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読み方全く違うと思う過去の【書評】

①「とりあえず寝る」の効用〜『ドルジェル伯の舞踏会』

 子どもが何かを主張してぐずると「眠いんだね、もう寝よう」。夫がげっそりした顔で職場の愚痴を言い出すと「今日は早く寝た方がいい」。仕事を家に持ち帰った深夜、煮つまってきたら「ちょっと寝るかな」。解決方法が分からない問題の対応として「とりあえず寝る」を選ぶ人は私だけではないはずだ。問題を先送りしているといえばそうだが、意外と次の日には解決していたり、あるいはもっと大事なことに気づいたり、といったことはないだろうか。
 アンヌ・ドルジェル伯爵が主催する仮装舞踏会が最大の山場となるラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』。主要人物はドルジェル伯爵以外に二人いて、一人は彼の妻・マオ。そしてもう一人はフランソワ・ド・セリューズ青年である。偶然と思惑が重なって、フランソワとドルジェル夫妻は懇意になる。フランソワはマオに少し気があるらしいが、ドルジェル伯は全然平気だ。というか、そんなことどうでもよく、彼が執心するのは舞踏会を成功させることなのだ。どんな衣装で、どんなパフォーマンスで客人達の心をつかむか思考する。ドルジェル伯の単純な心理と対をなすように、マオとフランソワの心は複雑。どれくらい複雑かというと、互いに自分の恋心を自覚しつつ、相手の自分への気持ちも知っているが、自分が相手を好きなことも、また相手が自分を好きであることを知っているということも、相手は知らないと互いに思い込んでいる、という状況・・・かなり複雑でしょ・・・。そんな心中などわかるわけもなく(誰もわからん)、ドルジェル伯は肩掛けターバンを抱えて舞踏会の会場を右往左往。あの人アラビア人になるんだろうなーと、思ったかどうかはわからないが、静かに視線を送るマオとフランソワが目に浮かぶ。
 道ならぬ恋をする二人にとって、ドルジェル伯の貴族的生活なんて、滑稽に見えるだけだろう。しかしながら、二人に“夢のように空虚な”貴族的生活を捨てられるほど生命力があるかは疑問だ。それなのに、マオは夫に自分の本心を打ち明けてしまう(なぜかフランソワの母にも)。それに対するドルジェル伯の解答は、なんと“とりあえず寝ろ”だ。私はハッとした。そうかこの人は、夢から覚めては生きていけないことを自覚していたのだ。この一言によって、不安な気持ちを打ち明けられずにいられないマオが子どもっぽく、単なるおもろいおっさんだと思っていたドルジェル伯が妙に偉大に思えたのであった。おそらく、しっかり眠った後のマオは、フランソワのことは結構どうでもよくなっているに違いない。(2018年頃?執筆)

②金閣寺=オカン説~『金閣寺』

 戦後(昭和25年)に起こった金閣寺放火事件を題材に書かれた長編小説、ということは知っていました。ノーベル文学賞候補と言われていた三島由紀夫の代表作ということで、過去に何度か手に取ってページをめくったこともあります。が、冒頭から不穏な空気、不吉な予感しか感じられず何度も挫折。他の三島作品は結構好きなのに。今回初めて通読しました。
 主人公である青年僧・溝口は、金閣寺のもつ「美」に憧れ、その美を憎みながら放火します。犯人の告白という体裁で、哲学的な思索や美への考察が披露されております。研ぎすまされた筆致、壮麗な文体、明晰なロジック、完璧な構成、これぞ、日本文学が誇る不朽の名作!! わかっています、わかっていますが、ちょっと私、笑っちゃったところがありまして…。柏木、溝口、令嬢、下宿屋の娘でダブルデートをしたときの話です。溝口が下宿屋の娘と二人きりになり、ようやく娘の着物の裾へ手を伸ばすというまさにその時、二人の間を割って邪魔をしに入るのがなんと、金閣寺(!)。建物かよ!!この展開は斬新すぎました。その後、別の女性の乳房に金閣寺が出現するという場面もあり、その時から私にはもう、金閣寺が、息子の部屋にノックしないで勝手に入るオカンにしか思えなくなってしまいました。ごめんなさい…。
 しかし、金閣寺=母親と見立てると、面白いことに気づきます。溝口は実母については、幼少の頃に不倫現場をみてからというもの、汚らわしいものと一貫して認識しています。代わりに金閣寺を、美しく知的な理想的な母に見立てていた(建物ですが)、のかもしれません。金閣寺に火を放つのは、自分を縛る者への愛着と反発が入り乱れて爆発するという、いわゆる自立前の子どもの「親殺し」という通過儀礼、なのかもしれません。溝口は金閣寺に火を放った後、最上階の究竟頂という部屋で、火に包まれて死のうとします。まるで子宮回帰願望。しかしながら死ぬことを拒まれて、山の頂きに駆け上がります。大方の読者はここで溝口の自死を予感するのですが、実はこのときの溝口は母なる金閣寺から再び生まれた新・溝口だったのです。静穏に「生きよう」と思う強さを獲得していたのでした。三島は溝口に生きることを望んだのです。小説のラストの一文は、これを読むための読書体験だったのだと、しびれました。(2017年12月執筆)

