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ちょっと意地悪な批評を含む過去の【書評】

①植物好きの男子は無害という幻想〜『ボタニカ』

小学校を中退し独学で植物分類学を学んで、生涯に命名・発見した植物は1500種以上、収集した標本は40万点に及ぶ、日本の植物学の父・牧野富太郎。私が小学生の頃に読んだ偉人伝からは、植物を愛し、学歴がなくとも在野で研究に打ち込み、ついに東大の博士になった苦労人、科学者の鏡、少年の心をもつ純粋な人、という印象。でしたが、朝井まかて『ボタニカ』を読み、すっかり悪い方にイメージが変わってしまった。
 小説によれば、牧野富太郎は高知にお屋敷を構える裕福な造り酒屋のお坊ちゃまである。両親を早くに失い祖母になに不自由なく育てられた。大声の土佐弁でよく喋るお調子者だ。<わしは日本の植物学に取り組みゆうがぜ。今すぐ銭になるとかならんとか考えよったら、学問なんぞできん。P260>という富太郎の言葉は、もはや呪いの言葉だ。無自覚に大金を書籍や研究にガンガンつぎこむ。なぜかオルガンにもつぎ込む。正妻である従妹の猶は高知で一人酒屋を切り盛りするが、東京で東大に出入りする富太郎は、一回り下の少女スエに子を産ませる。それでも猶は無心されれば都合をつける。富太郎のせいで実家が破産すると、今度はスエが極貧生活の中で、富太郎の研究費の都合をつける。ちなみにスエは13人子どもを産んで、6人を育て上げている。スエの体どうなっているのか? 始終そんな調子で富太郎は傍若無人の限りを尽くす。
「天才とはその代償として、落剥している部分もあるのだな…」と悟り顔で私も言いたいところだが、ここまでひどいと嫌悪感しかない。現在NHKの朝ドラでも彼がモデルの話を放映中だが、主役をつとめる愛くるしい神木隆之介君さえも嫌いになりそうだ。もちろん、日本の植物学に大いに貢献しているのだろう。しかしその研究も、楽しい部分の植物採集や標本作りはするが、整理といった実務はしない、論文は書かないで、中途半端極まりない。きっと彼の功績を立派に整える作業は研究室の名もないポスドクとかがやったのだ。親しい人が離れていく描写も何度かあり、性格的に問題があったことがうかがえる。格下の南方熊楠に自分からは会いに行かないというプライドの高さにもびっくり。自分に都合のいい論理を優先し相手の立場を考慮しないなど、たしかに少年の心をいつまでも持ち続けてはいた……。
実在の人物をここまで外道として小説にするとは予想外であり、牧野さんの親戚から苦情が来ないかな……と心配になったが、いやいや、むしろここは“あけすけに書く”が正義。牧野富太郎の業績は、いろんな人の犠牲があっての産物だ。賞賛だけにとどめなかった作者の視点あっぱれである。晩年、新種の笹にスエの名前から「スエコザサ」と名付ける美談を聞いてホロっとさせられる、なんてことは断じてない。子を亡くした際に、スエを平手打ちした富太郎を、読者は絶対に許さないのであった。(2023年4月執筆)

②生きるために屠畜は必要なのか? 〜『世界屠畜紀行』

                                  肉を食べるという行為を当たり前に行っているが、動物を殺し肉にする「屠畜」については全くしらない。私を含め、日本ではそういった人がほとんどではないだろうか。確かにそれは、異様なことなのかもしれない。
『世界屠畜紀行』(内澤旬子著・角川文庫)は、自腹で世界各国を旅した著者が、屠畜現場を詳細なイラストとルポで表現している本。今まで誰も描かなかった「屠畜」をテーマにしたとあって、1万5,000部を超えるヒット作となったらしい。さばかれる動物は、牛、豚、羊、犬、ラクダと幅広い。また、著者のもう一つの関心は、食肉産業に者対するに差別があるかないか。現場で働く人々の話にも熱心に耳を傾ける。
 この本を読むと、自分たちの命の糧がどこから来ているのかを考える必要性を強く感じるが、一方で物足りない部分も多い。屠畜と差別問題については「差別するのが理解できない」という主張の一点張りで、差別する側の心理は考察されない。差別がない国に関しては「ないのは当然」で終わってしまう。著者は納得しているのか。あるいは詳しい話を出版できない理由があるのか。
 また、「生きるために生き物を殺すのだから、屠畜は当然の行為で目をそらすべきではない」という主張もそこで筆者の思考がストップしている。肉を食べなければ生きていけない人種はごくわずかであるし、限りある地球資源を考えるなら、肉食は効率が悪く環境に負荷がかかる行為である。屠畜が生きるために絶対に必要な行為とはいえないだろう。また屠畜現場を見ていられることが成熟した人間であるかのような書き方も気になった。
 実は私は先月、昆虫食の会に参加してきた。イナゴ、ハチノコは序の口で、トノサマバッタ、蜘蛛、スズメバチ、サクラケムシ、カイコ、カミキリムシ(幼虫)、ゴキブリなどを食べるというおぞましいイベントである。主催者は昆虫愛好者。彼らは昆虫が大好きで、愛するあまり食べるにいたったという。昆虫食とは、究極の愛の形なのか、珍しいものを食べてみたいという欲求なのか、こんなものが食べてしまえるという自己の驕りや誇示なのか。人の食べるという行為の複雑さを感じていただけに、この本の底の浅さが気になった。屠畜の現場へ行き、その様子を詳細にレポートすること以上のことはこの本には書かれていない。(2013年ごろ執筆?)


