまったことになる。

だけど行成は凄まじくて、全く動揺しないんですね。極めて冷静に、捨てられた冠を回収して、今でいう櫛にあたるような道具を徐にとりだしてね、髪型整えて、冠被り直して、こんなことを突然される心当たりがないんですが、まずは理由を教えてくれませんかって尋ねるんですよ。やばいでしょ、職場でズボン脱がされて捨てられてるんですよ。なんだその、落ち着き払った態度は。

このやりとりを実は一条天皇がこっそり見ていて、「藤原行成、あいつすげーな」ってことで、彼は蔵人頭に抜擢されたんだとさ、というのが、古事談や十訓抄に収められている面白エピソードです。

まぁこのエピソード自体は多分創作なんですけど、行成が蔵人頭に抜擢されたことは事実でした。これはさっき説明した蔵人、天皇の秘書ですね、の長官に当たる重要なポストです。

藤原行成って、実は花山天皇の側近をやっていたこともあって、そういう意味では藤原為時と同じ危うさを味わった人物なんですよ。だけど行成の方は色々前向きな要因が重なった結果、為時よりも随分早く立身出世を重ねていくことができていました。なにより本人が有能ですからね。帝からも他の貴族からも、大変信頼されていた。そんな彼の口添えなら、帝に対しても、道長に対しても、そこそこ強い影響力があったことでしょう。

こうして、当時文章博士だった大江匡衡や、蔵人頭だった藤原行成の後押しによって、藤原為時は越前守として政界復帰を果たしました。晴れて受領になったわけです。娘の紫式部も、父の越前行きに同行したと言われています。

このあと彼女は結婚したり、源氏物語を描いたり、中宮彰子の女房になったり、いろいろと波瀾万丈な日々を過ごすのですが、それはまた、別の機会に話しましょう。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。


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