③素人探偵におくられた都合良すぎる展開〜『ゼロの焦点』

 生誕100年を迎え、にわかにブームとなっている松本清張。その代表作ともいわれているのが『ゼロの焦点』である。新婚一週間で失踪した夫・鵜原憲一の行方を追って、妻の禎子が暗くもの悲しい北陸へ赴くというミステリー。憲一の二重生活、パンパンと呼ばれる女性たちの悲しい過去などが徐々にあらわになり、第二、第三、第四の殺人が起こる。
 と、ここまでお知らせしただけで、察しのよい方は途中で犯人が分かってしまうに違いない、と思うほどミステリーとしての出来はいまいち。あげ足を取ると切りないが、例えばクリーニング屋で上着を変えることは、二重生活を隠すための重要ポイントなのかとか(名札はずせば?)、女性が男性を崖から突き落とすのはとび蹴りぐらいしないと無理なんじゃなかろうか(崖っぷちを歩いていたわけでもあるまいし)とか、どうしてウィスキーを都合良く飲むのか(特に本多)とか、元パンパンとすぐにバレる英語を話す久子をなぜ受付に置く!?とか、これ以外にも突っ込みどころは多々ある。
 が、そこは松本清張。余計な描写がほとんどない、淡々とした的確な文章ですいすいと読ませる。本多と禎子の間にちょっとした恋心が芽生えるか!?と思いきや、ロマンスは一切なし(速度が落ちるから?)。スピードがつけば些細なほころびも目に入らないから不思議だ。文章の流れと物語の進み方がうまくかみ合っている感じが心地よい。そもそも素人探偵である禎子が事件の真相に迫るというだけに、解決までの筋書きが不自然なのは仕方ないのだ。というかほとんど禎子の推測なので、実はこの事件、解決していないのかも。
 二つだけ何を示唆しているのか分からない不思議な描写がある。それは室田氏の会社にやってきた禎子を受付の久子がじっと見つめるシーンと、憲一が持っていた二枚の家の写真。どちらも思わせぶりな描写であるため、重要な事柄の伏線だろうなと思っていたのに、納得のいく説明がされないままエンディングに。松本先生、書いたときは何か考えていたに違いないと思わせるだけにしっかり解説してほしかった。欲を言えば、禎子の推測でなく、犯人の口から事の真相を全て聞いてすっきりしたい。能登の寒々しい海を景に“完”と思いきや、引き潮で室田夫人の小船があれよあれよと戻ってくる、なんていうのはどうでしょうか?(2009年執筆)

※超売れっ子作家であった松本清張は、当時連載を何本も抱えていたため、他の作品と途中でごちゃごちゃになったり、回収しようとしていた伏線を忘れたりということもあったに違いない、と私は思っている。。。