③感動から、知らず知らずに戦争肯定へ!?〜『永遠の0』


百田尚樹氏に印税を払いたくない私は、わざわざ古本屋を回って『永遠の0』を買い求めたが、正月休みで帰省した実家に同じ本が置いてあり(借りればよかった!)、ベストセラーの力を思い知る。なんとなしに家の者に感想を聞いたら「面白かった!」(父)、「感動して涙が出た」(妹)、「分厚くて途中でやめたが、面白そうな予感がする」(母)など、極めて好意的。みんな、百田尚樹にだまされてないか!? 
司法浪人生の主人公・佐伯健太郎が、フリーライターの姉・慶子に頼まれて、神風特攻隊として戦死した祖父・宮部久蔵の足跡をたどるという物語。祖父を知る9人の戦友たちからは、敗戦間近の太平洋戦争と知られざる宮部久蔵の素顔が語られる。軍人でありながら戦争に反対し、生きることに執着する宮部。それにも関わらず特攻に志願したのはなぜか。
語り部たちは情調で、闘う男たちの熱い友情や、家族愛に満ちたシーンなど、泣かせどころもある。しかし何かが引っかかる。たぶんそれは特攻での死を愚かさから美徳へとすり替える作者の意図が見えるからだ。特攻で散った男たちのエピソードをこのように抜き出し、愛や絆を織り交ぜて脚色することは、戦争を美化することにつながりはしないだろうか。
己を犠牲にするひたむきな心情に感動し、日本兵を追悼する気持ちを否定するつもりはない。しかし、こうした人々の武勇伝が今の平和な日本をつくったというレトリック(P297)はありえない。太平洋戦争では日本兵の6割以上が餓死・病死したといわれているし、戦後の日本の復興は、戦争への加害者としての深い反省の上にある。戦争を題材にした小説に「不戦の誓い」が根底にあるのは当然としても(なければ何を伝えようというのか)、この小説には被害者としての視点しか描かれていないし、もしも宮部が神々しくうつれば、戦争肯定に導かれるという危うさも感じる。そう、この小説はなんだか「危うい」のだ。狡猾な作者の術中にはまって感動し、「兵隊さん、かっこいいなあ」などと間違っても思わぬよう、注意して読みたい本である。(2014年11月執筆)