④周りと感性が合わないと思っている中学生へ〜『不気味な話1 江戸川乱歩』

 江戸川乱歩というと、探偵・明智小五郎と少年探偵団が活躍する「怪盗二十面相シリーズ」が有名。それ以外の作品は「子どもには相応しくない」という理由で、表現をぼかして刊行されている本も多いようです。しかし、中学生ともなれば立派な大人。ぜひ“エロ・グロ・猟奇方面”の乱歩作品を読んでみましょう。かくいう私も、このような乱歩作品を読むようになったのは中学一年生の頃。読んだ後の率直な感想は「これ書いた人は変態だ」で、その認識は今でも変わりません。不気味でゾクゾクし、つい読み進めてしまう素敵な気持ち悪さでした。
 乱歩の短編集は世に多くありますが、アブノーマルな作品がセンスよく収められている本として、『不気味な話1 江戸川乱歩』(河出文庫・1994年)をあげます。私の大好きな「押し絵と旅する男」「人間椅子」「お勢登場」などが含まれ、かなりなお得感。人の皮をかぶって変装したり、好きな人の椅子の中で様子をうかがったり、乱歩の話は「いい大人の考えることか?」というような小学生並みの滑稽なトリックを基本としていますが、登場人物たちの狂気に(常人の想像の一歩先を行く変態性に)、「細かなことは気にすまい」という気分になり、小説の中の現実と幻想の境界線が曖昧になっていくのです。そして不思議なことに、描かれる妖しく歪んだ世界は、薄気味悪い恐怖を与えるだけでなく、はっとするような美しさを見せる時があります。
 中学生諸君の中には、他人と感性が会わない自分を持て余している人もいるかもしれません。私もそうでした。しかし乱歩と比べたら自分の変わり者ぶりなど、まだまだ序の口だと思わざるを得ないでしょう。こんなに変態なおじさんは、相当生きづらかっただろうと私は思いました。しかしながらこのおじさんは、大正から昭和初年という戦時中にあって、一般大衆に大歓迎されました。なぜ?? 意外と日本人の“変態キャパシティ”は大きいことがわかります。あるいは乱歩の小説は“頭の中で何を想像しても自由”なことを保証してくれているともいえます。死体の皮をかぶって変装しても、小説ではなんの問題もありません。想像力と小説の可能性、「江戸川乱歩ほど私は変態ではなかった」という敗北感と安堵感を得られた13歳の夏の夕暮れでありました。
 乱歩の小説を読んで気に入ったら友達にも教えてあげましょう。だたしあまり推し過ぎると「この人ヤバい」と思われかねないので加減も大事です。(2013年2月執筆)

⑤「しろばんば=(イコール)洪作」説〜『しろばんば』

読書体験から導き出された法則の一つに、「冒頭がよい小説にハズレなし」というものがあり、井上靖『しろばんば』を読み始めた時も「お、これは名作の予感」と思ったが、私が改めて言うのも大層失礼なほど、名作との評価が揺るぎない作品なのである。薄暮の中を、綿屑のように舞う「しろばんば」。その小さな生きものを追いかける子どもたち。それぞれの家から帰宅を促す声が遠くに聞こえると、一人また一人と、子どもが順番に駈け去ってゆく。ノスタルジックな情景描写が、読者を一気に小説の舞台へと連れ去る。
物語は大​正​初期の​静​岡​県​伊​豆​湯​ヶ​島が舞台。​主​人​公​の​洪​作​は​、豊橋にいる父​母​と​離​れ​て​曾祖父の妾であるお​ぬ​い​婆​さ​ん​と​一​緒​に​暮​ら​し​て​い​る​。おぬい婆さんと洪作は赤の他人ではあるが、たっぷりと愛情を注がれ、幸せで穏やかな日々を暮らす。幼​児​か​ら​少​年​へ​と​成​長​し​て​い​く​洪​作​の​姿​が描かれた、​文​庫​で​5​79​ペ​ー​ジ​の​長​編小説。
主人公はまぎれもなく洪作だが、物語を面白くしているのは湯​ヶ​島の外で出会う女性、あるいは​湯​ヶ​島とは違う風を運んでくる女性たちである。沼津の女学校を卒業し教師として湯ヶ島にやってきた叔母のさき子。豊橋に住む母の七恵。沼津で出会う大店の娘・蘭子。都会からの転校生であり初恋相手である・あき子。洪作は、彼女たちに影響され、反発やコンプレックスを抱き、それを克服する形で成長していく。
さて、そこで「しろばんば」である。この虫はアブラムシの一種で、雪虫、綿虫とも言われる。冬の訪れを告げる虫だ。実は普段はメスしかいない。成虫になると自分のクローンを生む(卵胎生・単為生殖)。ところが秋になるとオスが産み落とされるのだ。オスには羽が生えており、これが「しろばんば」の正体である。オスはその羽で新しい生息地を見つけ、そこで出会ったメスと交尾し、環境に適した強い子どもを生む。そう考えると、湯ヶ島を起点に行動範囲を徐々に広げ、外界の女性との触れ合いを通して飛躍的に成長する洪作は、まるで「しろばんば」のようではないか!「冒頭がよい小説にハズレなし」とともに、「冒頭に小説のすべてが表れる」という仮説も、これからの読書で検証する価値がありそうだ。(2010年頃執筆)


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