④150冊読めば、偉いおじさんとお話できます。〜『必読書150』

 10年前から私の本棚にひっそりとある『必読書150』(太田出版・2002年)は、柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎、奥泉光、島田雅彦、絓秀実、渡部直己といった錚々たる顔ぶれが選んだ、若い人たちにぜひとも読んでほしい本のリストである。柄谷いわく「この程度の本を読んでいないようなものはサル」(P7)だそう。奥泉は「僕たち自身が、このリストに載っているような書物の言葉をめぐって、人との関係を持ちたい」(P21)と低姿勢であるが、その他の選者の基本的なスタンスは、若者よ、「読んだら(俺たちが話に)つき合ってやるよ(島田)」(P24)、なのである。
 そんな上から目線の知識人が選んだ150冊は、プラトン『饗宴』、マルクス『資本論』、ゲーテ『ファウスト』、坪内逍遥『小説神髄』といった極めてオーソドックスないわゆる“古典”。岩波文庫のリストかよ!という読者のツッコミもどこ吹く風で、親の仇のようにガンガン古典を薦めてくる。紹介文は一冊につき500字前後。短めで読みやすいが説明不足の感があり、ある程度作家なり作品なりの知識がないと意味不明。特筆すべきは「必読書150」の半分以上が絶版本というありさまで、もはや読者に読ませるためでなく、自らの教養をひけらかすためのリストなの?と思えてくる。細かなことをいえば、索引もなく、ネタバレも多く、翻訳物は難解な訳を薦める傾向があるしで、非常に不親切なのだ。
 とはいえ、まあ、読んどいた方がいいかもねという本が並んでいるのは事実。昔から面白い本がいっぱいあるのだなと単純に思わせられる。書物はエンターテイメントであるだけでなく、世俗的な権力に対抗する力があったことを認識したのであった。
 ただし、ラインナップに偏りがあるのは否めない。中国の本は2冊しかなく(選者の中に中国思想や文学の専門家がいない)、科学の本は1冊もない。科学書にだって世界観を変えるような名著はあるはずだ。選者が得意とする現代思想的な教養を授ける本だが、それだけでは“若者との議論の土台”としてバランスが悪すぎるのではないか。いやいや、年長者を敬う気持ちで読んであげるのがいいのかも。若者よ、150冊を読破しておじさんたちの話し相手になってあげて!(2012年1月執筆)


⑤「美しい祖国を守る戦争」は幻想で、実際はもっとぐちゃぐちゃだった〜『同志少女よ、敵を撃て』


第二次世界大戦で凄惨を極めたといわれる独ソ戦が開戦したのは1941年。『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著・早川書房・2021年)はその独ソ戦の最前線で狙撃兵として戦った少女が主人公である。1942年、大学入学を控えた少女セラフィマの暮らすイワノフスカヤ村がドイツ軍に襲撃される。陵辱されそうになった彼女を救出したのは、ソ連軍の女兵士イリーナだった。セラフィマはイリーナが教官を務める狙撃兵訓練学校へ入学。学校にいたのはセラフィマと同じく家族を戦禍で失った少女たちだった。純朴な少女たちは訓練を重ねるうちに、狙撃数を競い、敵兵を狩る喜びを語り、プロの狙撃手として成長する。やがて戦争の最前線へ送られる。
全てを失った少女は、憎悪と殺戮の連鎖に身を置く。「殺人生活」に適応するように少しずつ狂っていくなかで、セラフィマは思う。狙撃を続ける意味はなにか、その果てにある境地は何か、愛する人と生きがいをもつことが狙撃兵のゴールなのか、敵だと思った者が二転三転し、大義名分があいまいな中で、撃つべき本当の「敵」とは何かを考える。命を狙うものが敵か、倫理を崩壊させるものが敵か、尊厳を踏みにじるものが敵か、同調圧力が敵か、多くの疑問が投げられる。
人を殺しながらも、人間性を保つことは困難だ。訓練でイリーナが何度も繰り返す「お前は今、どこにいる?」という問いかけが重い。その問いに答えられる兵士がどれだけいるのだろう。物語の冒頭、女性が戦うのは平等思想からではなく、結局は同質性を強いる思想からではないのかと考えていたセラフィマは、ならば私は「女性を守るために戦う」と誓っている。その矜持を守るように、ドイツ人女性を陵辱しようとする旧知の友・ミハイルに銃口を向けるラストは衝撃的だ。ミハイルの部下・ドミートリーの「俺が、ミハイル隊長が戦った戦争は、一体なんだったのだろうか」という言葉がむなしく響く。
読後はすっきりせず、この物語を前に「反戦」という単純な感想は抱けない。現在世界で10カ国あまりが女性兵士の戦闘参加を許可しているという現実をどう受け止めればいいのか。お隣の韓国でも、男性だけに兵役を課すのは差別で、女性にも兵役を課すべきという議論があるそうだ。たしかに女性が兵士になることで、多様な視線にさらされて、様々な局面が改善される可能性はある(男社会がもたらす傲慢さとか、軍隊の貧しい人間観とか…)。いや、論点はそこか?なんだかモヤモヤする。(戦時下にあって人を救う選択をしたターニャの生き方が、わかりやすくまぶしい。)女性兵士の戦闘参加を許可しているという現実をどう考えるかという課題にまでこの小説は迫れていない。この読後の心の引っ掛かりを抱き続けることが大事なのだと思う。考える事をやめたときに、不穏な世の中が近づいてくるのだろう。(2022年1月執筆)




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